ちょっと反省と後悔の気持ちがあります。マシーナリーとも子です。
あのねえ、11月7日から開催されていた『アークナイツ』のイベント「孤星」があまりにも面白すぎたんですわ。
衝撃を受ける面白さでした。
私は今まで同作について「すごく面白いからハマってるスマホゲーム」としか思ってなかったんですが、「孤星」のせいで「オールタイムベストSF10選」にランクインすることに決まってしまいました。
すごすぎる。書いたライターは誰なんだ。複数人体制なのか。一人で書いたのか。教えてくれ。スタッフたちの名前を……。
あまりに面白いので全人類に「孤星」を読んでほしい。読んでその面白さを体感してほしいと思っているのですが、このシナリオ、かなり前提が重い。
最低限、前日譚となるイベント「翠玉の夢」とメインシナリオの8章まで読んでおくことはほぼ必須……欲を言えば他にも数個のシナリオと、外伝漫画も読んでおいてほしいぜ! くらい前提知識を必要とされるのです。
前日譚となる「翠玉の夢」。この話のほぼ直後から始まるため読んでほしい。が、復刻待ち。復刻すれば恒常で読めるようになるんですが…
私は割と「シリーズもの、別に途中から見てもいい。そこから遡る面白さもあるから」派であり、別に『アベンジャーズ』だってエンドゲームから見ていいしガンダムだって全く知らない状態から『ユニコーン』とか『閃光のハサウェイ』とか見てもいいだろと常日頃思ってる方なんです。
が、流石に「『アークナイツ』を孤星から読み始めろ」は乱暴すぎるというか「1000ページある小説の最初の450ページを読み飛ばした状態で読め」と言ってるようなものなのでちょっと厳しいと思う。かなりギリギリな行為な気はする。
なので単純に「今すぐ『アークナイツ』を初めて今やってるイベントを読んでくれ!」という薦め方ができないんです。読んで欲しいんだけど〜〜!
だからこれまで……これは極めて傲慢な考え方かもしれないが……「全人類に『アークナイツ』を遊ばせておくことができなかった」ということに関して後悔があり、そのやり方について後悔があります。今回はその辺りに改めて向き合って、ひとつ、未プレイの皆さんの誤解を解きたいというのがありキーボードを叩き始めました。対戦よろしくお願いします。
アークナイツは鬱ゲーなのか問題とゲームの概要
私の「後悔」というのは、あまりにも遊んでない人に対して
「アークナイツは鬱ゲーである」
と思わせてしまっていることなのではないか……ということです。
アークナイツ 12章でコストに制限がかかるの、どうもストーリー的なギミックというか意味合いとしては「都市から切り離されて流通が回ってこずに食料が不足し住民は飢餓状態で餓死したり発狂してるような場所で作戦行動をとるため」らしく「なんだこのゲーム…」になってる
— マシーナリーとも子 (@barzam154__) October 25, 2023
そりゃこんなポストばっかりしてたらプレイヤー増えないって!
我々はあまりにも『アークナイツ』の鬱の側面を伝え続けてきてしまった。なので未プレイの人たちから
「『アークナイツ』って……面白いらしいけどとにかく鬱で、陰惨で救いのない話なんでしょう?」
と過剰に思わせてしまっている面がある……というか実際に何人かフォロワーがそういう反応をしているのを見た。このことについてだいぶ後悔がある。
ただ、「じゃあ『アークナイツ』は鬱ゲーじゃないって言いたいのか?」と言われるとそれはそれで違うな……。『アークナイツ』の作風は間違いなく鬱と言ってもいいでしょう。
というわけで改めて『アークナイツ』について前提となるあらすじを確認します。
舞台は架空の惑星(?)テラ。そこには我々の地球に酷似した国家(移動都市)と、動物の特徴を持つ人類たちがいます。
この世界ではエネルギーとして「源石」という石が利用されており、この物質から生成されるエネルギーを用いて、テラの住人たちは我々の今の世界とほぼ遜色ない生活を送っています。
一方、源石の粉塵を吸収する、身体に刺さるなどの被害を被ると不治かつ死を免れない感染病「鉱石病」を患います。
鉱石病は飛沫感染や接触感染はしないものの、死亡した際には正しい処置をしない限り爆発、周囲に源石の粉塵をばら撒いて新たな感染を媒介するという恐ろしい特性を持っています。
そのためほとんどの都市で感染者は差別されており、まともな人間扱いをされていることすら珍しく、源石は人類を発展させる礎でありつつ分断の源ともなっています。
プレイヤーは、そんな鉱石病の治療を目指す製薬会社「ロドス・アイランド」のトップ幹部のひとり「ドクター」となり、感染者の庇護と分断されつつある世界を少しずつ良くするために奔走する……。それが『アークナイツ』の物語です。
そんな世界で繰り広げられるストーリーは……やはり鬱で、陰惨です。
世界には感染者差別が当たり前のように蔓延り、差別を元とする貧困、貧困から発する学や設備のなさ、そうしたことからまた発生する階級差別、あるいは人種差別……。もはや「差別がテーマのゲームなのか?」と思えてしまうほど、『アークナイツ』では容赦のない差別が繰り返されます。
メインシナリオ8章までの敵役「レユニオン・ムーブメント」は感染者同士が徒党を組んだテロ組織であり、ロドスは彼らによる蛮行を阻止すべく戦うことになります。
が、この構図自体が悲劇で……先述した通りロドスは本来「感染者を救うための組織」であり、「感染者が集まった組織」であるレユニオンと殺し合うという状況がすでにあってはならない構図です。
序盤でロドスのパートナーとして登場する移動都市「龍門」ではかなり厳しめの感染者弾圧が行われていることもあって「なんでこんなことになってんだ???」「救いはないんか?」となること請け合い。
この世界の救いの無さは9章以降でも描写され、一転、「感染者が云々」という話は鳴りをひそめます。
そこで描かれるのは、人種差別とそこから発するうねり。サイドストーリーなどでも描写されていますがそもそもこの世界には元から人種や階級の差別が根強くあり、常にそれに反発するものとの争いも行われ続けてきました。
差別を発端とする怒り、それは仕方のないことであるし、下々が苦しむなか酒池肉林に溺れ、享楽的に生きる権力者は許せない。
だがそれを怒りを源に暴力で殺戮することは正しいことなのか、そしてその怒りを鎮めることすら正しいことなのか。『アークナイツ』では延々そんな話を繰り返しています。
戦争状態で校舎に軟禁された結果、殺し合いや人食にまで発展する学生たち。
非道な人体実験を受け、記憶を留めて置けない少女。
マフィアの暴力に脅かされ、心の中ではいつも怯えながら暮らしている市民。
精神の均衡を崩した友人に助けの手を伸ばすも、刺殺される少女。
完全なる善意で救いをもたらしていたのに、市民自らの手で焼殺させられる医者。
ですがそんな数々の鬱で、陰惨で、胸糞な物語はテラの大地ではありふれたことなんです。
ではなぜ『アークナイツ』は、そんな陰鬱なストーリーを描き続けているのでしょうか。スタッフの嗜虐趣味なのでしょうか。
いや、それは違う、と私は言っておきたいのです。
「死を描くゲーム」でなく「生を描くゲーム」である
『アークナイツ』は間違いなく鬱を描いているゲームである。が、鬱を描きたいゲームではないんです。今回解きたい誤解というのはそれです。
『アークナイツ』が本当に描きたいもの、それは「生きようとする人たち」「より良くなろうともがく人たち」なんです。
その多くは権力や社会に渦巻く意識を覆すほどの力を持ちません。
というか、力によって世の中を覆そうとするものは『アークナイツ』という物語上においてことごとく敗北していきます。『アークナイツ』は暴力を伴う変革や秩序をNOとしているんですよね。
「ロドス・アイランド」にやって来る様々なオペレーター。彼らには彼らなりの事情があります。単に源石病を患ったから治療のために来るもの。故郷で迫害され逃げてきたもの。経済的困難を解消するために仕事を求めて来たもの。
そんな彼らはロドスが掲げる「感染病にまつわるすべての問題を解決する」という理念に影響を受けます。そしてそれはこれまでロドスが戦ってきた感染者をはじめとする被差別者による組織……レユニオンやサルカズ軍事委員会、ダブリンが行ってきた力を用いた復讐、変革をよしとしないということでもあります。
成長して故郷に帰った彼らはいずれも故郷の正しくなさ、醜い姿に直面することになります。
そしてそれらに彼らなりに抵抗し……いずれも最終的に「復讐」や「暴力」と言ったものに頼らない、しかし弱者を見捨てない、前向きに生きるための体勢を作るために尽力することになります。
多分これが『アークナイツ』の一番やりたいところで……それこそ最初に出した「孤星」のシナリオにおいて顕著なのですが、本作は「前進すること」「未来を見ること」こそ、善の考え方であるという哲学がある気がするんですよね。
単に「復讐は良くないことだ」とかそういうことが言いたいんではなく……結果的にそうなのかもしれないけど、とにかく「前向きに生きること」を何よりもいいこととしている。そのためには憎しみや絶望感に囚われるのは良いことではない……。
が、同時にそうした感情に追い込まれるのは状況によりけりで、仕方がないことではある。だからなるべく人が絶望したり、他人に憎しみを向けるような世界を無くす努力をしよう。それこそが一番前向きなことなんだと……。
それを言いたいから、表したいからその前段として途方もない絶望が描写されていると言いたい。そういう順序のゲームなんです。未来を夢見るゲームなんです。
「孤星」はSF大作へのラブレター説(ソース無し)
こうした「前向きに生きること」を良しとする話が最初に述べたイベント「孤星」でも存分に描かれています。
本イベントの舞台、クルビアはアメリカ合衆国をモチーフとしており、まだ新興の国でありながら優れた科学技術を持ち、国際社会に大きな存在感を放ちつつあります。
この「科学」と『アークナイツ』が掲げる「前向きに生きることこそ善」というテーマが凄まじいシナジーを起こし、またこれまでに散りばめられたSF要素が4年半の時間を使って花開き、極上のSFとして完成しています。
それでいて一介の研究者が自立した考えを得て立ち上がる物語、若者たちが科学を依代に集まった青春への回顧、失われた自分のルーツを探し求める者の迷走、国家間同士の政治的思惑、子供達が携える希望、宇宙への憧憬……そうした要素のすべてが巧妙により集められて、また散逸することなくまとめられていて「よくこんな話書けるな!!!!!」と叫び出したくなる完成度のシナリオが構築されているのです。
そして科学を前向きな力として描きつつ、その暴力性からも逃げず……。また同時にここ10数年で『三体』を始めとして凄まじい盛り上がりを見せる中国SFへの、中国発スマホゲームとしての一つのアンサーでありラブレターとも取れるような内容ともなっていて……。
とにかく読めば読むほど、その含まれた願いやメッセージの多さと、それでいて物語としてしっかり軸が通っていて強度が高い。その完成度の高さに畏敬の念を抱かざるを得ないのです。
『三体』の筆者、劉慈欣(リウ・ツーシン)は発電所勤務のエンジニアであり、同作をはじめとする彼の作品はその経験を生かした豊富な科学知識に基づく描写が特徴のひとつです。それを読むと凄まじい面白さと同時に、「こんな科学を活かした描写や知見に基づいたスケールのデカさ、シロートの俺には書こうと思っても書けないぜ!?」と圧倒されてしまいます。
「孤星」はある意味でそれに対してのラブレターというか……そのスマホゲーム特有の、先述した「とっつきづらさ」を長所に転じさせたような良さを感じました。つまり「俺たちは科学者じゃないから、『三体』のような知識を活かしたSF超大作は書けない……だがスマホゲームという媒体を活かし、4年半という時間を使えば『三体』みたいな面白さのSFは書けるんだぜーっ!!」という気概というか……なんかそういうものを感じた。エネルギーを。
改めて、本イベント「孤星」を「ちゃんと楽しむ」ためのハードルは高いです。高いけど、でもそのハードルの高さすらもこの物語を完成させるために(『アークナイツ』自体はまだ完結してないわけですが)必要な要素だったと私は思ってしまうのです。これなら、これなら俺たちは戦えるみたいな……そういう手段としての煩雑さ……。そう考えてしまうのはあまりに信者アイの視力が高すぎるからでしょうか。
だから……まあつまり!!!
みんな!!! 『アークナイツ』やってくれ!!! おもしれ〜〜〜〜から!
「孤星」目当てでやってくれてもいい! やってくれてもいいがその道のりは険しい! だががんばれ! 前進しろ! そしてここまで辿り着いてくれ! 以上!