「魔術的リアリズム」をご存知だろうか。
非現実的なことを現実的に描き、「魔術(非現実)」と「リアリズム(現実)」のふたつを融合する技法で、絵画や文学などのメディアで使われてきた。
たとえば魔術的リアリズム文学では、人が宙に浮くなど現実的にはありえないことが次々と起きる。しかし登場人物は気にとめず、物語もそれがあたりまえかのように淡々と進んでいく。次第に読者も非現実的なできごとに動じなくなり、現実の出来事として受けいれてしまうという仕組みだ。
この「いつもの道を歩いていたはずなのに、いつのまにか知らない場所に迷いこんだような感覚」が魔術的リアリズム文学の魅力のひとつである。
そんな魔術的リアリズム文学に影響を受けたゲームが『Kentucky Route Zero』だ。ジャンルは「魔術的リアリズム・アドベンチャーゲーム」。2013年から部分的に開発・配信が続けられ、2020年の1月に完成。完全版がPC、コンソール向けに発売された。
幾何学的で静かな雰囲気をたたえるビジュアル、詩のようなテキストなど実験的な表現で注目を集め、Independent Games Festival 2013では最優秀賞にノミネートされている。
本稿では、『Kentucky Route Zero』が魔術的リアリズムの技法や魅力を、いかにしてゲームというメディアに落とし込んだのかについて考える。
もっとも注目したいのは、本作が魔術的リアリズムの魅力をゲームにしかできない形で表現していることだ。本作をプレイしていると、まるで美しいロードムービーをぼんやりと眺めているような感覚に陥る。自分の意志で操作しているはずなのに、それとは関係なくゲームの中の風景や物語が過ぎ去っていってしまうのだ。
それはいわば「美しい虚しさ」とでも呼ぶべき、「魔術的リアリズム・アドベンチャーゲーム」に特有のプレイ体験である。
「非日常」が「日常」になる文学
まずは、魔術的リアリズムについて詳しく説明しよう。冒頭でも述べたように、魔術的リアリズムとは「非現実的なことを現実的に描く」技法のことだ。これはもともと1930年代ごろに、マグリットなどのシュールレアリスム風の絵画作品を指して使われた言葉だった。
1950年代ごろからは文学において使われはじめ、南米コロンビアの作家ガルシア=マルケスによる『百年の孤独』の大ヒットで、「魔術的リアリズム文学」というジャンルとしてその名が広まることとなった。
文学における魔術的リアリズムは、非日常的なできごとを日常として描く。ありえないことが起きても登場人物は気にとめず、物語もそれが日常かのように淡々と進んでいく。最後には読者も非日常的なことに動じなくなり、日常として受け入れてしまう。こうやって「魔術(非日常)」と「リアリズム(日常)」のふたつを融合しているのだ。
日本においてこの技法を使った作品では、累計売上120万部を超えるベストセラーとなった森見登美彦による小説『夜は短し歩けよ乙女』が代表的なものに挙げられるだろう。京都を舞台にした恋愛ファンタジーで、「黒髪の乙女」と彼女に恋する「先輩」が、奇想天外な事件にまきこまれていく物語だ。
魔術的リアリズム文学は非日常的なできごとを日常として描くが、それは実際にどのように描かれているのか。『夜は短し歩けよ乙女』の一節を見てみよう。
『(前略)濛々と渦巻く煙の中で、樋口さんは見えない空気ポンプを両手でせっせと押すような仕草をしました。(中略)ふいにおじさん方がソファから身を起こしました。樋口さんの身体がふわふわと持ち上がって、三十センチばかりのところで揺れていたのです。(中略)「こんなのは初めて見た。君、いったい何やってる人か。手品師かね」「天狗であります」「なに天狗。それは凄い」社長さんはげらげらと笑いました。「ぜひ今度、うちの宴会でやってくれ」』
「黒髪の乙女」が出会った変わり者の男、樋口さんは宙に浮かぶことができる。にもかかわらず、それを見た人々はさも日常的にあり得ることかのように反応している。このありえない現象さえ、「宴会芸」として受け入れてしまうのが魔術的リアリズム文学なのだ。
魔術的リアリズム文学の魅力──「いつもの道」から知らない場所へ
抜粋した一節から分かるように『夜は短し歩けよ乙女』の舞台は京都だが、それはありえないことだらけの奇妙な京都である。樋口さんの浮遊をきっかけに非日常的なできごとが繰り返され、いつしかそれが日常になる。
読者はいつもの道を歩いていたはずなのに、いつのまにか知らない場所に迷いこんだ気持ちになるだろう。この不思議な感覚が、魔術的リアリズム文学のいちばんの魅力だ。
しかし、読者をこの不思議な感覚に陥らせるためには、まず「いつもの道」という日常にいると思わせなければならない。そのために、多くの魔術的リアリズム文学では実在する土地を舞台にしており、その土地の地名や名所がそのまま使用されていることも少なくない。そうすることで、読者は物語を現実に近いものとして受け取りやすくなるのだ。
一方で作品内で起こる非日常的なできごとも、単なる空想ではない。魔術的リアリズム文学が表現するのは、その土地固有の風俗や歴史から発想を得た「土着的な幻想」なのである。これは幻想であっても、その土地に実際に暮らしてみなければ感じ取れない雰囲気や気風から生じたものだ。
この土着的な幻想の例として、『夜は短し歩けよ乙女』に登場する「韋駄天コタツ」に注目してみよう。「先輩」が通う某国立大学の学園祭を騒がす謎の集団である。その名の通り、神出鬼没のコタツ(とそれに入っている人々)だ。構内のあらゆる場所に現れ、なぜか通りすがりの人に鍋を振舞う。
こういった「謎の集団」の存在は読者にとっては突拍子もないファンタジーだろう。しかし『夜は短し歩けよ乙女』の舞台のモデルとなった京都大学では日常的なできごとである。長年続く「折田先生像」【※1】のいたずらや、大学側の規制にもかかわらず何回も設置されるタテカン【※2】など、暗躍する京大生たちの例は枚挙に暇がない。
『夜は短し歩けよ乙女』の作者、森見登美彦氏は京都大学農学部の出身であり、この京大生の自由な気質をよく知っていた。学園祭の日には、実際に校門のそばでコタツに入って温まる生徒を見たという。
そこに住む人にとってはあたりまえのできごとでも、そうでない人にとってはファンタジーになる。非日常が日常になる現象は小説の中だけでなく、私たちが生きる現実でも起きると魔術的リアリズム文学は教えてくれる。
魔術的リアリズム・アドベンチャーゲーム『Kentucky Route Zero』
こういった魔術的リアリズム文学の技法をゲームに取り入れた作品が、『Kentucky Route Zero』だ。
このゲームの舞台は、アメリカの南東部に位置するケンタッキー州。主人公はアンティークショップの配達員コンウェイだ。彼はアンティークを届けるため、架空の町ドッグウッドを目指す。
そのためには、地下洞窟を走る謎のハイウェイ「ルートゼロ」を通らなければならない。
クリック&ポイント型のシンプルなアドベンチャーゲームで、プレイヤーはコンウェイを操作しつつオブジェクトを調べたり、キャラクターと会話してストーリーを進めていく。
会話の他にもいわゆる「地の文」などを読み進める、ビジュアルノベル的な要素も含むゲームだ。出会うのは、人間より大きな鷲を連れた少年やロボットのミュージシャンなど、奇妙だが親しみやすい人々である。
『Kentucky Route Zero』は魔術的リアリズム文学と同じく、ケンタッキー州の特徴を再現し、そこに住んだ人しか想像できない幻想を描く。制作者のひとり、Jake Elliott氏はケンタッキー州在住だ。
たとえば地下を走るハイウェイ「ルートゼロ」のモデルは、世界最長の地下洞窟群「マンモス・ケーブ」である。ケンタッキー州では有名な観光スポットで、世界遺産にも登録されている。
アメリカ合衆国国立公園局の記録によると、かつてここを訪れたガイドは洞窟を見て「雄大で奇妙、そして陰鬱だった」と語った。「ルートゼロ」を見れば、彼と同じ感覚が味わえるだろう。
しかし「ルートゼロ」はただの地下洞窟ではない。洞窟内の道ではいくつかの次元が絡み合っているのだ。同じ場所を通ったはずなのに、見たことのない建物がとつぜん現れる。
この発想はマンモス・ケーブの構造に影響を受けているのだろう。その全長はいまだに判明しておらず、分かっているだけでも500km以上。果てしないマンモス・ケーブは複雑に曲がりくねっており、「ルートゼロ」のごとく、本当に次元が絡み合っているようだからだ。
そんな不思議なケンタッキー州を旅するいきいきとした感覚が、『Kentucky Route Zero』にはある。コンウェイを操作して、ただ歩くだけでとても楽しい。カメラワークが独特で、ふだん私たちが見ないような角度から美しいシーンを発見してくれるのだ。
プレイヤーが自由にカメラを動かせる訳ではないが、だからこそ「次はどんな風景が見えるのだろう?」という期待が膨らむ。どのシーンを切り取っても名画のようだ。
美しい世界観に似合わず、『Kentucky Route Zero』では借金というモチーフがたびたび登場する。ケンタッキー州含むアメリカ南部は貧困率が高く、低所得者の多くが返済不能になったサブプライムローン【※3】など、アメリカ資本主義が抱える暗部の風刺でもある。
どうしても暗くなってしまいそうなテーマだ。しかし、魔術的リアリズムならその土地に住む人々が抱える悲しみや苦しみを、シリアスになりすぎずに描くことができる。PC Gamerでのインタビューによると、制作者のJake Elliott氏は「魔術的リアリズムなら重いテーマでも想像力豊かに、遊び心と尊敬を持って描ける」と語る。
※3 サブプライムローン
アメリカの金融機関が取り扱う住宅ローン。低所得者や信用力の低い人へ向けたもので、審査基準は緩く高金利。2007年以後、住宅バブルがはじけてから返済不能になる事例が急増した。さらに、証券会社が商品としてローン債権を各国の金融機関に売っていたため、世界的な株安の引き金となった。
借金という重いテーマを魔術的リアリズムらしく描いたものでは、次のエピソードが印象的だ。
物語の冒頭、コンウェイは不慮の事故によって足に大ケガを負う。その後たどり着いたのは、黄金色の骸骨たちが働くウィスキー工場だ。コンウェイが彼らに勧められたウィスキーを飲むと、その対価を払うため工場で働かされることになってしまう。彼はなんとか断ろうとしたが、ケガの治療代を払うためにもそれを受け入れる。ケガを負ったコンウェイの足は、黄金色の骸骨のような義足になっていた。
借金を負う焦りや恐怖を表現しつつ、黄金色の骸骨というユニークな発想でそれを包みこんでいる場面だ。魔術的リアリズムは借金というテーマの重苦しさを和らげ、ファンタジックな『Kentucky Route Zero』へ適度なアンダートーンをもたらしている。
「美しい虚しさ」のあるプレイ体験
このように『Kentucky Route Zero』では、魔術的リアリズム文学の技法がアドベンチャーゲームに流用され、文学と遜色ない効果をもたらしている。一方、文学や絵画とは異なる、ゲームでしか表現できない魔術的リアリズムの効果はあるのだろうか。
魔術的リアリズム文学の魅力は、非日常的なできごとをくりかえし、いつしかそれが日常になることで生まれる不思議な読み心地だ。だから京都を舞台に人が宙に浮かんだり、神出鬼没のコタツが登場したりする。
しかし小説と違って、ゲームの中ではプレイヤーは実際に宙に浮かぶことができる。ふつうにジャンプするだけでも、身長の2〜3倍の高さまで飛べることすらあるだろう。非日常的なできごとでも、最初からあたりまえに経験できるのがゲームなのだ。つまりゲームでは、魔術的リアリズム文学と同じ方法で、その不思議な読み心地を伝えることはできない。
では、どうやってそれに匹敵するものを表現するのか。最初から非日常的なできごとがあたりまえのゲームにおいて、いかにして非日常と日常が融合していくありさまを見せるのか。
その答えは、『Kentucky Route Zero』をプレイしているときに感じる、「美しい虚しさ」とでも言える奇妙な体験だ。自分の足でケンタッキー州を歩いているはずなのに、まるでロードムービーを見ているかのように、その美しい風景やできごとがいつのまにか流れ去ってしまう。
別の言い方をすれば、自分でキャラクターの行動やセリフを選んでいるはずなのに、ゲームという舞台の上で踊らされているような気分になる。こんな気持ちは他のゲームでは味わったことがない。
なぜ、この「美しい虚しさ」は生まれるのか。それは『Kentucky Route Zero』が、“ゲームの日常”への期待を裏切っているからではないだろうか。
ここで言う“ゲームの日常”とは、プレイヤーが「移動」や「選択」などのアクションを起こすと何らかの形で変化が発生する、というゲームではあたりまえの仕組みのことだ。
『Kentucky Route Zero』においてプレイヤーがゲームに関与する部分のほとんどは、「移動」と「選択」が占めている。本作の「移動」の仕組みは、前述した“ゲームの日常”をしっかりと踏まえている。
主人公のコンウェイが歩く速度は他のゲームと比べてかなり遅いが、その遅さが逆に「自分がそこを歩いている」という確かな手ざわりを与えている。また、マップが広いわりには道案内が抽象的なため迷うこともあるが、その手間を乗り越えて移動した先には、ゲームからの素晴らしい反応が返ってくる。
探索の過程では、プレイヤーの動きに呼応する新鮮なカメラワークだけではなく、一度きりしか発生しないイベントなども見つけることができるのだ。
トンボの大群を眺めたり、通りすがりのギター弾きの音色に耳を澄ませたり…。ささやかなできごとだが、旅先ではそんなことさえも記憶に残るのと同じように、心を打つ。
このように『Kentucky Route Zero』は「移動」という点においてはプレイヤーを積極的にゲームに介入させ、その移動に対してのフィードバックという「変化」をきちんと用意している。「分かれ道の一方が行き止まりでも、そこには何かが置いてある」というような、ゲームの日常を踏まえているのだ。
しかし一方で、「選択」についてはどうだろうか。このゲームでは、選択を行う機会がプレイヤーに多く与えられている。
主人公コンウェイだけではなく、他の2、3人ほどのキャラクターのセリフも選択可能だ。セリフ以外でも、コンピューターに入力するキーワードは何か、エレベーターで何階へ行くか、棚からどのビデオを取るか…といったこまごまとした選択肢があふれている。
こうして選択をたくさん繰り返すと、その結果として物語の筋が変化することをプレイヤーは無意識に期待するようになる。もし選ばなかった方の選択肢を選んでいたら何が変わっていたのか、と誰もが気にしたことがあるだろう。なぜなら、それが“ゲームの日常”だからだ。
しかし、『Kentucky Route Zero』ではプレイヤーの選択によって物語が変わることはない。パソコンに入力するキーワードなどのこまごまとした選択肢は何かの伏線のようで、実は全くそうではない。
一見したところ、このゲームは“ゲームの日常”に則って、プレイヤーが物語を変化させられるように思える。しかしその期待は裏切られることになる。プレイヤーにできるのは、美しい物語をただ眺めることだけなのだ。
つまり『Kentucky Route Zero』はアドベンチャーゲームでありながら、物語の筋があらかじめひとつに決まっている「演劇」なのである。実際に、このゲームは「Act1, Scene 1」といった「幕」で場面が区切られている。
制作者も、プレイヤーを「役者」、彼らが選択を繰り返すことを「演技」と捉えており、役者が脚本に従うしかないように「演技」によって脚本が変わることはないと語っている。
「移動」についてはゲームのセオリー通りにフィードバックを与える一方で、「選択」についてはゲームの常識から外れ、プレイヤーに物語を変える権利を与えなかった。『Kentucky Route Zero』は、そうやってゲームの日常と非日常を融合させ、ゲームならではの魔術的リアリズム──「美しい虚しさ」のようなものを生み出しているのではないだろうか。
魔術的リアリズム文学は、日常と非日常を融合させた物語を作り、不思議な感覚を読者に与えた。一方『Kentucky Route Zero』はそのような物語を印象的にゲームで表現し、「移動」や「選択」といった“ゲームの日常”に対するプレイヤーの期待を裏切ることで「美しい虚しさ」を与えた。魔術的リアリズム文学を見事アドベンチャーゲームへと昇華し、その新しい魅力を作り出したと言えるだろう。
「魔術的リアリズム」はもともと美術に対して使われる言葉だった。それが時を経て文学の性格も表すようになる。そしてついに、ゲームにも用いられる時代が来たのだ。
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