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『The Last of Us II』という“次世代に語られるべき狂気の名作”について。倫理のない復讐の世界が描くのは「赦し」ではなく「命の選り分け方」

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※同記事には『The Last of Us』のネタバレ、および『The Last of Us Part II』のネタバレとなる可能性の文章が含まれています。

 次世代機が発表され、ハードウェアが次の世代へと向かいつつある中で、『The Last of Us Part II』のような名作が生まれたことには、奇妙な符号を感じる。

 ハードウェアの進化はもちろんゲーム業界にとっての福音だが、同時にゲームがどういうエンターテイメント作品として進化していくかは、ソフトウェアを作る創り手たちの手腕にもよる。

 そういう意味で『The Last of Us Part II』は、その作品内で描くテーマにおいても、そしてゲーム自体の創りにおいても、我々を次の世代へと導くソフトウェアだ。

 Naughty Dogは確固たるテーマを一切ブレさせることなく、前作から続く『The Last of Us』という狂気的な創り込みの旅路を完結させることに成功した。

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 その『The Last of Us 2』(以下、TLOU2)の制作をNaughty Dogが2016年に発表したとき、筆者が感じたのは『The Last of Us』(以下、TLOU)の続編発表の喜びではなく、「あの作品に続編は必要なのか」という戸惑いだった。

 丁寧なバランスで作り上げられた戦闘、収集、探索のゲーム部分。時間の経過を四季になぞらえた個々のステージ。登場人物たちの何気ない言動で空気感を表現する細やかで重厚な演出。

 Naughty Dogはそれまで得意としてきた『アンチャーテッド』シリーズのケレン味が強いアクション性を排し、じつに緊張感のあるサバイバルホラーゲームとして前作を成功させた。

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『The Last of Us』

 なによりも『TLOU』で優れていたのは、その物語だ。それはひとりの男の父性の暴走による大きなミステイクの物語だったと言える。

 パンデミックによって娘を失って以来、どこか心に穴が空いていた前作の主人公ジョエルは、偶然エリーという少女と出会い旅をする。メインストーリーの中、ジョエルとエリーは擬製された父娘関係を構築していく。

 そして最終局面でジョエルは、「エリーひとりの命」と「計り知れない数の人類の未来」を天秤にかけることになる。そして彼はエリーひとりの命を選択し、ほかのすべてを犠牲にする。

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『The Last of Us』

 人類全体の利益という観点から見れば、ほぼ間違いなく誤った選択をした男の愚行。だがそれでも、一個の人間としての男が長い時間をかけてようやく掴んだ「誰かを守る」という人生の実感がジョエルの中にはあった。

 父性の発露、ちっぽけな幸せ。それらと人類の行く末を天秤にかけたときに、その思いは無価値とされるべきものなのか、彼にはその幸福を選ぶ権利はないのか。

 それ自体は「自分の守りたい人と人類全体の幸せどちらを選ぶのか」という、エンターテイメント作品においてはさしてめずらしくない問いかけだ。だが、その問いかけをふたりの旅路によって極限まで高純度にし、それこそ可視化できるほどにゲーム内で巧みかつ長大に昇華したのが、前作『TLOU』だった。

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『The Last of Us』

 ゲーム部分はもちろん、テーマの重さと父性を軸としたアプローチの確かさという意味でも、『TLOU』は完結していたはずだったのである。ではその完結を引き継いで制作された『TLOU2』は、いったいどのようなアプローチで、なにを描くのだろうか。焦点はその一点になる。

ライター/Nobuhiko Nakanishi
編集/ishigenn


エリーの「復讐と暴力の3日間」

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 続編である『TLOU2』では、その前作から数年が経ち、ジョエルやエリーはワイオミング州ジャクソンにある村で生活している。

 新しい土地で新しい人間関係を構築しながら静かな生活を送っていた彼らだが、その平穏はある日突風のような「暴力」で瞬時に崩れ去る。

 『TLOU2』はその暴力に対して復讐を誓うエリーの物語。エリーは復讐の対象がいるワシントン州シアトルに向かう。ゲームはそのシアトルでの3日間を軸として物語を描いている。

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 じつのところ、ゲームプレイの本質的な流れやシステム、メカニック関しては、前作からそこまで大きな変化は無い。人間や感染者との戦いは、ほぼ完成されていた銃撃や打撃、ステルスで基本的には構築されている。

 物資は現地で回収、罠や回復キットを作成しながら使用していく。その中で得たサプリメントで能力を向上させ、局面を有利にしていく。

 新しく匍匐の概念が加わり、前作と比べれば三次元的な戦闘も増え、格闘のバリーションも増えてはいくが、それらは等しくアップデートと呼んでいいだろう。サバイバルアクションとして完成していたものが、より完全に近づいてはいるものの、新しい驚きというほどではない。

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「命の不均衡」という前作の問題提起に対峙するエリー

 一方で、ゲーム全体の雰囲気は驚くほど暗く、陰鬱なものに変わっている。それは前作の旅の目的が少なくともポジティブなものだったのと対照的に、今回の旅の動機づけがあくまでも「復讐」の一色に染まっているからだ。

 驚くほどたくましく成長したエリーは一日一日、確実に敵を殺していく。目的地に着く道程で人間と戦うことがインシデントとしてあった以前とは違う。目的自体が対象の人間を殺すことに変わっている。そして復讐はさらなる復讐を呼び起こしていく。

 しかもその描き方は想像以上に暴力的だ。人によっては目を背けたくなるような暴力描写がはてしなく続き、敵意をただただぶつけていく物語にプレイを止めたくなるだろう。血塗られたストーリーは、いつしかプレイヤー自身にも疑問を生じさせる。つまり「これはいったい、なんのための殺人なのか」と。

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 なんのためにこの復讐が行われるのか。これは本作の持つ独特のアプローチだ。基本的な描き方として、ゲーム内でエリーたちの行動は正当化されていない。けっして正義のための行いではなく、大義があるわけでもない。こちら側が被った殺人に対して、与えている殺人の数は比較にならないほど大きく、むしろやりすぎではないかと思うほどの不均衡だ。

 そう、「命の不均衡」。そう聞けば多くのプレイヤーは何かを思い出すだろう。それは前作でジョエルが行った、人類を犠牲にしエリーを選んだ大きなミステイクと構造的に酷似している。

 『TLOU』でジョエルがした過去の行いは、「命の価値をどう考えるか」という問題提起だった。それに対し『TLOU2』の物語は、ジョエルの子供としてのエリーがその問題をどう超えていくかを描いているわけである。

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「命を選り分ける」という答え

 そしてこの物語は、表面上は復讐の物語ではあるが、ジョエルとエリーの旅の追体験という側面も持っている。今回の旅にジョエルは不在だが、かつて通ったような場所、かつて聞いたようなセリフ、回想される過去と、ジョエルの存在の大きさを確認するような演出が各所に見られる。

 それはエリーだけでなく、前作をプレイした数多くのプレイヤーが、しっかりとその不在を感じるレベルの演出に到達している。ゲームプレイ、物語を通して「ここに存在しない存在を常に感じさせる」ということを演出上で表現しえているのは見事としか言いようが無く、技術的なものというよりテーマに対する製作者の執念の賜物と言えるだろう。

 プレイの全ての局面でジョエルを感じ、ジョエルとの過去を思い出し、ジョエルとの旅を思う。ジョエルがいた前作も、ジョエルがいない今作も、「父娘の旅」であることに変わりがないのだ。

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 前作が「エリー」と「人類」の天秤という「どちらがより希望なのか」という構造だったとすれば、今作は「復讐」と「復讐」の天秤という「どちらがより絶望なのか」という構造なのは皮肉と言えば皮肉だが、その過程にある暴力の連鎖を嫌と言うほど見せつけられている内に、結局大きなテーマの繋がりに気付かされる。

 それはけっして「人間の敵は人間である」とか、「どちらに正義があるのか」などというおためごかしいきれいごとではない。それは「命に区別をつけること」あるいは「命を差別すること」こそが「生きる」ということの本質だという、根源的なテーマにほかならない。

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 『TLOU』では、ジョエルにとってエリーの命とほかの人類の命は等しい価値を持っていなかった。彼は重要なものがなにか、守るものがなにか、自分が選ぶべきものはなにか、エンディングで迷わなかった。

 復讐のために、生きるために敵を殺す。近しい人は命に変えても守る。両者は決して矛盾していない。誰かにとって誰かの命ははてしなく重く、別の誰かにとって誰かの命は塵ほどの価値もない。

 そのことを丁寧に教えるように、『TLOU2』では登場人物の視点と時系列がさまざまに変化し、それぞれの守るもの、それぞれの幸せ、そしてそれぞれが背負った業が描かれていく。Naughty Dogによって鬼気迫るほどに描かれたさまざまな状況は、プレイヤーのあらゆる価値基準をあらゆる手段でブレさせる。

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 その密度と重力に息が詰まり、溺れそうな絶望感、焦燥感に苛まれもするが、同時に社会通念上の価値基準など本当はなんの意味がないのだということを伝えられる。

 子を守ること、親を守ること、大切な誰かを守ること──それは害するものを排除していくことだ。そこに理屈や理念は存在せず、ただ情動だけがある。命の価値を決めるということ、その峻別をするということは、自分の人生を選び取ることであり、つまり「全ての価値を自分で決める」ということに繋がる。父性における切断であり、個の確立である。

「親子」の完結

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 そう考えると、完結していたと思われていた『TLOU』にひとつだけ描き切れていなかったものがある。前作をジョエルがその子であるエリーに見せた「父親の愛情」の物語とするならば、足りないのは成長した子供が父を超えること、親離れをすること。つまり「親子関係の完結」だ。

 Naughty Dogによって見事に挿入される作中の回想シーンを見ていくと、前作のあとジョエルとエリーの間にはすれ違いが多々起きていたことがわかる。その背景には大きな問題があるが、10代の少女が大人になる過程で起こる親子間の摩擦としては、ごくごく自然なものだ。

 あくまで庇護しようとする愛情と、自分はもう庇護される対象ではないという反発。それはわれわれが成長過程で経験している感情と同じであり、親が経験している感情と同じだ。強い愛情はいつしか重荷となり、親の庇護はいつしか負担に変わっていく。その過程を経て人間は大人へと成長していき、いつしか親になったときにその親の気持ちに気付く。

 人の人生というのはおおむねその過程で形作られている。最初は弱く、誰かの保護が必要な存在から始まり、個として独立した自我を形成し、最後は自分そのものの存在を人とゆう種のプロセスの中に組み込むことで終わっていく。その中で生じる親子間の衝突など、いってしまえばごく当たり前の通過儀礼にすぎない。

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 本来であればもっと穏当な形で進行していく儀式だったはずだった親子の断絶と、人間同士としての関係の再構築。しかしこの親子にとってもっとも不幸だったのは、そのタイミングがあまりにも突然で、あまりにも凄惨すぎたということだ。

 物語はエリーの葛藤や後悔をその憎しみの背景にして、おぞましい復讐劇として進行するが、じつはその行為自体がエリーにとっての成人へのイニシエーションだったと解釈するのが妥当だろう。「もう自分は大人である」という強く芽生えた自意識と、半面残る精神的な未熟さ。その不均衡からどのように抜けるのか、それが『TLOU2』の底流を流れる思想だ。

 つまり、連作としての『TLOU』は「親子になる物語」として始まり、『TLOU2』は「親子をやめる物語」として驚くほど意外なほど美しく終わっている。存在と不在。その両面で、彼らは二度も旅をしたのだと言えるだろう。


 成人としてひとつの「個」を見つけるための血塗られたイニシエーションの旅路の中、乗り越えるべき父の不在をどう解決していくのか。それをどう考えるのかはプレイヤー個々人に委ねられているが、同じようなプロセスを踏んで大人になっていった人間であればきっとこう思うだろう。

 「大人になる」というのは「父がそうしたことをなぞる」ことではないのだ。父の背中をただ追いかけるだけではないのと。たとえ父の愛が重荷でしかなくても。たとえ父にもう謝罪できなくても。たとえそこに答えなどなくても。

ライター
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Nobuhiko Nakanishi
大学時代4年間で累計ゲーセン滞在時間がトリプルスコア程度学校滞在時間を上回っていた重度のゲーセンゲーマーでした。 喜ばしいことに今はCS中心にほぼどんなゲームでも美味しく味わえる大人に成長、特にプレイヤーの資質を試すような難易度の高いゲームが好物です。
編集
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ニュースから企画まで幅広く執筆予定の編集部デスク。ペーペーのフリーライター時代からゲーム情報サイト「AUTOMATON」の二代目編集長を経て電ファミニコゲーマーにたどり着く。「インディーとか洋ゲーばっかりやってるんでしょ?」とよく言われるが、和ゲーもソシャゲもレトロも楽しくたしなむ雑食派。
Twitter:@ishigenn

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