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ヴァニラウェアが『十三機兵防衛圏』で到達した「究極の雰囲気ゲーム」という高み。雰囲気とは何から生みだされ、そして何をプレイヤーに与えるのか

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 2019年11月に『十三機兵防衛圏』というタイトルのレビューを依頼されてから、しばらくの時間が経った。そして今、この文章を書きあげるまでにリテイクした回数は1回や2回ではない。

 リテイクの連鎖が始まったのは編集者の発言が契機となったが、その後は自分の書いた内容に納得できなかったという理由で、数回は書き直している。ひとことで表現するならば、実に「奇妙なゲーム」だと思う。

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 たしかにプレイ中は強い衝動や確信めいた思いを抱き、感情を動かされ、確実に言語化でき得る「何か」を掴んでいると思わせてくる。にも関わらず、プレイをやめた瞬間、その「何か」はキメの細かい砂粒のように変容する。懸命に「何か」を手中にとどめおこうとしても、ほんの小さな指の隙間から全て流れ落ちてしまう。

 何度もプレイし、何度も同じことを思い、そして何度も次の瞬間に砂となり消えた。とにかく歯がゆい。経験を言語化することを仕事としている人間にとって、形容しがたい「何か」は致命的に心を締め付ける。苦しみのすえにたどり着いた文章も、すべて嘘に思えてしまう。どのように試行錯誤してみても、このゲームはよくわからない。

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 たしかに、『十三機兵防衛圏』はビデオゲームならではの構造をうまく利用したアドベンチャーゲームを遊びたいなら、最良の選択肢のひとつではある。しかしジャンルや媒体を問わず、物語をそれなりにたしなんでいるならば、どこか既視感を覚えるストーリーでもある。入念に練り込まれたシナリオの構造自体も、革命的なものであると評するにはためらうのが自然だ。

 ストラテジー部分もけっして悪くはないが、アドベンチャー部分と見事に調和しているかといえばそうではなく、断面の感触はどこかゴツゴツとしている。美しいグラフィックも単体で考えれば非の打ちどころがないほど洗練されているが、一部分だけをビデオゲームとして評価するわけにもいかない。

 あらゆるパーツが高いレベルで完成されているのもの、ひとつひとつの要素は斬新だと思えるものではない。単体のビデオゲームとしてとらえたなら、おそらく本作は「出来栄えのいい作品」にとどまるだろう。

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 しかし、これらをつなぎ合わせたゲーム体験を全体的に提示されたとき、『十三機兵防衛圏』は間違いなく唯一無二の経験をプレイヤーに感じさせる。悔しいほどにはっきりと、確実に『十三機兵防衛圏』と題された作品の価値を訴えかけてくる。

 本作に賞賛を送る先人たちの発言を見ると、『十三機兵防衛圏』を良い作品だと確信しながらも評価自体はそれぞれ先に記した“部分ごとの評価”へ向けられているように思える。だが作中のありとあらゆる要素には一定の指向性があり、ここ数十年の日本人が肌で感じてきたサブカルチュアルな精神そのものを刺激する触媒として機能しているのだ。

 つまり結論から先に述べれば、『十三機兵防衛圏』という作品は「雰囲気ゲー」という言葉の意味を塗り替えるほど、あらゆる要素の組み合わせでプレイヤーだけに素晴らしい絶景を見せている作品であるということである。

 プレイ中とプレイ前後で大きく評価が変わってしまうこの感覚は、作品全体の雰囲気がもたらしているものだ。1本の街路樹を見て何かを感じることは少ないが、広大な森を訪れれば自然の風景や環境音など、さまざまな要素が組み合わさってひとつの経験となり、心と身体を癒してくれる体験にも似ている。

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 振り返ってみれば、ヴァニラウェアの作品は総じて「雰囲気」が非常に高く評価されてきた。『朧村正』をはじめ、『ドラゴンズクラウン』『オーディンスフィア』も例外ではない。

 デザインの美しさや音楽、ストーリーなどの評価は高いが、ゲームとしての新規性については言及されることがない。どこか懐かしい、ある意味職人肌を感じさせるアクションゲームのシステムと「雰囲気」。これらの特長は独自の固定ファン層を形成してきたものの、世に送り出された作品群はいずれもAAA級の風格と呼ばれるものではなかった。

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(画像はYouTube 「PS Vita『朧村正』プレイ動画 奥義」より)

 しかし、今作でヴァニラウェアは、今までの作品とは大きく方向性を変えるひとつの決断をしている。今までのヴァニラウェアの代表作と言えるタイトルが、おしなべて「アクションゲーム」であるのに対し、『十三機兵防衛圏』は「ノベル型のアドベンチャーゲーム」だということだ。

 この方向転換は、同社の作品にはっきりとしたブレイクスルーを起こしている。同社の作品が持っている「絵力」、「ストーリーテリングの確かさ」、「音楽の良さ」、そしてこれらの要素すべてを総合してかもし出される美しい「雰囲気」。

 持ちうるポテンシャルのすべてがアクションゲームよりも、さらにゆったりとビジュアルと音楽を伝え、物語が軸となる「ノベルゲーム」との親和性を有していたということになる。

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 では、その「雰囲気」とは何か。『十三機兵防衛圏』において、何が「雰囲気」を生み出しているのか。

 エンターテイメント作品における雰囲気とは、端的に表すと「一種の既視感」だ。ある人間が実際に経験した、創作物から得た、あるいは自身の想像力の中から生み出したバックグラウンドとして持つ記憶。それが目の前の光景とどこかしら符号し、心地よく思えるものであれば、人はそれを「雰囲気が良い」と表現する。

 その意味で本作は「既視感の塊」であり、おそらくプレイした人間の多くがかつて見たことのある、かつて感じたことのある、かつて経験したことのある感覚を覚える。そのすべての最大公約数である共通認識にどこかしらが合致し、心の一番柔らかい部分をえぐられる。

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 たとえば夕焼けの風景の美しさ。夜の神社の気味の悪さ。にぎやかな学校の校舎。木造の家。ビル街や街に並ぶ電柱の一本一本。それは「日本人」の精神における根元の部分をがっちりとおさえてくる風景だ。たとえそんな光景を実際に見たことのない人物でも、世代や年齢を問わず誰もがノスタルジーを感じざるを得ない。『十三機兵防衛圏』はそんな心象風景を見事に表現している。

 会話の端々に出てくる特撮の話題、動画コンテンツを配信する少女、いまを生きる多くの人にとっては知識でしかない古い映画のオマージュ、多くの人にとっては会ったこともないリーゼントの少年やスケバンの少女。一見すると無作為に、しかし至るところに象徴的なアイテムやキャラクターが配置されている。

 上に並べた要素は、当時をオンタイムで生きた誰かにとっては鮮烈な記憶かもしれないし、時代をとうに通り越した現代の若者にとっても過去の日本文化として縁遠いものではない。なぜならそれは「遊んだことのない羽子板」「やったことのない凧あげ」のように、日本人が確実に通ってきた文化そのものだからだ。

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 さらに言えば、(リアルでは存在しない)「パンをくわえて走って登校する少女」や、(実際はそこまで人気のない)「焼きそばパン」、(街で見かけることはないだろう)「サングラスをかけた黒服」のような、明確な創作物の中にある共通認識、いわゆるお約束も舞台装置のひとつだ。

 物語の重要な要素とも言える「機兵」が、よく見れば第一世代から第四世代まで設計思想がごちゃごちゃになっているように思えるデザインなのは、もちろん物語の設定上の意味もある。しかし、それだけではなく、いずれかの機兵が必ず誰かにとっての既視感につながるようになっている。

 つまりこの物語に登場するほぼすべての登場人物をはじめ、彼らが暮らす世界や舞台、劇中の小道具まであらゆるものがプレイヤーの記憶を刺激し、その「雰囲気」を生み出すために存在している。

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 人間の脳は、自分自身の経験した事象だけを思い出として認識するのではなく、知識や会話、他人の経験もおりまぜた、全人格的で総合的な情報の編集を経て成り立っている。

 おそらく意図はされていないと考えられるが、そんな脳の仕組みを利用するように、『十三機兵防衛圏』には作品全体に小道具が配置されている。作中に散りばめられたどこかのポイントで、誰もがそれに反応し心に“スクラッチ”を刻み付けられる。そして、その小さな傷口から圧倒的な熱量で生まれた作風がねじ込まれ、いつのまにか心ごと飲みこまれてしまう。プレイした多くの者が、その感触を手触りの「良い」ものとして感覚的に捉える。

 さりとてその「良さ」は、多くの情報によって生成された既視感からくるものであり、きわめて抽象的だ。プレイヤーそれぞれが別の場所に、別のディティールに、別の設定を源泉にしているにもかかわらず、しかし究極的で非常に均質な情動を本作は生み出している。つまりそれが、本作における「雰囲気」の正体であり、誰もが本作を称賛したくなる動機の源である。

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 あらためて『十三機兵防衛圏』を振り返ると、本作に含まれている要素は入り口さえ違えど次第に同じ方向へプレイヤーの感情を誘導していく。それは間違いなく、本作が全身全霊で生み出す「雰囲気」によって生み出されている効果である。その雰囲気はプレイヤーが物語に深く没入するためのパワーを最大限に発揮し、ストーリーライン自体を牽引しているとする。

 ならば、このビデオゲームを「雰囲気ゲー」と表現するのに何の臆面が必要だろうか。

 その雰囲気は、ゲーム内の設定を確実に補完するフレームとして、あるいは物語へ没入するためのリードとして、相互にほぼ完璧なハーモニーを奏でている。明確に既視感を感じるストーリーそのものに、あるいはパッケージの裏面に書いてあるうたい文句「ジュヴナイル群像劇本格SFアドベンチャー」という一見ふんわりとした成句のひと文字にすら、一種の意味が含まれていると考えてよいだろう。

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 あえて誤解を恐れず繰り返すが、本作はここ数十年間の「日本」サブカルチャーのエッセンスを宝箱につめこんだような作品だ。本質的に日本人にしか理解できない。しかし、日本人ならどこかの要素で共感を得られるであろう文化の総体である。

 比較対象としては不可思議な感覚があるかもしれないが、サラエヴォ包囲下の市民の暮らしを描いた『This War of Mine』や、白色革命の最中にある時代の学校を舞台にした台湾の『返校 Detention』などが挙げられるだろう。

 いずれもその国の文化や歴史を題材にした作品だが、じつは日本人が真に雰囲気を味わうには難しいタイトルだ。「物語としては楽しめるが、本質的な肌感覚はその国に生きる人間でなければ真の理解は困難である」という核心に非常に近い。

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(画像はSteam 『This War of Mine』より)
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(画像はSteam 『Detention』より)

 ともかく、数十年のあいだ日本に生きていて漫画や映画、アニメやゲーム、その他の「サブカルチャー」と称される野太い“メジャーカルチャー”に一切触れてこなかった日本人など存在しないだろう。とどのつまり、『十三機兵防衛圏』の持つ「雰囲気」は、「日本の記憶の断片」でもあり、「日本人の光景の最大公約数」そのものである。

 ここまでくると、『十三機兵防衛圏』の持つ「雰囲気」は単なるSFというジャンルを指すものではなく、またジュヴナイルと呼ばれるカテゴリのことでもない。この「雰囲気」は、日本という文化が経験してきた「青春」。その名前を冠したわたし、あなた、あるいは誰かの記憶やその残滓だ。

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 ただひたすらに緻密で、丹念に、執念深く構築された13人の物語は、複雑で難解な見た目とは反して物語としてすさまじく直線的ですんなりと入ってくる。誰もが青春時代や成長の過程で感じるであろう、「自分の世界にたしかに存在しているのが自分だけなのではないか」と思う不安が沸き起こり、物語はそこからの脱却を思わせる。

 感覚の根底にあるのは世界そのものを揺るがす脅威であり、自分が信じていた世界に確信が持てないことに対する本能的な恐れだ。明確に意図して複雑に作られた世界設定はプレイヤーを物語の中に深く引き込み、異世界へと引き込まれたプレイヤーの多くは時間を忘れて没頭するだろう。「いったい彼らは誰で、ここはどこなのか?」と。「私たちは誰で、いったいどこにいくのか?」と。

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 そもそも人は、世界と自分がたしかに繋がっている確信を決して持つことはできず、当然誰もそれを担保してはくれない。それでは不安だから誰しもが何かを信じ、誰かを愛し、求め、求められることで自分と世界をつなごうと必死に生を紡いでいく。

 『十三機兵防衛圏』は、少年少女たちが周辺の世界や社会、自分や他人の在り方の曖昧さにとまどい、迷い、進む方向を見失いながら自分の選択をしていく物語だ。寄るべのない世界の中で、最後に自分たちをつき動かすものはいったいどんなものなのか。まるで世界に誰もいないような不安を、信じていたものが根底から揺らいでしまうという恐怖を感じる。そして、それでも何かを選び勝ち取る意志を、彼らと共有する奇妙な感覚をもたらす。

 その普遍性を帯びた問いかけは、フィクションの領域から我々の精神をも浸食してくる。これまでビデオゲームの多くは、作品がもつ大きなテーマ性をしっかりと問いかけるための「究極の舞台装置」であったが、『十三機兵防衛圏』はもはやこの定義を逸脱している。「ゲームとして何を表現するか」というよりは、「ゲームという表現方法で何が提示できるか」の可能性を追及した、極めて高度に完成された「雰囲気ゲー」だ。

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 『十三機兵防衛圏』という作品は「雰囲気ゲー」という言葉をネガティブに使うこと自体へのカウンターとしても機能している。
 筆者自身も、その言葉の定義を超えてくる作品に出会い、それに対してどう「良い」のか表現する最善の手段がわからずに、それを数か月間にわたり延々と探し続けていた。

 本作は多くの人の中にある「雰囲気ゲー」という言葉を再定義させる明確な力を持つ。そしてその存在は、評価基準に曖昧さや情緒といった抽象的なものの享受を嫌うビデオゲームの評価へのアンチテーゼですらある。けっきょく、その土壌でも『十三機兵防衛圏』を高く評価する声は広がったが、その価値は棄損されていない。

 本作が見せてくれる「夢」は、まるで霧の中、ゆっくりと揺れ続ける地面の上でループする多重夢だ。ビデオゲームとしての構造や、新規性をその中に求めても反響する「音」はないだろうが、『十三機兵防衛圏』という装置がもたらす経験は決してほかでは得られないものだ。
 エンターテイメント作品が、触れた人になにがしかの感情を生み出すことを求められているとすれば。『十三機兵防衛圏』を「雰囲気ゲー」としか表現しようがないかどうかなど、それは些事でしかない。

ライター
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Nobuhiko Nakanishi
大学時代4年間で累計ゲーセン滞在時間がトリプルスコア程度学校滞在時間を上回っていた重度のゲーセンゲーマーでした。 喜ばしいことに今はCS中心にほぼどんなゲームでも美味しく味わえる大人に成長、特にプレイヤーの資質を試すような難易度の高いゲームが好物です。
編集
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ニュースから企画まで幅広く執筆予定の編集部デスク。ペーペーのフリーライター時代からゲーム情報サイト「AUTOMATON」の二代目編集長を経て電ファミニコゲーマーにたどり着く。「インディーとか洋ゲーばっかりやってるんでしょ?」とよく言われるが、和ゲーもソシャゲもレトロも楽しくたしなむ雑食派。
Twitter:@ishigenn

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