ゲームの話を言語化することに使命感を燃やす、岩崎氏の開発者ならではの視点とは? 連載2回目となる今回は、そもそもRPGについて語る予定でした。でも、そこを語る前にハッキリさせたいことが出てきたようです。「コンピュータゲームの定義」について、みなさんは考えたことがありますか?
ゲームの話を言語化したい第一回:
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今回、RPGの文法がいかにコンピュータゲームにおいて革新的だったかというテーマで、『銀の弾丸だった、RPGメカニクス』という文章を書こうとしていた。だけど、そもそも、その前提になっている「コンピュータゲームの特徴」について、しっかり書いた方がいいんじゃないかと思ったので、 まず「ゲームがコンピュータで変わったところ」というテーマで、コンピュータゲームが伝統的なゲーム(ボード・スポーツなど)や、本や、音楽CDだの映画だのTVといった従来のメディアと何が違うのか、そして何が特徴的なのか、そしてそれによって何が起こるのかについて説明してみたい。
コンピュータゲームを定義してみよう
「ゲームがコンピュータで変わったところ」を書くために、まず「コンピュータゲームの定義」から始めよう。
<コンピュータゲームの定義(仮)その1>
コンピュータゲーム、すなわちコンピュータの上で動くゲーム
これが一番広くてわかりやすい定義なのは間違いないだろう(「コンピュータの上で動くからコンピュータゲームっていうのさ!」…実に簡単だ)。
でも、この定義にはいただけないところがある。
なぜなら、この定義だと、インターネット雀荘である『東風荘』とか、Zyngaの『テキサスホールデムポーカー』(最もプレイ人口が多いポーカーゲームの一つ)、それともマイクロソフトのWindowsで遊べる『ソリティア』のように、場のためにコンピュータを使用しているゲームまでコンピュータゲームの範疇に含まれる。これはこれでコンピュータが伝統的なゲームにもたらした恩恵なのだけど、原理的にはPBM(Play By Mailの略。物理的な手紙のやりとりでゲームをプレイしていた時代があったのだ)でもプレイ可能なものが多く、コンピュータゲームの定義に入れるとイロイロ面倒なので、もうちょっと定義をいじることにしよう。
<コンピュータゲームの定義(仮)その2>
コンピュータの上で動くゲーム、
かつ事実上、コンピュータでなければプレイ不可能であること
これでも定義としては、まだまだ問題があって、例えば『GT』や『フォルツァ』のようなリアルカーシミュレータは、実車に乗ればプレイ不可能ではないって強弁できるし(車両の数についても「ビルゲイツなら買えるだろ?」と強弁できる)。同じように一握りの人にとっては現実だが、大多数の人にとっては非現実となるプロスポーツのシミュレーション、『FIFA』シリーズとか『マッデンフットボール』とか、それとも戦争って話にジャンプして『Call Of Duty:MW』あたりとか、そういうモノは不可能と表現していいのか? という疑問は出てきてしまうのだけど、少なくともコンピュータゲームなら命に関わることがないって強みはあるので、いいことにしよう。
『弟切草』と<本>との違いは、インタラクティブ性にあり
ところでコンピュータゲームにはゲーム要素以外に、音楽・映像・文字・音声、およそ従来メディアのコンテンツに含まれている要素をだいたい含めることができる。この特性のおかげでコンピュータゲームはいわゆるマルチメディアコンテンツ(古臭い言い方だと思うけれど、いまだこの表現しかないのだ)でもあるんだけど、コンピュータゲームとメディアを区別する基準が必要だ。つまり……
『弟切草』(1992/SFC/チュンソフト)と<本>にはどういう違いがあるのか?
ここで登場するのがクリス・クロフォード(アメリカきっての理論派ゲームデザイナー)がCGDCにて行った講演の伝説的な言葉。
映像を動かすなら、映画の方がうまくできる。
音楽を聞くならCDの方が上等だ。
テキストを読ませるなら、本の方が便利だ。
だが、インタラクティブだけはコンピュータしかできない
ちなみにCGDCは”Computer Game Designer’s Conference”の略。現在のGDC、”Game Developers Conference”の前身。
また、この言葉が発せられたのは1990年代の初頭で、本もマンガも音楽も何もかもデジタルデータとして飲み込めるようになった、現在の化け物のようなコンピュータの話はしていないことに注意。この言葉から30年経たないうちに、コンピュータは音楽から映画から全てを飲み込む怪物になった。
まさにその通り。
インタラクティブ性は、従来のメディアとコンピュータゲームを区別する最も重要な特徴だ。コンピュータゲームはコンピュータと人間がインターアクト【※】することでゲームは展開される。そのバリエーションが無数とは言わないが、少なくともシーケンシャル【※】な従来のメディアには全くない特徴だ。
【※】インターアクトはinteractで、相互に作用するという意味。コンピュータ関係では「対話性」と訳されることが多い。
【※】シーケンシャルはsequentialで、連続、または規則的に続いているさまのこと。コンピュータ関係では、対象が複数ある場合に、並んでいる順番に処理することや、連続して処理することを意味する
コンピュータゲームと伝統的なゲームの違いは、プログラムの有無
では、これで腑分け(ふわけ=解剖)の議論は終わるのか? というと、実は終わらない。
確かにコンピュータゲームが他メディアと区別される決定的な要素はインタラクティブ性だし、メディア側から見れば、確かにインターアクトすることは、コンピュータゲームにしかできないのだから重要な特徴だけど、伝統的な(コンピュータを使わない)ゲームの側から見るとどうだろう?
そもそもゲームは『七並べ』だろうが、それとも『弟切草』だろうが、プレイヤーが選択することで展開される(する)もので、選択のないゲームはない。つまり選択=対話性はゲームでは、ほぼ必須で、それはコンピュータゲームであろうと、伝統的なゲームであろうと変わらない。
選択肢がないにも関わらず「ゲーム」と主張する作品はあるが、英単語の”game”の原義から見ると「ゲーム」ではあっても”game”とは言えない。
だから『弟切草』は確かに普通の本から見たら「エエッ!?」って代物だけど、スティーブ・ジャクソンの『火吹き山の魔法使い』を嚆矢(こうし=物事の始まり)として、日本で大流行したゲームブックと比較したとき「どっちもゲームで、選択肢があって……」ということになり「あれ? この二つの違いってなんだっけ?」ってことになる。
デジタルと物理的な本の違いこそあれ、どちらも基本システムは同じように見えますよね?
では、コンピュータゲームにあって伝統的なゲームにはないモノとはなんなのか?
これを考えるためにコンピュータの特徴を考えると、高速演算だとか、大規模にデータ操作できるとか、イロイロ出てくるのだけど、最大の特徴は間違いなく「プログラムで(が)動く」になる。
プログラムとはなにかという定義はとても難しいのだけど、人間より全然融通が利かない状況限定の人工知能と考えるのが一番近い、と思っている。
銀行の窓口限定の人工知能がATMだし、ブルーレイを見る専用の人工知能がブルーレイプレイヤー、という具合だ。
ここで話を『火吹き山の魔法使い』と『弟切草』の比較に戻すと『火吹き山の魔法使い』をプレイして面白かった! ってことで、2回目のプレイに入ったとき、21ページに新しい選択肢が登場する……なんてことは絶対にない。でも『弟切草』では新しい選択肢が登場する。それこそゲームのほとんど最初から新しい選択肢が登場しまくる。
まさにこれこそがコンピュータゲームが伝統的なゲームと比較して、全く違うところだ。
ゲームがプログラムによって動かされ、かつプログラムがある種の判断能力を持つ知能だからこそできることだ。例にあげている『弟切草』なら「2回目のプレイで、前回はここでABの選択肢を出して、Aという選択肢を選んでいるので、ここで出る選択肢はABCになる」なんてことをやれるから、選択肢を増やすことができる。
だからプレイヤーとインタラクティブ(相互作用)して変化するゲームを作れるのがコンピュータの最大の特徴ということになり、これができるのはコンピュータを除けば事実上人間だけ。
というわけで、これで新しい定義を書けるようになった。
コンピュータゲームとは
<コンピュータゲームの定義>
従来のゲームでは人間を置かない限りは不可能に近かったゲームを
コンピュータを利用することで実現したもの
とでもすることで、だいたい確実に定義できる。
コンピュータゲームには驚くべき特徴がある
コンピュータゲームの特徴を説明できたところで、再度話を伝統的な、『チェス』や『ソリティア』などコンピュータの助けを借りずにプレイされてきたゲームとコンピュータゲームを比較すると、さらにとんでもない特徴が登場する。
<コンピュータゲームの特徴その1>
コンピュータゲームはルールを知らなくてもプレイできる
伝統的なゲームでは、最低誰か1人がルールを把握していないとプレイできない。だから正月に友達の家に集まって、誰かが「『コントラクトブリッジ』のもとになった『ホイスト』【※】ってゲームがあるんだけど、これを遊ぼうぜ」と言ったとしても、誰もルールを知らなければプレイすることは当然できない。
【※】『コントラクトブリッジ』と『ホイスト』は、共にトリックテイキングゲームと言われる、カードゲームの一つ。まず、各プレイヤーに同じ枚数の手札をウラ向きに配る。カードを配り終わったら、カードが無くなるまでトリックと呼ばれるミニゲームを繰り返し、各ミニゲーム毎に勝者を決める。勝ったトリックの数が最も多い人がゲームの勝者になるというのが、基本のゲーム構成。実際には、様々な亜種のルールも存在している。
ところがコンピュータゲームでは話が違う。コンピュータにはプログラムがあり、簡単なAIとして機能するので、コンピュータゲームに『ホイスト』があったら、コンピュータがレフリーをしフィールドまで含めて制御することができ、ルールに沿わないプレイは「間違っている」と教えることだってできる。だからプレイヤーは、ほぼ何一つ知らなくてもプレイすることができる。
つまり仮に複雑なルールがあったとしても、プレイヤーがルールを把握しておく必要はないし、それどころか今のスマートフォンのゲームなんかは、一度もゲームを遊んだことがない人を前提にしてチュートリアルを作り込んで、基本的なゲームをプレイできるようにするのが当たり前だ。
コンピュータゲームでは、コンピュータ自身が先生になってゲームのルールを手取り足取り教えることができる。というか、そうするのが当たり前。
実際、『The Trail』(ピーター・モリニューの最新作のスマートフォンゲーム)なんて複雑怪奇なゲームなのに、見事に説明して、遊べるようにしてくれる。
『ポピュラス』や『Fable』を作ったクリエイターの最新作。山道をどんどん歩いていくと、探検、クラフト、収集、トレード、発見、最終的には定住や建設までが体験できるようになっていく。Android/iOSで配信中だ。
(画像はGoogle Playより)
そしてこれは第二のびっくりする特徴を導き出す。
ルールを把握しなくてもプレイ可能ということは
<コンピュータゲームの特徴その2>
ルールを把握すること、それ自体がゲームになる
例えば、初代『スーパーマリオブラザーズ』を、本当に何も知らない人に「ボタンを押すといろいろなことが起こります」とだけ教えて渡したとき……こんな風になるだろうなーと想像することができる。
・移動することを覚える
・ジャンプすることを覚える
・落ちると死ぬことを覚える
・当たると死ぬことを覚える
・ダッシュを(そのうち)覚える
・パワーアップを(そのうち)覚える
これらのルールを把握することは、つまりアクションやシューティング、はたまた格闘などで誰でも当たり前のようにする“攻略”になるわけだけど、これ自体が、実は
コンピュータの中に入っているゲームのルールを学習し、対応方法を考えるパズル
になっているわけだ。
つまり伝統的なゲームでは、ルールはプレイをする前に知っているもの(もしくは知っている人がいる)だけど、コンピュータゲームはルールを探るパズルとして作ることができ、そのパズルを「攻略」と呼ぶってことになる。
だからコンピュータゲームがほぼすべて持っている特徴は
<コンピュータゲームの特徴その3>
ルールを探るパズル
ってことになる。
これは伝統的なゲームと比較して、コンピュータゲームが圧倒的に変わったところなのは間違いない。そしてルールを探るパズルの面白さがコンピュータゲームの本質ということは、実は
<コンピュータゲームの特徴その4>
ある局面をマスターすると、難易度が高くなる
ほとんどの場合には、この暗黙の前提がある。
例に書いた『スーパーマリオブラザーズ』のジャンプに関するルールを考えると
・普通に溝を飛び越えるジャンプ
・ダッシュじゃないと届かないジャンプ
・ギリギリじゃないと届かない
・タイミングを合わせてジャンプする
・動く床
・落ちる床
・踏んではいけない敵
全部ジャンプに関係するルールだけど、最初の1つを除けば、全部ジャンプに関係する応用問題で、最初の一つより難しいのは間違いないだろう。
ルールをマスターしたら、新しいルールを出し、一通りのルールを出し切ったら、組み合わせて応用問題にする、というのがコンピュータゲームの基本形になるのだから、難しくなるにきまっている。
そして、この“コンピュータゲームの難易度が上がっていくと、クリアできない人が出てくる”という問題を解決したのが、本当は今回書こうとしていた「銀の弾丸としてのRPGメカニクス」に続く話なのだけど、アホみたいに長くなったので次回に続く。