もしもある物語が語られるのならば、その物語に登場する人物あるいは世界が、なんらかのかたちで「回復」されようとしなければならない。
回復のための手段や過程、その成否、ありようは、作品によって異なる。むしろ、その差異の際立たせ方こそが、作家の腕の見せ所である。
道中でどんな展開があろうとも、マリオはピーチ姫を救出することによって、かれ自身を回復する。また、ほかの登場人物たちも、かれらなりの回復を体験する。さまざまな出来事のなかで、クッパが反省の色を見せたりするかもしれないし、臆病者のルイージが頼れる人間に成長するかもしれない。そのことが、物語世界全体に、なんらかの影響を及ぼす。そして物語世界内のパラダイムの転換が語られる。
これが物語芸術一般における金科玉条である。この規則にたいするなんらかの意識をもたない物語はこの世に存在しない。
では、『DEATH STRANDING』においては、なにがどのように回復されるのか。
この作品においては、ふたつのものが回復される。いずれもその手段は「接続」である。ひとつめに回復されるものは国家であり、サム・ポーター・ブリッジズという主人公の「跛行」【※】によって達成される。彼は人々の期待を文字通り背に負って、荷物を待つ人のもとへと届ける。
※跛行:
歩くときにうまく体重を支えられず、足を引きずって歩くこと。新城カズマ『物語工学論 キャラクターのつくり方』で作家が挙げた7つのキャラクターの類型にあてはめると、サムは「さまよえる跛行者」だ。これは古今東西のあらゆる物語にみられる類型で、しばしば主人公の役を担う。
もうひとつ回復されるものは、サム自身の失われた繋がりである。他人に触れられることに不快感を覚え、組織から離れてフリーランスに身をやつしていた彼は、表面的にも内面的にも孤独である。それも、かなり根の深い孤独だ。彼は社会のなかでそれなりにうまくやっていくことができ、日常生活に問題はないが、人間にとってたいせつな、深い繋がりをもつことができていないのだ。
それでは、どのようにしてこの物語はふたつの失われた繋がりを回復したのか。
※編集部注:
同記事には、『DEATH STRANDING』の物語とエンディングに関するネタバレ情報が含まれています。ゲームをクリアしてから記事を読むことを強く推奨します。
ひとつめの繋がり──「国家」
一般的に、国家あるいは社会が不安定な時期にあるとき、われわれ人類によって伝統的に行われてきた行為は、「測量」である。
伊能忠敬は(これは自身の天文学的興味、子午線一度の距離を求めるための方便であったのだが)帝政ロシアによる蝦夷地への圧力を説得の材料とし、幕府に仕事をもらって、北方へと測量の旅に出た。
あるいは現在の合衆国ペンシルバニア州とメリーランド州を分けるメイソン=ディクソン線は、18世紀の植民地時代に両州が係争していたクレサップ戦争を調停するために、とにかくしっかり境界線を引かねばならないという結論に達した領主たちが、ふたりの測量士を雇って4年がかりで引かせたものだった。
このほかにもさまざまな、無数の例が挙げられるが、とにかく肝要なのは、ある社会がなんらかの危機的状況に陥ったとき、その反応として、しばしば誰かが国土を一周し、地図を更新してきたことだ。それによって公権力は自分たちが置かれた状況を把握することができ、適当な治政を行えた。新しい地図は社会に秩序をもたらし、それによって人々の繋がりが回復するのである。
しかしながらこの社会的事業に、サムは興味をもたない。彼の目的は、彼がゆいいつ繋がりを持ちたいと思っている、西で捕らえられた「ピーチ姫」を救うことだけである。
その個人的な道程に、いわば社会が期待という重しをくくりつけているのだ。ほんらいなら、どうでもいい他人の荷物など背負わずに、身軽なままで西へと駆け抜ければよかったはずだ。
なぜ、彼はこの国家事業を断りきれなかったのか? また、なぜ公権力は彼のような、腕が立つとはいえ結局はブルーカラーの男に、重要な事業を委ねたのか? その理由は、彼がDOOMSであり、帰還者であるという特質をもっていたこと以上に、肩すかしな答えだが、彼がこの物語の主人公だからである。彼は重しをくくりつけられてふらつくことで、主人公の格を得ているのだ。
この世に欠けたところのない人間はいない。したがって、すべての物語の主人公は欠けている。その欠損を埋めるために主人公が行動することによって、ドラマが生まれる。
はじめのうち、私たちは重い荷物を背負ってふらつくノーマン・リーダスの身体のバランスを取ることに熱中する。そうする理由もまた、重ね合わされている。
ひとつには、そうすることがゲームとして面白いから。また、彼が背負っているのは大事な荷物(人々の期待、繋がり)であるから。また、ふらついている(=不安定な)彼を、プレイヤーとして助けたいと思うから。
つまり私たちプレイヤーが、サムという人間を操作して彼を進めるとき、すでにふたつ以上のものが回復の過程にある。ひとつは分断された社会、もうひとつはサム自身。前者は個別の荷物を届け先に配送することで短期的に、後者はゆっくりとピーチ姫のもとへ近づいていくことで長期的に、回復が達成されていく。このふたつの目的がより糸のように絡みあっていて、プレイヤーはこれを手繰っていくのである。
ふたつめの繋がり──「個人」
ただ、この物語が一筋縄でいかないところは、彼が救おうとしているピーチ姫が、アメリカそのものであることだ。そもそもからして、彼の個人的な目的は、彼が興味をもたない公共的な目的、「アメリカを再建する」(Make America Great Again)という大義名分と、重ね合わされてしまっている。
そして西にたどり着いたとき、そのアメリカ自体が、物語の根幹にかかわるさまざまな現象の原因であると判明してしまう。そのために、望んでいたサム自身の繋がりは、回復されない。
初見のプレイでは状況をうまく飲み込めないし、だからこそあのシーンはすばらしいのだが、西にたどりつき、あのビーチでリボルバーを手渡されたとき、私はアメリを射殺しようとした。プレイヤーとして、そうしたかったからである(これはよく考えると人非人の行いであり、けっきょくは私のような人間が戦争を起こすのかと戦慄したのだが)。
しかしサムは、このときプレイヤーの操作を逸脱して、なおもアメリとの繋がりを求めようとする。事情がわかってからこのカットシーンを再見すると、ひじょうに悲しい。あんなに頑張ったのに、サムは繋がりたいひとと繋がれなかったのだ。
だからこの物語は、この時点では、サム個人にとっては悲劇といえる。唯一の希望であったアメリはどこかべつの次元へと流されていってしまい、今後の繋がりの可能性さえ失って、「立ち往生」(Stranded)するはめになったのだから。
いっぽうで、国家は回復する。サムは「建国」(測量)を達成し、ダイハードマンによる大統領就任のスピーチが行われる。しかし、サム自身はアメリカへの参加を望まない。これは、うなずけることだ。アメリカという国家の繋がりは回復したが、サム自身の跛行のきっかけとなった分断(アメリとの繋がりの消滅)は、回復されなかったのだから。
さて、このまま物語が終われば悲劇だが、最終的にサムはある種の救いを得ることになる。それは「ブリッジ・ベイビー」(BB)、あの世とこの世を繋ぐ胎児との、新しい繋がりである。この繋がりはゲーム全編を通じてゆっくりと醸成されていったものであり、プレイヤーもこの胎児をあやす行為に何度も参加していたので、説得力がある。
そのブリッジ・ベイビーも、ついに機能を停止してしまう。サムが「ルー」と名付けた装備品を処理するために、彼は最後の配達に出かける。行き先は、ゲーム序盤でアメリカ合衆国前大統領を焼却したのと、おなじ焼却炉である。
さて、ブリッジ・ベイビーの遺体を運び終えて、火葬炉に乗せたサムは、ふと思いとどまって、遺体をもういちど胸に抱く。作中はじめてポッドからブリッジ・ベイビーを取り出し、手で触れて、必死に目覚めさせようとする。「ネクローシス」の始まりと思われる黒い粒子が遺体から吹き出るが、サムは意に介さない。それよりも、この子の目がもういちど開いてほしいと思う。
なぜなら、国家との繋がりであった手錠を捨てたいま、彼に残された最後の繋がりであるブリッジ・ベイビーと別れることは、完璧な孤独のはじまりであると思い至ったからだ。社会との繋がりを燃やし、彼と苦楽をともにしたブリッジ・ベイビーを燃やすことは、彼と他者とのあいだの橋を燃やすことにほかならない(英語の慣用句のなかに、“Burn the bridge”というのがあって、これは他者との関係を完全に断ち切ることを意味する)。
サムは察したのである――この橋を燃やしてしまえば、もう二度と誰とも繋がることができない。
だからこそ彼はブリッジ・ベイビーを胸にかき抱き、遺体にぺたぺたと触れて、必死に繋がろうとしたのだ。
最後の繋がり──「神性」
奇跡が起きる。
ポッドから取り出されたブリッジ・ベイビーは、サムの腕のなかで生を取り戻す。それは死んでいたのであって、黄泉がえり、再誕である。ここで、虹が架かる。それはいままで作中に何度も現れていた、弧が下向きの異常な虹ではない。弧が上向きの正常な虹である。
虹は、創世記第9章によれば、神との契約のしるしである。世界を滅ぼすほどの大洪水のあと、箱船のなかのノアとその子らにむけて、主は「契約」について言及する。
「わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」
さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。
こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」
──創世記九章九節から十六節、國際聖經公會/International Biblical Organization訳
サム・ポーター・ブリッジズがブリッジ・ベイビーとのあいだにかけた虹は、ほかでもない虹の橋であった。神は契約を思い出し、絶滅は延期されたのだ。
ここまで来ると、神性を抜きにして語ることはできないだろう。サムの腹には聖痕(十字架)が刻まれており、また彼は帰還者(復活するキリスト)だ。そして彼はさまざまな世界(それぞれのプレイヤーのゲームのインスタンス)に遍在(Omnipresence/神の性格のひとつ)する。また、ブリッジ・ベイビーはクリフとリサの子であると同時に、サム自身でもある。
しかしながら、たとえ上向きの正常な虹がかかり、その虹の橋のたもとに宝物が埋まっていたとしても、それはまだ発掘されたわけではない。
物語は、人々が繋がるための基礎である国家を回復したところで終わる。また、サムはブリッジ・ベイビーとの繋がりを回復し、それによって彼自身をある程度回復するが、その先がどうなるのかはわからない。おとぎ話のように、「それから彼らは永遠に幸せに暮らしました」と終わるわけではない。
終章は転結せず章題のみで、“Tomorrow is in Your Hands”(明日はあなたの拳のなかに)とプレイヤーに委ねられる。
さて、プレイヤーはどうすればよいのか?
作品のなかの繋がりからわれわれの繋がりへ
ポール・オースターが『闇の中の男』で分断した合衆国を描いたのは、2008年のことだった。この小説のなかでは、2001年の9.11同時多発テロは起こらなかったが、そのかわりに国をまたぐ内戦が起こり、人々は繋がりを絶たれ、孤独と飢えに苦しんでいた(という夢を作中の書評家が見ていた)。
それから9年後、ノーベル文学賞の受賞スピーチで、カズオ・イシグロはつぎのように語った。
「わたしたちはいま、異なる種族が互いに強く反目し、ばらばらに忌み嫌い合うような時代を生きています。私が生きる糧にしている文学という分野がそうであるように、ノーベル賞は、互いを分断する壁を越え、人類として共に何に立ち向かっていくべきなのかを思い出させてくれます。」
──カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞の受賞スピーチ、2017年
筆者の私見にすぎないが、2019年現在、ほとんどすべての信頼できるクリエイターは、すでに第三次世界大戦を起きたものとして処理している。
それはまだ起こっていないが、起きていない現状のほうが奇跡なのであって、そのうちに起きるだろう。この、あまりに悲しい政治的環境にたいして、直接的な政治力をもたない作家たちにできることは、その破滅のイメージやアフターマス(余波)を細密に描き、それをもって警鐘とすることだ――あらゆる作家はこの信条を暗黙の了解として、それぞれの仕事にあたっている。
『DEATH STRANDING』も、あきらかにこの流れの系譜に連なるものだ。
アメリカの作家、カート・ヴォネガットは、アメリカ物理学教員協会が主催した1969年の講演のなかで、「芸術家は坑道のカナリアである」という論を唱えた。
これは「芸術がいったい何の役に立つのか?」という問いを発した物理学者たちに、芸術作品の「効能」を伝えるための方便だった。まだ科学技術が進歩していなかったころ、炭鉱夫たちは、しばしば籠に入れたカナリアを坑道に運び入れて、ともに仕事をした。
というのも、カナリアはじつに敏感な生き物で、ほんのすこしでも地中の危険なガスを察知すると、大騒ぎをするからだ。それが炭鉱夫のための警鐘の役割を果たした。
つまり、芸術というもの全般にあまり慣れていない学者さんたちに、ヴォネガットはこう告げたわけである――この社会が未来という坑道を掘り進んでいくとき、ほんのすこしでも異様な気配を察知したら、芸術家たちはうるさく騒ぎ立てる。そのために、芸術家は存在しているのだ(これはもちろん、半分は皮肉だ)。
しかし彼のこの発言から半世紀が経って、世界を見渡してみると、もはやこれを皮肉と笑い飛ばせないような有様になっている。リプライという棒が他者を袋だたきにし、ライクの縄が人々を締め上げる。タンカーが沈み、ドローンが飛び、巡航ミサイルが中東の石油施設を破壊する。
それでも私たちのもとに明日がやってくるのは、世界のどこかで、デス・ストランディング(絶滅)を食い止めようとしている誰か(サムワン)が居るからだ。
彼らは黒子であり、決して表彰されることはないし、まちがってもノーベル平和賞など与えられないだろう。作中のサムが、称えられてもおかしくないほどの功績を挙げながら、大統領から言及されなかったこととおなじように。
さて、まだお気づきでない方のために言うと、サムワンとは、私たち全員である。
作品をプレイした人、していない人、あらゆる人々の友人が、サムであり、ポーターであり、架け橋なのである。だからこそ大統領は名指しをしなかった。
私たちのゲームの固有のインスタンスに登場したサムは、べつの世界のべつのサムと接続し、彼らの建てた梯子や橋を渡って、目的地へとたどり着いた。したがってサムは遍在しているのであり、特定の誰かひとり、といった存在ではない。だからこそ「明日は私たちの手に委ねられている」のであって、この終章に終わりがないのである。
おそらく私たちは、終章にたどり着いたら、いったんこのゲームをやめて、友達のところへ行くべきなのだろう。すくなくとも、私はそうした。そうして、私はわたし自身をいくらか回復した。そして結局のところ、そうすることこそが、この作家がいま、私たちであるすべてのサムに望んでいることなのだと思う。