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初めてプレイする『メガテン』は「今までなんとなくやらずにいた」のを後悔する面白さだった。『真・女神転生V』は徹底して丁寧にプレイヤーを導き、心を込めて谷底に叩き込むゲームだ

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 この度、前作から8年ぶりとなる待望の最新作『真・女神転生V』のレビューを電ファミニコゲーマー編集部から依頼された際は正直戸惑った。なぜなら私は『真・女神転生』シリーズをこれまでまともにプレイしたことがほぼないからだ。 

 当初は断ろうかとも思ったのだが、プレイしたことがないとはいえ、ずっとこのシリーズに興味があったのも確かだ。私は東北のど田舎で生まれ育ったのだが、なぜかそんな決して子供の数も多くはない土地に、『真・女神転生』シリーズを熱狂的に支持するマニアックな子供達が何人もいた。特殊な地域だったのかもしれないが、そんなカルトな子供集団が当時は色んな地域に発生していたのではないかとも思う。

 なのでそんな友人の家に遊びにいくと、『真・女神転生』を遊んでいる姿を皆で見守るというゲーム鑑賞会が始まるのだが、当時から、『真・女神転生』というゲームの持つその独特な世界観、悪魔召喚プログラム、悪魔合体に代表される独特なシステムには惹かれるものを感じつつ結局自身で没頭してプレイすることはなかった。

 その最大の要因は当時3Dで描かれるダンジョンにどうしても私自身が馴染めなかったというか、自身の空間把握力のなさに絶望してしまったからだ。それでも子供時代の友人がプレイしているのを傍から見るのは好きだった。
 それは『真・女神転生』シリーズが、当時人気絶頂の『ドラゴンクエスト』や、それに追いつけ追い越せとばかりに意欲的な新作を出し続けて成長していく『ファイナルファンタジー』といった人気シリーズとは一線を画す魅力を放ち、それが直接プレイしていない私にも届いていたからなのだろう。

 そんなこんなで、ここまで『真・女神転生』シリーズに対してずっと興味や関心はありつつもまともにプレイせずに過ごしてきたのだが、先日放送されたTBSラジオの帯番組「アフター6ジャンクション」での特集「真・女神転生とは何だったのか? あらためて徹底解説【国産RPGクロニクル】」を聴き、その魅力的な解説に唸ってしまった。
 私がぼんやりと抱いていた『真・女神転生』シリーズの魅力が具体的かつ的確に解説されたこの特集に背中を押され、最新作『真・女神転生V』は即座に自腹で購入してプレイしようと思っていた。その矢先に、このレビューの依頼が飛び込んできたわけだ。時は来た……、ということなのだろう。

 というわけで、これまで30年近くも薄く関心は持ちつつもプレイしてこなかったユーザーから見て『真・女神転生V』がどのようなゲームであったのかを述べていこう。

文/hamatsu


「2021年の東京」の象徴としての品川コンコース

 本作は、品川コンコースを歩く群衆達とその中に埋没し、黙々と通路を歩く主人公を映し出すところから始まる。

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 シリーズを通して東京を舞台にしてきた『真・女神転生』シリーズが最新作でなぜ品川駅に存在する、この通路を選んだのか。

 これは推測に過ぎないが、本作を制作しているアトラスのオフィスがセガサミーグループの本社移転に伴い、大崎に移転したからではないだろうか。
 これまでの『真・女神転生』や『ペルソナ』といったアトラスの制作するタイトルに三軒茶屋(ゲーム中では四軒茶屋だったりもする)が出てくるのが、アトラスのオフィスが三軒茶屋にあったからであろうことと同様の理由で、オフィスが大崎に移転したのだから、そこから目と鼻の先にある品川コンコースに着目するのは当然のこととも言える。

 だが、そんなアトラス側の理由とは別に、この場所はある種の象徴的なスポットとしてここ数年でにわかに注目を集めるようになった場所でもある。

 “社畜回廊”とも呼称されるこの通路はコロナ禍においてもまだ律儀に出勤を続け朝のラッシュを維持し続ける日本のサラリーマン達の在り方を象徴する場所として、さまざまな形で切り取られ報道されてきた。
 そしてこの通路のイメージを決定づけたのは、品川コンコースに設置されている44個の液晶広告看板に「今日の仕事は、楽しみですか。」というメッセージが一斉に掲示されながらそれでも黙々と歩き続ける群衆を撮影した写真がネットに投稿され、そのあまりに強烈なビジュアルが悪い意味での反響を呼び、結局広告が取り下げになってしまった件だろう。【※】

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(画像はアルファドライブ麻生要一社長のTwitterより)

 この広告の是非についてこの記事でどうこう言うつもりはない。私が関心を持つのは「なぜ品川コンコースはここまで悪い意味での注目を集める場所になってしまったのか」ということと、そしてなぜ『真・女神転生V』はそんな“負の印象の強い場所”から物語を始めようと思ったのかということだ。

 私なりの考えを述べるのであれば、品川コンコースという場所は、そこにいる人間の行動の自由を著しく奪う場である。あの場にいる人間は基本的には目の前の通路をただただ前に進むことしか許されていない。
 おそらくではあるが、両サイドに何らかのお店があったりするだけでその時点であの通路の閉塞感は大きく緩和され、いわゆるどこにでもあるアーケード的な通路になっただろう。しかし、品川コンコースはその高い天井や幅広い通路など、一見開放的な見た目とは相反してそこで行うべき行動の幅が狭い。そしてそれにトドメを刺すかのように設置された44個の液晶広告看板である。
 あれだけの数の液晶が設置されながら全く同じ内容の広告しか表示されないと言うことによって、あの通路を歩く人間は、「見る」と言う行為ですら制御されてしまうのである。あの看板の内容を制御できるのは「課金」した広告主のみであるという事実がさらにあの通路のディストピア性に拍車をかけているとも言えるだろう。

 実際にそこを歩いている人の抱く感情はさまざまであるはずだし、私自身は初めて上京して品川コンコースを歩いた時はその規模に圧倒され正直感動したりもしていた。
 しかし、少なくともそれを客観的に観察する限りにおいては、そのような本来であればさまざまであるはずの人間の内面の多様性など剥奪され、盲目的に目的地(主に仕事場)へ向けて歩く群衆の中のひとりとして観測されてしまう……というのが品川コンコースという場所の持つ一種の禍々しい磁場である。

 それは、この通路が人間の行動を極めて制限する「レベルデザイン」がなされた空間だからなのだ。その天井の高さや通路の広さから、第三者的な立場で「撮影」したり「切り取り」したりといった行動はしやすくなっているというのがまた皮肉な話である。

 そんな人間の行動を著しく制限し、制御する場で何かが起こり、通路が封鎖されることから『真・女神転生V』というゲームは本格的に駆動し始める。品川コンコースという自分を黙々と従わせていたルールを放つ場が侵略されることで、プレイヤーは自発的に自分の行く先を「探す」必要性が生まれるのだ。

 それから程なくして、本作の主な舞台となる「ダアト」に主人公は放り込まれ、本作の冒険は幕を開ける。

 砂漠化し、荒廃してこそいるが、「ダアト」での行動は至って快適だ。軽快で特にスタミナやゲージの制限などのないダッシュ移動、それなりの段差でも飛び越えられるジャンプ、そして主人公に危害を加えてくる悪魔は、基本的にシンボルエンカウントで遭遇するのだが、これらの移動アクションが高性能であるため避けようと思えば簡単に避けることも出来る(後半になるほど避けることも難しくはなるが)。

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 一見、殺伐としている「ダアト」だが、整然としているものの人間の行動を著しく制限し、抑圧してくる品川コンコースと対比すると、多彩なアクション、多様な行動を許容する寛容な場であることに気づく。
 この行動に対する寛容さについて対比構造を作るために品川コンコースを冒頭の舞台として登場させていたのだとすれば、『真・女神転生V』制作スタッフの現代の象徴を切り取りながら巧みにゲームに落とし込み、自身のゲーム世界をより鮮やかに演出する手腕は見事なものだと思う。

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 「2021年の東京」を鮮やかに切り取って見せた時点で、『真・女神転生V』はひとつの時代の記録として語り継がれるべきゲームになっている。少なくとも私は『真・女神転生』シリーズ弱者であるにも関わらず、この冒頭の構成に早くも強く心を掴まれてしまった。

「コミット」できる世界

 “プレイヤーの起こす行動に寛容な世界”としての「ダアト」について先ほど述べたが、女神転生シリーズにおいて、行動に対する寛容さ、多様さを象徴するシステムと言えば、敵キャラクターを自分の仲間にすることが出来る、「仲魔」システムだろう。

 先駆者である『真・女神転生』シリーズを前にして、例として名前を出すのは憚られるが、『ドラゴンクエストV』にしても『ポケットモンスター』シリーズにしても、「敵キャラクターを仲間にすることが出来るシステム」というものは良いものである。

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 なぜ敵を仲間に出来ることが良いのか。それは世界との関係性、世界の見え方を変えてくれる仕組みだからだ。

 敵キャラクターに対して仲間にすることが出来るという可能性が付与された時点で、その敵キャラクターは単なる敵ではなく、戦う以外の道筋が提示された「交渉相手」に姿を変える。
 女神転生シリーズにおいて主人公を取り巻く世界は容赦なく主人公に襲い掛かる脅威であると同時に、戦うだけではない別の可能性を持った何かとしても存在しているのである。

 この「仲魔」システムの存在によって女神転生の世界は常に、恐ろしくあると同時にある種の寛容さを内包する、主人公がさまざまな形でコミットすることが可能な開かれた世界になっている。『真・女神転生』シリーズとは単に目の前のダンジョンやフィールドを攻略するゲームというよりも、「自分なりに世界との付き合い方を探るゲーム」なのではないかと私は思うのだ。

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 そして「仲魔」システムと同等、もしくはそれ以上に本シリーズを魅力的なものにしているのが、その「仲魔」にしたキャラクター同士を合体させる「悪魔合体」システムである。せっかくシビアな交渉の末に仲間入りし、共に戦ってきた戦友でもある「仲魔」をあっさり素材として提供することでさらに強い「仲魔」を得る。このドライと言えばあまりにドライなシステムによって、本作の世界観は決定的なものになったと言えるだろう。 

 さっきまでは自身に襲いかかる脅威でしかなかった敵キャラクターが「仲魔」システムによって「交渉相手」に姿を変え、その末に自分と共に戦う戦友となり、その戦友すらも素材として「悪魔合体」システムに提供し、更に自分に利する、より強い「仲魔」を得ることで、更に世界の深淵へと向かうことが出来るようになる。
 この自身の目の前に広がる、危険に満ちた世界にさまざまなアプローチでコミットし、なんだったらその世界にあるものを自分のために利用していくことすら厭わないゲーム、それが『真・女神転生』というゲームなのだろう。

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 いろいろ能書きを書いているが要するに『真・女神転生V』を開始してすぐに私はこのゲーム、およびこの「仲魔」システム、「悪魔合体」システムに見事にハマってしまったのである。

「流れ」を錬成するプレスターンバトル

 バトルシステムについても触れておこう。『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE』で初導入されたというこのバトルシステムは、敵の弱点をついたりクリティカルヒットをすることでより多くの行動が可能になる(最大8回攻撃)。
 一見すると、こちらが一方的にボコれる「ずっと俺のターン!」的なシステムなのではないかと私には思えた。むしろ、遊び始めた当初は「こんな一方的にこちら側が有利なシステムでいいのか」とすら思った。

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 しかし味方側がずっと俺のターンでボコボコにできるということは、これが相手のターンになって、もし相手側がこちらの弱点を巧みに突いてきたとすれば「ずっと相手のターン!」になってしまうというハイリスクなシステムでもあるということにすぐに気付かされた。
 要はちょっと強めの敵に遭遇したにも関わらず、適当に舐めプしたらあっさり返り討ちにされてしまったということだ。すでにこのシステムを体験し熟知している人からすれば今更過ぎるだろうが、このシステムは本当に良くできている!

 いかに自分の行動を最大化し、相手の行動を寸断、抑制するかということが肝になるのだが、その場の状況に応じたパーティ編成や理想的な攻撃順番を考え、理想的な攻撃ターンを決められたときには自分でひとつの大きな「流れ」を錬成できたかのような喜びがある。

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 本作の攻撃ひとつひとつはそこまで派手なものは多くないように思うのだが、それはおそらく意図的なもので、単発の派手さよりもパーティ全体で理想的な「流れ」が生み出せたとき、カタルシスが最大化するようになっているのではないかと思う。
 そして攻撃を外した時の自分の行動回数がごっそり削られる感覚というのもこれまで他のRPGではあまり経験したことがない感覚を覚えた。「自分の思い描いていたビジョンが道半ばで潰えたような寂しさ」といえばなんとなく近いだろうか。

 この自身の行動回数上昇にともなう、さまざまなビジョンを描きそれを実行する全能感と、行動回数減少に伴う自分の持っていたはずの可能性が一気に狭まる心細さ。それが相手のターンでも同様のことが起こった時の一方的にボコられる無力感、そして相手の行動を先読みして寸断に成功した時のしてやったり感。
 これらの感情を絶え間なく喚起してくれるというだけでも本作のプレスターンバトルは経験する価値がある。長年のファンからすれば「気付くのが遅すぎる」と言われるだろうが、正直に自身の気持ちを述べるのであれば、ここまでなんとなくやらずにいて本当にすいませんでした。

丁寧に導き、容赦なく突き落とす

 最後にまとめよう。すでに述べたように、私は『真・女神転生V』が初めての本格的な『真・女神転生』体験だったわけだが、自分でも意外なほどになんの抵抗もなくハマってしまった。

 なぜここまですんなりとハマれてしまったのかといえば、それは情報の出し方、新しいルールやシステムの開放のタイミングが極めて洗練され、巧みだからだ。
 本作の物語や登場する個々のキャラクターの深掘りをする前に、早い段階で「ダアト」に主人公を放りこんでまずはゲーム世界に順応してもらう構成などは、このゲームの持つ、世界とのさまざまな行動で多様な関係性を持つという本質をまずは理解してもらうためと考えれば実に利に適っていると思う。

 そしてゲームをプレイするうえで何気に非常に重要な、移動の快適さ、戦闘に移行する際の切り替わりの速さなども快適そのものだったし、ファストトラベル可能な拠点の配置バランスも絶妙な間隔で配置されている。

 そしてスタート時点は一本道だがそれが次第に枝分かれし広がっていき、次第に複雑さをましていくフィールドも探索欲を刺激する3Dならではの良いフィールドである。

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 こうやって良い点を挙げていくと、『真・女神転生V』は隙がなく磨きあげられた優等生的な作品のように思えるのではないだろうか。それはそれで間違いではない。
 シリーズ初心者であってもなんの問題もなく夢中でプレイしてしまったのだからもし、私と同様にこのシリーズに興味はあるが、なんとなく敬遠してしまっていた人が居ればそんな人には胸を張っておすすめすることが出来る。

 しかし、本作が「単に良くできたゲームなのか」と言えばそうとも言い切れない部分もまた存在する。

 私は今回『真・女神転生V』をプレイするにあたって、初めて遊ぶということもあってかなりゆっくりと時間をかけて進め、出来るだけの悪魔を「仲魔」にし、寄り道できそうな要素も可能な限り埋めながらゲームを進めていたのだが、それでも要所要所で登場する攻略必須のボスには思いのほかあっさりとやられてしまうのだ(難易度はNORMALでプレイ)。
 戦いに負ければ問答無用でタイトル画面に飛ばされ、そこまで油断してセーブを怠っていたりなどすれば、ここまでの道中での行為は水泡と化す。

 ここまで、あまりに丁寧に丁寧にゲーム中でエスコートしてもらっていた私は、ここで一気に谷底に落とされたような気持ちになった。そして同時に気づく。これが『真・女神転生』なのかと。

 だいぶ鍛えて強くなった状態で臨んだとはいえ、適当なごり押しプレイで臨めばあっさりと負けるし、そこに救済措置などはない。あの鬼のように厳しい『SEKIRO』ですらランダムで救済措置(冥助)があるにも関わらずである。
 危険なエリアに向かう際には、事前に警告を発してくれるし、そこに導く過程においては徹底して親切丁寧でありながら、突き落とす際はあっさりと容赦なく突き落とす。『真・女神転生V』とはそのようなゲームでもあるのだ。

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 だが、それは本作が理不尽なゲームであるということを意味しない。きちんと対象と向き合い、適切な対処を施しひとつひとつのターンを無駄にせずに戦えば、無法に強いと思った相手だって勝つことが出来るようバランスはしっかり取られている。

 この文章を通して、私は『真・女神転生』シリーズが共通して持つ、プレイヤーの多様な行動にたいする寛容さについて述べてきたが、行動に対して寛容であるということは、「杜撰な行動を認める」ということではないのである。力におぼれてひとつひとつの行動に対する真摯さを失った瞬間に、この世界は容赦なく牙を剥き、速やかにプレイヤーを谷底に突き落としてくる。

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 過程においては徹底して丁寧で洗練されていながら、要所においては容赦なく本性をむき出しにする……。
 本作のこのあり方は、四半世紀以上の長い歴史を重ねたシリーズにとっては、根本であり核心の魅力を損なわない形で維持しつつ可能な限り現代的な形にアップデートをするという、考えうる限りの理想的な形式なのではないかと思う。
 だが、こればかりはシリーズを長年遊んできたファンでもないと判断することは難しいだろう。私個人としてはこれまでこのシリーズを遊んでこなかった自身の不明を恥じるばかりである。

 このレビューを書く過程において、参考がてら『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』などの過去作にも手を伸ばしているのだが、今後しばらくは寛容でありながら同時に容赦のない『真・女神転生』の世界に浸り続けようと思う。

ライター
某ゲーム会社勤務のゲーム開発者。ブログ、「枯れた知識の水平思考」「色々水平思考」の執筆者。 ゲームというメディアにしかなしえない「面白さ」について日々考えてます。
Twitter:@hamatsu

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