「後悔だらけの昨日とバイバイ」
人間、生きていれば後悔をすることは絶対にあるはずだ。しかし、時を戻して人生をやり直すことはできない。
ただ、もしそれが許されたなら……。そんな誰もが通るであろう妄想をゲームに落とし込んだ作品が『Caligula2』だ。
本作のキャッチコピーは「理想(おまえ)に、現実(じごく)を見せてやる──」。こんな言葉を聞くとつい緊張感が走り、背筋が伸びてしまいそうだ。
ただ、この言葉は決して「いつまでも理想ばかり追い求めないでちゃんとしろ!」と、暴力的に突き放すものではない。
むしろ、『Caligula2』はその理想を求める欲望を否定することなく、「後悔している人間」がどうやって生きていけばよいかを、一歩一歩慎重に歩み寄ってくれながら考えてくれる作品なのだ。
文/tnhr
編集/実存
※この記事は、『Caligula2』をもっと多くの方に遊んでほしいフリューさんと、電ファミニコゲーマー編集部のタイアップ企画です。
人間を知らないキィとともに歩む「ゼロからのコミュニケーション」
『Caligula2』は2021年6月24日に発売となった学園ジュブナイルRPG。端的に言い表すと、「学園という舞台装置を利用して現実をシミュレートする作品」とも表現することができるだろう。
物語の舞台は謎のバーチャドール・リグレットが創り出した仮想世界リドゥ。ここには「後悔」という概念がなく、現実世界でやり直したいと思った人々が、“理想”の姿や生活を送っており、これはまさに「やりなおしの世界」だと言える。
“理想”というものは現実世界で願ったもの、叶わなかったものを指す。リドゥではなりたい外見になることができるし、あこがれた家族構成や職業に付くことができる。
リグレットは本作の敵の親玉のように描かれているが、苦しむ人間を救うという点においては明らかに悪意のある行為だとは思えない。人間だれしもが苦しみから逃れたい上に、どうしようもない後悔を抱えてしまうことがあるはずだからだ。
そんなリドゥの破壊を試みているもうひとりのバーチャルドールが「キィ」。キィはリドゥが仮想世界であると気が付きかけている主人公たち──帰宅部のメンバーに近づき、共に現実世界へ帰るために、リドゥを維持しようとする「オブリガードの楽士」たちと戦うこととなる。
キィは現実では発売されていない試作品のバーチャルドールで、前作『カリギュラ』に登場したバーチャドール・ミュウの子供的な存在。また、人間ではなくあくまで機械であるため、人間の価値観を完全には理解できず、帰宅部のメンバーとしばしば衝突することとなる。
自分自身で戦闘を行うことができないが、不思議な力を持っており主人公をはじめとする帰宅部たちの内なる力、カタルシスエフェクトを解放したり、戦闘中に歌を歌いながらサポートする。
また、キィは基本的にひとりで行動するのではなく、主人公の身体を借りて行動し、主人公のことを「ハンシン(=半身)」と呼びながら、まさに一心同体で戦う。主人公の調子が悪ければキィの調子も悪くなってしまうほどだ。
さて、本作の物語にはいくつかの軸が存在しているのだが、その中でも重要な要素となってくるものが「キィの成長」だ。
キィは「無知な機械の子ども」であるために、人間の気持ちや、コミュニケーションのとり方を理解することができない。しかし、主人公のハンシンとなって、いろいろな人間と関わるうちに、次第に人間らしさを獲得していく。
思い返せば、かつて子どもだった私たちもキィと同じく、人の気持ちを理解するのは難しかったはずだ。子どもは親や友達、先生などいろいろな人々と関わっていくなかで、次第にコミュニケーションの取り方を学び、少しずつ大人になっていく。
つまり、キィの存在によって、プレイヤーはあたかも新学期のクラス替えで初めて顔を合わせた人に挨拶をするかのような、「ゼロからのコミュニケーション」を追体験することができるのだ。
しかし一方で、このような「ゼロからのコミュニケーション」はいちど通過してしまうと再び経験するのは難しい。たとえ知らない人に出会うときでも、知人からの紹介であったり、あらかじめSNSでやりとりしていたりと、全くのゼロから始まるコミュニケーションというものは、ひとたび大人になってしまうとなかなか起きにくいものだ。
『Caligula2』の主人公はあらかじめ楯節学園の「帰宅部」というコミュニティに所属しているため、他の帰宅部のメンバーは彼/彼女にとっては「知り合い」もしくは「友達」なのだが、プレイヤーからすれば初めて会う人々となる。
だから、キィの存在はプレイヤーの人間に対する理解度をゼロに合わせ、感情移入を行いやすくしてくれるという意味でも重要なのである。
そこまでして、人の心に踏み込みますか?
本作は、主要な人物だけでも18人ものキャラクターが登場し、かつどのキャラクターでも細密に人間的な内面が描かれる。
帰宅部のメンバーたちは、それぞれに個別のシナリオが準備されていて、ともに戦闘を重ねることによって徐々にシナリオが解放されていく。
はじめのうちはなんてことのない学園生活が描かれるのだが、徐々に関係を深めていくと彼らがひた隠しにしている「現実世界での姿」の秘密に近づいてしまうことになる。
リドゥの一般住人は、現実世界での後悔を解消した理想の姿で生活している上、現実世界での記憶を消されている。
しかし、帰宅部のメンバーだけは現実世界の記憶を保持しており、なぜ自分がリドゥにいるのか──つまり、自分がどのような後悔を背負っているのかを知っている。もちろん、それは簡単に他人に打ち明けられるようなものではない。
そのため、帰宅部の中では「自分のことを知られたくないから、人のことも聞かないようにしよう」というスタンスが一貫している。実際、帰宅部の目的は「リドゥからの脱出」なのだから、“そこまでする必要はない”のだ。
しかし帰宅部のなかで唯一、主人公だけはスタンスが異なり、彼らとかなり密接なコミュニケーションを取ることとなる。
個別シナリオでは、彼らと仲良くなっていくうちに、ふとした会話からその人の知られたくない過去や現実の姿の話がボロっと出てきてしまうことがある。その際の緊張感や気まずさがじつに生々しく表現されており、それによって「他人を傷つけてしまうかもしれない」という残酷さも描かれる。
他人の秘密を知るということは、一歩間違えれば関係が一気に崩れてしまう可能性もある。そこで聞かなかったフリをして、何事もなかったかのように笑って流すのが“大人”の付き合い方かもしれない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか? 他人に絶対言えないような悩みでも、助けてくれるのが「友達」や「仲間」という関係性なのではないだろうか?
本当にその人と真正面から向き合いたいのならば、「傷つけてしまうかもしれない」というリスクを背負ってでも、腹を割って話すべきなんじゃないだろうか?
このような葛藤を端的に表したのが、「心の奥に踏み込みますか?」というセリフだ。
一見すると暴力的な選択肢だが、“そこまでして”でないと得られない何かは、たしかに存在する。『Caligula2』はそんなことを教えてくれるのだ。
一見わかりにくい、非常に個人的な「後悔」を抱えたキャラクターたち
『Caligula2』では、味方側の帰宅部も敵側の「オブリガードの楽士」たちも、平等に描かれているのが特徴的だ。どのキャラクターも欲望に忠実に生きており、現実の姿をひた隠しにしている。リドゥに対する態度や考えも、敵サイドでさえひとりひとり違う考えをもっている。
敵と味方を分けるのは、「リドゥを壊すか、維持するか」という点だけだ。
また、彼らの抱える欲望や後悔はかなり個別的・具体的に描かれているのが本作の特徴のひとつでもある。
たとえば、帰宅部メンバーの「宮迫切子」は、なぜかリドゥでバイトをしている。なんでも叶う理想の世界に行けるのなら、普通は労働なんかしたくないはずだ(諸説あります)。しかし彼女にとっては、それが「理想の姿」なのである。
このように、リドゥでの理想の姿には彼/彼女らの個人的な「後悔」が大きく関わっている。
ほかには、帰宅部メンバーの「駒村二胡」というキャラクターも象徴的だ。
二胡はとにかく元気印の、 明るく無邪気な少女。 誰に対しても分け隔てなくコミュニケーションを取ろうとするのだが、その天真爛漫な感情が空回りすることも多い。
ただ、感情の起伏が激しいように見え、ちょっとでも心にモヤモヤがあったら、すぐに顔に出て落ち込んだ態度をとってしまう。
本作では、「WIRE」と呼ばれるメッセンジャーアプリでキャラクターとコミュニケーションを取ることができるのだが、二胡との会話でうっかり地雷を踏んでしまうと、ただならぬ緊張感が走る。
しかし、この微妙に扱いにくい感じこそが駒村二胡の魅力なのだ。
普段はムードメーカーのように明るく振る舞っているけど、あからさまに機嫌が態度に出てしまう。コミュニケーションを重ねていくと、二胡が「ムリして明るく振る舞っている」、「無邪気さを取り繕っている」ように感じられるのだ。しかし、リドゥで「理想の姿」を取っているはずなのに、なぜムリしているように見えるのだろうか。
じつはここに二胡の個人的な「後悔」が関係している。彼女がいったいなにに後悔してこのような振る舞いをしているのか。これ以上はネタバレになるので、実際にゲームをプレイして確かめてほしい。
「いまこの教室に強盗が来たらどう撃退する?」とシミュレートするようなバトルシステム
学生時代に「いまこの教室に強盗が来たらどう撃退するか?」とシミュレートしたことはあるだろうか。『Caligula2』のバトルシステム「イマジナリィチェイン」は、まさにそのシミュレーションをゲーム化したものと言えるだろう。
バトルでは「あいつがこっちに動くからここに移動して……」というふうに未来を予測し、敵の行動を読みながらコンボを繋げ、戦いを組み立てていく。うまく使えれば、仲間との連携で大きなダメージを与えることができたり、逆にどんなに大きなダメージでもしのぐことができたりする。
仲間の行動をAIに任せるオートモードもあるので、サクサク進めたい方にはそちらをオススメしたい。
もうひとつ、『Caligula2』の戦闘システムの面白いところは、キャラクターが「自分がどう見られたいかを意識したスタイルで戦う」という点だ。
教室を占拠する強盗をどんな方法で倒すか?それを妄想したとき、その戦い方にも人それぞれの個性があるはずだ。それと同じように、帰宅部メンバーの戦い方から、彼/彼女らの性格や思想を感じ取れるようになっている。
たとえば、2番目に仲間になる「編木ささら」は非常におっとりとした優しい性格だ。しかし、バトルではサポート・回復系の技を多く持ち、体力も高いタンク・ヒーラー職となる。しかも積極的に前に出て、自分を盾にして味方を守ろうとするのだ。一体なぜこのように戦うのかも、作中で明かされるので注目していただきたい。
さらに、戦闘中のキャラボイスも豊富だ。パーティーの組み合わせによってボイスの掛け合いが変わっていき、ストーリーを進めなくとも、キャラクター同士の関係性が見えてくる。
余談だが、ゲームも中盤に差し掛かった際、風祭小鳩が「雑魚戦だるいんですけどぉ」とぼやいた矢先、キィが「コバト!ちゃんとやれ!」と怒ったときには心情を先読みされているようで大笑いしてしまった。
なぜ理想の世界に安住せず、現実に戻るのか?
主人公たち「帰宅部」は、理想の世界・リドゥからの脱出を目指す。それが本作の目的だ。
しかし、もし理想の世界で生きられるとしたら、あなたは現実に戻りたいと思うだろうか? だって、たとえそれが「現実逃避」だったとしても、つらい現実よりも後悔のない理想の世界のほうが、どう考えたっていいじゃないか。
これは、仮想世界を描く作品において避けられない問いだ。
しかし、じつのところ『Caligula2』では、現実へ戻る必然性は明確に描かれているわけではない。帰宅部もキィの「リドゥを壊す」という目的に協力しているというだけであって、メンバーそれぞれに「どうしても現実に戻りたい」という強い動機があるわけでもない。
しかし不思議なことに、プレイしていると「理想の世界は羨ましいけど、やっぱり現実に戻らないとなあ」と思えてくるのだ。
帰宅部と楽士たちはリドゥの破壊と維持をめぐって衝突するのだが、楽士たちは帰宅部のメンバーたちと戦うことで、初めて「ゼロからのコミュニケーション」にぶち当たる。
そこで描かれるのは、言葉と言葉のぶつかりあい──というよりも「ぶん殴りあい」と言ったほうが正しいくらいに、自分の思っていることを素直に伝える、直球ど真ん中のコミュニケーションだ。
「お前が言ってることはめっちゃわかるけど、そんなことしたらダメだろ!」と思わず熱い気持ちになってしまう。
楽士たちが説得される過程も、「めちゃくちゃ良い言葉に心を動かされた」というわけでもないのも良い。楽士たちは強くスマートな言葉ではなく、素朴だがまっすぐな会話を通じて現実と理想に対する見方を変えていく。
誰もが傷つかない理想の世界に唯一欠けていたものは、場合によっては痛みをもいとわない、真摯なコミュニケーションだったのである。
『Caligula2』は「現実が死ぬほどつらいけど、どうにか生きていかなければいけない」と思う方にぜひオススメしたい作品だ。
決断には後悔が付きまとう。しかし、それは仕方のないことだ。きっと、それよりも重要なことは、その後悔に真正面から向き合えるかどうかなのだろう。
我々は現実逃避のためにゲームをするのではない。現実と戦うためにゲームをするのだ。