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コーエーテクモ社長・襟川陽一が語る「ゲーム産業ができる前」の話。「10本売れればいいな」と思って作った『川中島の合戦』は、1万本の大ヒットに。“近所のおばちゃん”を総動員してテープをダビング、ひとつひとつ手作業で発送していた

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ゲーム業界には、数々の偉人がいる。しかし、偉人たちが何を思い、何を考え、何を成してきたのか。その偉業を自らの言葉で語る機会というのは、決して多くない。

弊誌では、企画書に焦点を当てゲーム開発の現場を深掘りする「ゲームの企画書」や、時に開発者たちの半生にまでレンジを広げた長時間のインタビューを通じて、そういった偉人たちの言葉、考え、姿勢をお伝えしてきた。

今、その取り組みが新たな局面を迎えている。

2023年6月6日、日本財団とドワンゴは通信制大学「ZEN大学」の設立構想を発表した。角川ドワンゴ学園が設立したN高等学校およびS高等学校と同じく、インターネットを通じた講義をおこなう教育機関であり、2025年4月の開学を予定している。

弊誌では、偉人たちの言葉を通じてゲーム業界の歴史を記録し資料化する試み、いわゆる「オーラル・ヒストリー」(口述歴史)を収集するというZEN大学の一事業に携わることとなった。

なお、「オーラル・ヒストリーとはそもそも何なのか」「なぜ、ゲーム業界にオーラル・ヒストリーが必要なのか」といった本事業の意義や目的については、下記の記事に詳しいため合わせてご覧いただきたい。

さて、そんなオーラル・ヒストリー事業の記念すべき第一回として今回お話をお聞きしたのは、コーエーテクモホールディングス社長にして、「シブサワ・コウ」名義で『信長の野望』など数々のゲームを世に送り出した襟川陽一(えりかわ よういち)氏である。

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_001

1981年に『川中島の合戦』を発売して以来、40年以上に渡ってゲームと向き合い続けてきた襟川氏。まだメディアによる情報の集積も満足におこなわれていなかった、パソコンゲームの黎明期を語っていただくのに、これほど適した人選はないだろう。

語られることもなく、記されることもなく、ただ当人たちの記憶に残るばかりの知られざる歴史。
それこそがまさにオーラル・ヒストリーの対象であり、本事業がアーカイブ化を目指すものである。

まだゲーム会社ではなかった時代のコーエーが「10本売れればいいな」というささやかな期待の元で『川中島の合戦』を発売。しかし結果として『川中島の合戦』は1万本以上を売り上げ、襟川氏は社員総出どころか近隣の住民の力まで借りて手作業でソフトを発送したという……。

今回の取材では、そんな当時の思い出話から、任天堂の発売したファミリーコンピューターへ『信長の野望』を移植するにあたっての試行錯誤など、貴重なお話をたっぷりと聞かせていただいたので、最後までお読みいただければ幸いである。

なお、本記事のもととなった襟川氏のインタビュー映像および発言内容の書き起こしは、ZEN大学の「コンテンツ産業史アーカイブ研究センター」(HARC)の手で資料化され、日本のコンテンツ産業の歴史を後世に伝える一次資料として公開される予定となっている。

聞き手/浜村弘一TAITAI
編集/うきゅう実存
撮影/佐々木秀二

※本記事はZEN大学の「歴史プロジェクト」の一環として実施した、襟川陽一氏へのオーラル・ヒストリー取材をもとに弊誌掲載版として再構成・編集されています。


「10本売れればいいな」→ふたを開けてみれば「販売本数1万本」。桁違いの売り上げを叩きだした『川中島の合戦』は、“近所のおばちゃん”たちの手作業によって発送された

──本日はコーエーがパソコン向けにゲーム『川中島の合戦』を販売し始めた黎明期の頃から、コンシューマーゲームへと進出していった流れをお伺いできればと思っています。

武田信玄と上杉謙信の戦いを描いた『川中島の合戦』は非常に好評な売り上げだったとお聞きしていますが、まだ販路も整備されていなかったなかでどのようにソフトの発売を伝え、ユーザーに届けたのでしょうか?

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_002
(画像は『川中島の合戦』Steamストアページより)

襟川氏:
実は『川中島の合戦』は、もともと商売にするつもりはなかったんです。かみさん(襟川恵子氏)に買ってもらったパソコンについて色々と勉強をしながらゲームを作っていたら、段々面白くなってきて。自分としては完成度の高いものができて、それを毎日遊んでいたんです。

そんな折、かみさんが「そんなに面白いんだったら、ほかにも欲しがる人がいるんじゃないの」と言って、電波新聞社さんの「マイコン」という雑誌に広告を出すことになったんです。広告ページも、1ページが10万円とか20万円とかする結構高額なもので、かみさんが交渉をして、半ページで5万円に値引きをしてもらって出したのが始まりでした。

自分と同じぐらいの年齢で、歴史が好きで、パソコンを趣味にしていて「歴史に関するゲームが欲しい」という方が日本全国に何人かはいるんじゃないかという期待があった程度で、5本とか10本、多くても20本ぐらい売れればいいなと思っていました。

──では、最初からゲーム事業に参入するという意識ではなく、あくまでフリーマーケットに出すような感覚だったんですか。

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_003

襟川氏:
そうですね。ゲーム事業参入なんて言葉、思い付きもしなかったです。というか、その頃はゲーム産業とかゲーム業界というものが存在してなかったですね。当時のパソコン界隈は“四大誌”と呼ばれる『アスキー』『RAM』『I/O』『マイコン』の4つの雑誌が時代を牽引していました。

そして、その影響を受けたアマチュアレベルのパソコンユーザーが段々と深くのめり込んでパソコンオタクになり、そうした人たちのなかからポツポツと創業者が出てきた。そのひとりが私なのかなという感じです。

──その創業者としての襟川さんの第一作である『川中島の合戦』は、何本ぐらい売れたんでしょうか。

襟川氏:
全部で一万本ぐらい売れたと思います。一本一本、手で発送しましたね。もう家内制手工業ですよ。当時のコーエーは私とかみさんを含めて3人しかいなかったので、隣に住んでるおばちゃんや近所にあった警察の官舎に住んでおられた奥さん方に協力を仰いで、数千本に及ぶソフトのダビングやラベリング、箱詰めまで色々と手伝っていただきました。その傍ら、私は2作目や3作目を作ったり、購入されたユーザーからの問い合わせに対応したりしていました。

当時のソフトはミュージック用のカセットテープを利用して作られており、読み取り機能を持った「ヘッド」が汚れていると、まともに動かないことがあるんです。ですから電話口で「綿棒に油とシンナーを染み込ませてヘッドを拭いてください」なんて伝えていましたね。

「拭けたら、最初からもう一回CLOAD【※】をやってください」と言って待っていると、電話を通してピーガーピーガーとパソコンの音が聞こえてくるんですよ。その音を聞きながら「あ、今だ、今だ!」とか言っていました(笑)。

※CLOAD
BASIC言語のひとつ。磁気テープをセットしてCLOADと入力すると、プログラムが認識され読み出しが始まる。

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_004
(画像は『川中島の合戦』Steamストアページより)

──では、コーエーが「ゲーム事業でいこう」と思ったタイミングはこの『川中島の合戦』の成功の後ということになるんでしょうか。

襟川氏:
ゲーム産業に参入するとか、そういう意識はあまりなかったですね。そもそも、産業自体がない(笑)。販売店さんが家電量販店の一角でパソコンを売り始めたとか、NECさんが「Bit-INN」という専門店をチェーン展開し始めたとか、そういう創成期ですから。

ただ、ユーザーサポートとして電話や手紙などを介してお客様と直接やりとりをするなかで、「次にもっと面白いの出してよ」とか「同じ戦国時代なら、信長とか家康とか秀吉とか、そういうの出してよ」とか、そういった要望をたくさんいただきました。

また、当時ボードゲームをやっている方にとても人気だったテーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム(TRPG)をゲーム化してほしいというお話もありましたし、「西洋的なファンタジー世界のゲームを作ってください」というのもありました。

そういった要望を見ていると、「ああ、こういう風なゲームを楽しまれる方は私以外にも大勢いるんだな」とわかって、2作目、3作目と作っていくことにしたんです。その時は『ノルマンディー上陸作戦』『コンバット』など、第二次大戦中の米軍の活躍を取り扱ったゲームを作りました。

これはこれで人気があったんですが、やっぱり「戦国時代のゲームが欲しい」という要望があったので、1983年に『信長の野望』を開発したところ、これが非常にたくさんの本数が出たと記憶しています。

──それまでは「パソコンを触りたい人がパソコンを買う」時代でしたが、『信長の野望』が出てからは「ソフトが欲しいからパソコンを買う」時代にフェーズが切り替わった印象です。

襟川氏:
パソコンがゲーム機みたいな感じになり始めた時期だったと思いますし、ちょうどアップル用の表計算ソフト「VisiCalc」が出てきたのもその時期ですよね。今のエクセルのような感じで、企業へとパソコンが飛躍的に導入されていった時期でもありました。

襟川陽一氏とパソコンの出会い。「欲しい欲しい」と毎日言っていたのを見かねた奥様に贈ってもらったところから始まった

──当初の想定である「10本~20本」から考えると桁外れの売り上げを記録した『川中島の合戦』ですが、そもそも襟川さんがどのような形でパソコンと出会い、ゲームを出すに至ったのか、その経緯をあらためて教えてください。

襟川氏:
そもそもの出会いは、かみさんにパソコンを贈ってもらったところからですね。先ほど名前を出した四大誌を当時ずっと購読していて、お金はないけどパソコンは欲しい。「欲しい、欲しい」と私が毎日言っているのを聞いて「しょうがないな」という感じでした。

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(画像は襟川 恵子│トップメッセージ│採用情報│コーエーテクモ ホールディングスより)

襟川氏:
かみさんは株式投資をやっていて、高校時代からリッチだったんです。それにしても当時からすると高級というか、バカ高い電子おもちゃでしたよね。当時、初任給が5万~6万円とかの時代にパソコンは20万、30万していました。今、コーエーの大卒基本給が30万5000円ですから、そのまま5倍すると150万円ですよ。

買ってもらった以上は役に立たないといけないので、当時のコーエーの財務管理であるとか、在庫管理、見積もり計算などのソフトを作りました。当時、経営の合理化をパソコンによって実現する「オフィスオートメーション(OA)」という言葉が流行していましたので、表面的にはそういうことをやっていたわけです。

パソコンがそれらのデータ管理に役立つのは事実で、在庫のリストも瞬時に出てくるし在庫高もわかる。それらのデータが財務のソフトと連動して、企業経営を考えるための数字は一目瞭然でした。

──当時はエクセルなどもまだありませんよね。そういったビジネスツールは襟川さんご自身で開発されたんでしょうか。

襟川氏:
はい、私がプログラムを組んでました。最初はシャープ製のMZ-80Cというパソコンを購入して、そのうちプリンターやフロッピーディスクなど段々周辺機器が増えていき、やがてPC-8001、PC-8801と新型のパソコンを買って、また周辺機器を……。

と、私はどんどん深みにハマっていったんですが、そのうちに私がパソコンマニアだというのを聞きつける方が増えて、「会社の経営合理化のためにソフトを作るのを手伝ってくれ」とか、そういう仕事が来るようになったんです。

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こちらはハル研究所が2017年に発売した「MZ-80C」ミニ。(画像はPasocomMini MZ-80C│ハル研究所より)

襟川氏:
当時はパソコンのプログラムを組む方が非常に少なかったということもあり、最初は自社のOAと自分の趣味としてのゲーム作りが専らだったところから、段々プログラミングの仕事も増えていった感じですね。

こういった業務用のソフトは昼間のプログラミングの成果として行いつつ、夜はもっと趣味的な使い方をしていました。先ほど名前を挙げた四大誌はOAの話題も扱っていましたが、メインのコンセプトは「パソコンとともに楽しく人生を過ごそう」というものでしたから、ゲームのプログラムリスト、マシン語のリストなんかも随分と載っていました。そういったものを手入力して、実際にRun、つまり走らせてそのゲームを遊ぶというのが、当時の趣味だったんです。

『I/O』さんは精力的にゲームソフトの入ったカセットテープを月刊誌を通じて通信販売していました。これはプログラムリストを手入力する暇がないとか、入力間違いによるバグでエラーが出て動かないことを避けたい方が主に購入されていたようですが、私はお金がないので、全部自分で手入力をしながらゲームを遊んでいくうちに、自然とゲームの作り方が分かってきたんです。昼の仕事が一段落して、夜の趣味としてゲームを入力して遊ぶというのがとにかく楽しかったですね。

考えてみると、私はもともと電子工作が好きで、小中学生ぐらいの時はアキバ(秋葉原)に出向いて3球ラジオや5球スーパーラジオのような真空管ラジオを作ったりアンプを作ったりしていたんです。1970年代後半のアキバではApple Ⅱの組み立てキットがあったりしたんですが、多分あれは本物じゃなかったですよね(笑)。

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──昔はそういうアヤしいものが売ってたりしましたね。私も目にした覚えがあります(笑)。

襟川氏:
出所不明の設計図にApple製の回路だとか、半導体から何から全部セットになって「あとは自分で作ってちょうだい」みたいなものが売っていたり、インテル製のマイクロプロセッサである4040とか8080とかの勉強ができるインストラクションキットが売っていたりしました。

私はそういうものを買って「1足したり1引いたりすることによって、ものが動いていくように見えるんだ」ということを勉強したりしていたので、そういった物作りへの興味というのはベースにあったんだと思います。

また、私は歴史の小説を読んだり、歴史的な名所旧跡を巡るのが好きだったものですから、歴史に関係するゲームができるといいなと思っていました。ただ当時は『インベーダー』とか『パックマン』とかがヒットしていた時代でして、四大誌にはアクションゲームが多く、歴史に関するゲームはなかなか出てこなかったんです。

アクションゲーム以外も『スター・トレック』のような、探検型のゲームが多く、考えて楽しむような、囲碁や将棋タイプのゲームはあまりありませんでした。「歴史をテーマにして考えて楽しむゲームがあればいいな」と思って、信玄と謙信の争った川中島の戦いをモチーフに試しに自分で作ったのが、自分としては完成度が高くて、これを毎日遊んでいました。

昼は社長として「家業再興」の重責と向き合い、夜は反動のようにパソコンへ熱中した若き日。しかし、その社長業の経験が『信長の野望』で活きている

──そうやって開発された『川中島の合戦』がのちに1万本の売り上げを数えるわけですが、コーエーがゲームを販売するようになる前段階として、ソフト制作をおこなっていたタイミングでは、もとの仕事との兼ね合いや折り合いはどのように付けていたのでしょうか。

襟川氏:
もともと私は染料、工業薬品の販売をメインの仕事としてやっていました。ただ、その仕事は自分のエネルギーをぶつけて何かやりがいを得るというよりも、義務感や責任感が強いものでした。私の父親がやっていた染料のビジネスが廃業になってしまったので、「家業を再興しなければならない」という気持ちが先にあり、その反作用でパソコンにのめり込んだというところがあったように思います。

その上、パソコンはたまたま私の性格に合っていたんです。論理的な世界で自分の思うことを実現していくというパソコンのプログラミング世界にすごく魅力を感じました。

最初は全然プログラミング言語も分かってなかったんですけど、たまに来ていたシャープの方がBASICの言語を教えてくださったり、シャープさんの営業所内でおこなわれていたプログラミングの教室にも参加させていただいて、ディスクオペレーティングシステム(DOS)などの勉強もさせていただきました。

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_008

襟川氏:
当時、シャープさんにはMZシリーズを全国へ拡販していくための営業マン兼インストラクターとでも言うような、プログラミングもできるしMZの使い方も全部レクチャーできる方がセールスを担当していたんです。そういう方に教えてもらいながら、自分でもコンピューターの勉強をするのが面白くて、どんどん深みにハマっていきました。

DOSぐらいになってくると、私の発想も「ゲームを作る」とか「プログラミング言語を勉強する」というところからさらに拡大して、「いかにマシンから最大のパフォーマンスを引き出すか」という方向へと変わっていきました。

メモリの節約方法やスピードの出し方、そういうのがすごく面白くなってきて、やればやるほど研究テーマみたいなのが出てきて、昼間は義務感や責任感で働きつつ、夜になると一転むちゃくちゃ楽しくて、徹夜もいとわずゲームソフトの開発をして、遊んでいたというような状態でしたね。

──『信長の野望』をはじめとしたコーエーのシミュレーションゲームは、領地経営など経営シミュレーションのような要素が特徴的です。もともとの本業であった染料の仕事には、楽しさよりも責任感を意識していたということですが、社長業とゲーム開発を両立させていたこと自体が、ゲームの内容に影響を与えたのでしょうか。

襟川氏:
それはあるでしょうね。『川中島の合戦』は信玄と謙信に特別な個性もなく、同じ規模で争う、将棋のようなゲーム性でした。

しかし当時の私は社長であり、プログラマーであり、プランナー、プロデューサーでもあったので、大名の仕事は戦いだけじゃなく、新田の開発や治水工事、優秀な人材を集めるための人事、それらを実現するための財務。そういった様々な仕事があり、そのうちのひとつが領地を広げていく戦いだったんだろうという発想をしていました。

シミュレーションゲームは疑似体験を楽しむゲームですから、当時の大名がやっていたことを列挙して、そのなかから重要なものをピックアップすれば、より大名の体験に近くなるんじゃないかと思って『信長の野望』を企画しました。

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歴史シミュレーションというジャンルを確立した名作『信長の野望』の開発現場には、慶応や早稲田で学ぶ天才的な学生アルバイトたちの姿があった

──1981年の『川中島の合戦』から2年後に発売された『信長の野望』で、コーエーは歴史ゲームのメーカーとして決定的なブランディングを成し遂げました。『信長の野望』を作るまでの経緯や発想、また発売後のユーザーからの反響がどうだったかを教えてください。

襟川氏:
81年から83年までの間にコーエーは、パソコンショップを経営していました。ひとつは会社のあった栃木県の足利市に、もうひとつはかみさんの出身である神奈川県横浜市の日吉というところで、2店舗オープンしました。

そこではパソコンも販売するし、ソフトの受注があれば業務用のソフトも作るというお店でした。しばらく経営していると、パソコンマニアの方々が店に出入りするようになり、そのなかでも入り浸りの方というのが出てきました。

お店をやっていて思ったのが、「意外とパソコンに関係する仕事へ就きたいひとがいるんだな」ということです。横浜の日吉というのは、慶應大学の1年生や2年生が勉強をしているところなんですけど、そういう学生さんのなかにも『川中島の合戦』を遊んだとか、その後に私が作ったゲームを遊んだという方がいて、「一緒にゲームを作らせてください」とか「アルバイトさせてください」とか、そういう方がやってくるんですね。

そういう人たちをどんどん会社に入れて、どんどんゲームを作っていったというのが、1981年から1983年にかけてのコーエーでした。

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_010

──では、『信長の野望』もそういった学生アルバイトの方と一緒に作っていったということでしょうか。

襟川氏:
そうです。世の中には天才的な人がたくさんいるんですよ。たとえば、BASICコンパイラという、BASICをコンパイルして全部マシン語に変えて、速度を2倍とか5倍にするような、そういうソフトを自前で作ってきて「これを販売したいんですけど」と訪ねてくる人がいたんです。実際に私がBASICでプログラムを組んで、そのコンパイラにかけたらしっかりスピードアップしていましたね。

PC-8001とか8801に入っているシステム関係のソフトを全部解析しちゃって、どのアドレスにどういう機能が載っているかを全部頭のなかで覚えてしまった人もいました。アドレスを伝えると、「これはなんとかして数字を返してくれるアドレスだ」とか、全部答えてくれるんです。

こういう天才が、慶應にはボロボロいたんです。栃木県の足利市では、ゲーム愛好家やパソコン愛好家の方と楽しくお話をしていただけだったのに、日吉に出てきたら途端に、むちゃくちゃ頭のいい人がたくさんいて。「こういう人と一緒にゲームを作っていくと良いな」と思いました。

そうして雇ったアルバイトのうちのひとりにプログラムを組んでもらったのが『信長の野望』です。その人は早稲田の学生さんでした。私はもうその時にはプログラムは書かないで、自分の頭のなかで楽しんだゲームを仕様書にまとめただけですね。

──『信長の野望』は襟川さんがデータ面を、学生の方がプログラムを担当する形で制作されたんですか。

襟川氏:
はい。当時は学生のアルバイトが20~30人ぐらいはいましたので。ただ、学生アルバイトは卒業や就職などの関係で、2~3年経つとどんどん入れ替わってしまうんですよ。

何人かは社員としてコーエーに入ってくれましたが「バイトを雇うより卒業した後に採用した方がいいな」と思って、1985年の『三國志』の開発が終わった後から、新入社員を正式に採用することにしました。

コーエーテクモ社長・襟川陽一氏インタビュー。『信長の野望』『三國志』『川中島の合戦』の裏話_011
(画像は『三國志』Steamストアページより)

──『三國志』は当時すでに販売本数10万本超の売り上げ規模となっていたと思いますが、そんなビッグタイトルが学生アルバイトで作られていたというのは驚きです。

襟川氏:
売上の細かい数字は忘れましたが、一桁億円はもう超えていたと思いますね。

結局パソコンショップは、営業中ずっとお店にいなくてはいけない関係上、なかなかゲームを作れなかったので数年でクローズしました。やっぱり、自分がやっているなかではゲームソフト開発が一番面白くて楽しくて熱中できたので、ショップもビジネス向けのプログラムもやめて、ゲーム開発に集中することにしたんです。それも1985年ぐらいですね。

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編集長
電ファミニコゲーマー編集長、「第四境界」プロデューサー。 ゲーム情報サイト「4Gamer.net」の副編集長を経て、KADOKAWA&ドワンゴにて「電ファミニコゲーマー」を立ち上げ、ゲーム業界を中心にした記事の執筆や、サイトの設計など運営全般に携わる。2019年に株式会社マレを創業し独立。 独立以降は、編集業務のかたわら、ゲームの企画&プロデュースなどにも従事しており、SNSミステリー企画『Project;COLD』ではプロデューサーを務める。また近年では、ARG(代替現実ゲーム)専門の制作スタジオ「第四境界」を立ちあげ、「人の財布」「かがみの特殊少年更生施設」の企画/宣伝などにも関わっている。
Twitter:@TAITAI999
編集者
小説の虜だった子供がソードワールドの洗礼を受けて以来、TRPGを遊び続けて20年。途中FEZとLoLで対人要素の光と闇を学び、steamの格安タイトルからジャンルの多様性を味わいつつ、ゲームの奥深さを日々勉強中。最近はオープンワールドの面白さに目覚めつつある。
Twitter:@reUQest
デスク
電ファミニコゲーマーのデスク。主に企画記事を担当。 ローグライクやシミュレーションなど中毒性のあるゲーム、世界観の濃いゲームが好き。特に『風来のシレン2』と『Civlization IV』には1000時間超を費やしました。最も影響を受けたゲームは『夜明けの口笛吹き』。
Twitter:@ex1stent1a

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