フィクションを自分事として捉えて、糧にするということ
現実と空想は区別しなくてはいけない。
しかし、実感の伴った高度な表現は、たとえフィクションであってもリアルに感じることができる。
それを他人事ではなく、自分事だと感じられる。それが共感するということだと思う。
これまでの経験や、今の状況と重ねて、「自分もそうだ」と思えるからこそ感動する。
ここで少しばかり、私自身の話をさせていただきたい。
私は、ちょうど本作が発売された2019年末頃にうつ病を患い、しばらくの間休養していた。
心身のバランスを崩し、仕事の責任を果たせなくなっていった挫折感から、己の才能の無さを思い知った絶望感から、立ち上がることが出来なくなってしまった。そのほかにもさまざまな要因はあったが、いずれにしても、自分を見誤ったのだろう。
そして、その状況に追い打ちをかけるように新型コロナウイルスの脅威が世界を襲った。
今まで楽しいと思っていたことをやっても、何も感じられない。
今まではこれが自分の生き甲斐だと、自分の武器だと思っていたものを失った。
これまでに積み上げてきた僅かばかりの自信と自負は完全に崩れ去り、不甲斐なさと後ろめたさから人を避けるようになった。そして、次第に社会的にも、精神的にも孤立した。
もっとも深刻なときは起き上がることすらできず、何も欲求が湧かなくなり、ただ肉体的に死んではいないというだけで、およそ人間として生きているとは言えない状態だったといえる。
それでも時間は止まらない。世の中の状況は動いていく。自分を除いて。
これまで繋がっていた人たちとの繋がりは断たれて、自分は誰とも繋がっていないと感じるようになった。
私を信じ続けて、繋ぎ止めてくれた人たちのおかげで、今はどうにか立ち直りつつあるところだが、ふり返って思えば、「繋がっていないと感じていた」だけなのだ。しかし、そのときはどうしようもなく、そう感じていた。
そんな経験をしたうえで本作をプレイすると、どうしてもサムの姿に自分を重ねてしまう。
発売当初にプレイしたときはまったくサムに共感できなかった。彼の後ろ向きな姿が不快で仕方がなかった。それは私が自分自身の認めたくない姿、受け入れがたい現実を、サムを通して見ていたから気に入らなかったのだと、今になってみれば理解できる。
だからこそ、自分とサムのシンクロ率が高まった状態でサムが回復していく過程を見つめると、私自身が本当に励まされた。
ときには感情移入するあまり、サムが激しく落ち込むと、私の気持ちも深く沈み込んでしまうときさえあったほどだ。
せめて、ネット上では元気に明るく振る舞おうとしてみせても、結局自分の心に嘘をつけない。
Twitterに空元気な投稿をしては、バカバカしくなって、すぐに削除するということを繰り返し、虚しさのあまり一度はアカウントを削除してしまったこともある。
どうせ誰とも繋がれない。どうせこんなもの、もう続ける必要はないと。
しかし、作中でデッドマンがサムに伝えたブリジットの言葉を聞いて、思い直した。
「私たちとの繋がりを断つ必要はなかった」
本当にその通りだと反省した。これでは人を頑なに拒み続けているサムと同じじゃないか。自分から突き放す必要はないし、繋がる可能性を自ら捨てる必要はないのだ……。
私はサムではないし、サムの物語と私の人生は違う。しかし、間違いなく、自分の中にもサム・ポーター・ブリッジズがいた。ただの、ほかの“誰か(someone)”ではない。他人事ではない。
そう感じたからこそ、サムが作中で人と繋がっていき、少しずつ外交的になっていくことが、まるで自分のことのように嬉しく思えた。
世界を繋ぐ役目を終えたあと、サムが自らデッドマンを力強く抱きしめて、感謝の言葉を伝える姿には、涙が溢れた。
最後の決断をするとき、サムが自ら繋がりたいもの、守りたいものを強く求めて、希望の光が灯ったとき、心から安堵した。
そして、今度は自分が希望を見出していく番なのだと勇気付けられた。
人のために仕事をする、世の中における役割を自覚して担うとは、どういうことかを考える
物語の終わりに、サムはかけがえのない絆を見出し、新たな道へと旅立った。
それは虚構からの旅立ちでもある。
すなわち現実の受け手である我々へのバトンタッチ。
世界を繋ぐ旅を終えることで、サムはプレイヤーの未来へと繋がる架け橋となるのだ。
サムが世界を繋ぎ、人々の未来を繋いだように、
サムがルーに愛情を注いだように、私も愛すべきものを見出したい。
サムは己の過去を知り、託された想いを、「役割」を受け継いだ。
過去に縛られる必要はない。ただ、過去と向き合う必要はある。
人の役割は、時代の流れによって変わっていく。
かつては『メタルギア・ソリッド』シリーズの主役であり、プレイヤーの分身であるソリッド・スネークを演じていた大塚明夫氏は、今作ではサムを導く存在であるダイハードマン役として本作に関わっている。
そのように、時代によって人の立場は変わり、役割は次の世代へと受け継がれていく。
今年、35歳を迎えた私の役割も変わろうとしている。
世の中における自分の役割とは何か?
人のための仕事とは、どういうものか?
何が自他ともに幸福になれる道へ繋がるのか?
そんなことを自問自答してしまう。
正直言って、まだ完全に立ち直ったわけではない。それでも前を向いて、未来へ向かって生きていけると信じて、今日も「自分にできる仕事」をしていくしかない。
『DEATH STRANDING』は、生きていくうえで必要なことを、人と人が繋がって、支え合っていくために必要な「実感」を、ゲームという媒体でしか成し得ない手法によって伝えてくれた。思い出させてくれた。
ゲームが持つ力を、エンターテインメントの力を、あらためて実感させてくれた。
こんな素晴らしい作品を作ってくれた小島監督、コジマプロダクションの皆さまには、感謝しても仕切れない。
そして、何か自分にできるかたちで、せめてものお返しがしたい。ライターとしての役目を果たしたいという思いで、『DEATH STRANDING 2』が発表されたこのタイミングで、筆を執った次第です。
少しでも、『DEATH STRANDING』の素晴らしさが伝わり、続編への期待に繋がりますように。
本当に、本当にありがとうございました。
最後に。
ここまで本記事を読んでくれた読者の皆さま、ありがとうございました。