アニメファンやアニソンファン以外の人でも、「アニサマ」という単語を一度は聞いたことがあるだろう。「アニサマ」とは毎年夏にさいたまスーパーアリーナで開催されている、アニメソング(アニソン)のライブとしては世界最大のイベントだ。
アニサマには、人気アニメの主題歌・挿入歌でおなじみのアーティストや声優たちが集結するのはもちろん、大物J-POPアーティストなどが毎年参加していることでも知られている。ライブの模様はBSテレビなどでも放映されているので、会場に足を運んだことがない人でも目にしたことがあるかもしれない。
第1回目が開催された2005年以来、毎年恒例となっていたアニサマだが、2020年にはコロナ禍によって、初めて開催が延期されることとなった。だが2021年には、自治体による感染拡大防止ガイドラインを遵守して観客数を制限するなど万全の対策を取った上で、3日間の開催を予定通り成功させている。
さて、このイベントは略称の「アニサマ」が広く知られているが、正式名称は「Animelo Summer Live(アニメロサマーライブ)」だ。その名の通り、アニサマはアニソン配信サイト「アニメロミックス」のイベントとしてスタートしており、その運営元であるドワンゴが、現在でも主催者に名を連ねている。
ニコニコ動画でおなじみのドワンゴが、いったいなぜ世界最大のアニソンライブの主催に入っているのか。今回の記事ではその背後にあるアニサマの歴史を解き明かしてみたいと思う。
アニサマの歴史を紐解くにあたってもっとも重要な人物が、川上量生氏と共にドワンゴを創設したひとりである太田豊紀氏だ。太田氏は同社の着メロサービス「イロメロミックス」を立ち上げて、そこからアニソン部門を独立させた「アニメロミックス」を開始。さらに2005年の第1回目より、アニサマのエグゼクティブプロデューサーとして活動してきた。
2019年にドワンゴより独立し、株式会社LOGIC&MAGICを設立した太田氏は、2021年にアニサマのエグゼクティブプロデューサーを退任。これを機に太田氏は「自らが立ち上げたアニサマの歴史を記録に残したい」という意向により、太田氏と共にアニサマの開催に尽力したメンバーを集めて、座談会を催すことになった。
この座談会に参加したメンバーは、アニメ音楽レーベル「Lantis(ランティス)」の創設者であり、バンダイナムコアーツの副社長を務めた(現在は退任)井上俊次氏。アニソン界を代表するグループ「JAM Project」のメンバーであり、ソロアーティストとしても『少女革命ウテナ』の主題歌「輪舞-revolution」など数々のヒット曲を有する奥井雅美氏。そして奥井氏の楽曲プロデュースなどを担当し、2007年よりアニサマのステージ演出に関わっている森田純正氏の3名だ。いずれもアニサマはもちろんのこと、日本のアニソンシーンを長年に渡って支え続けてきた豪華な顔ぶれとなっている。
今回の座談会の模様は、動画として公開される予定になっている。
そちらの動画のMCとして、声優の仮屋美希氏も参加している。ちなみに仮屋氏も、かつてアニサマダンサーの一員として、アニサマのステージを経験しているひとりだ。
以下の座談会でも語られているように、アニサマの歴史はアニソンが音楽ジャンルのひとつとして広く認知されて、日本の音楽シーンに欠かせないものとなっていく過程と並走している。それゆえアニサマの歴史を語ることは、この20年近くのあいだに発展してきたアニソンの歴史を語ることでもある。
アニメファン、アニソンファンだけでなく、日本のポップミュージック、そして日本のエンタメ全般に興味のある人にとって、驚きの事実が次々と明かされているので、要注目だ。
聞き手/TAITAI
文/伊藤誠之介
編集/クリモトコウダイ
撮影/小森大輔
「水樹奈々ちゃんが出るなら」の一言で、アニサマ第1回目の会場が代々木体育館に
──まず最初に、なぜ今アニサマの歴史を語りたいのかを、太田さんにご説明いただければと思います。
太田氏:
僕はアニサマのエグゼクティブ・プロデューサーを17年やってきたんですけど、2021年のアニサマをもって、それを退任しました。アニサマは企画のスタートが2004年ぐらいなので、もうすでに記憶があやふやになっているところがあるんです。今回の退任を区切りにして、正しい経緯をちゃんと語り残しておきたいというのが、一番の理由ですね。
──アニサマ以前にアニソンの大型ライブは存在したのですか?
太田氏:
アニサマのようにレーベルを超えた形というのはなかったと思います。
森田氏:
ニッポン放送が過去に、日本武道館でやったことがあるって言ってなかったっけ?
奥井氏:
「アニメ紅白歌合戦」かな?年末に紅組と白組に分かれて歌うイベントがありましたけど、それはぜんぜんフェスではなかったし。
あとはレコード会社さん縛りで、コロムビアさんならコロムビアさんのアーティストが集まって歌うだとか、特定の作品縛りのイベントとして歌うとか、ラジオ番組の公開録音とか。そういうのはあったけど、いろんなレコード会社さんや事務所さんが協力してというのは、なかったんです。
井上氏:
レーベルの枠を超えてっていうのが、今はいいけど当時はね。出演は本来、事務所に言うことが多かったり、レーベルを中心にブッキングしていくルールがあったから。それはアニサマの1回目よりも、その後のほうが苦労したと思うんですよね。レーベルの中でも出したい人と出したくない人、出たい人と出たくない人との間でバランスを取りながら交渉したりすることもあるから。
──太田さんがアニサマの1回目を立ち上げるにあたって、いちばん苦労されたのは何ですか?
太田氏:
キャスティングですね、すべては。水樹奈々さんとJAM Projectさんに出てもらわないと、もう話にならない。JAM Projectさんは野音(日比谷野外音楽堂)でやってらしたし、奈々ちゃんはZeppツアーをやってたし。集客面ではこの2組が当時、圧倒的でしたから。
それで奥井さんに「(JAM Projectが所属しているランティスの)井上さんを紹介してください」って言ったし、奈々ちゃんのほうはレコーディングしているスタジオに行って、直談判したんです。三嶋(章夫)【※1】さんと矢吹(俊郎)【※2】さんを口説かないといけないので、そこでちょっと作戦を立てて。奈々ちゃん本人もいる現場をあえて押さえて、本人にも一緒に聞いてもらうっていうタイミングで行ったんです。
※1 三嶋章夫
キングレコード取締役、キング・アミューズメント・クリエイティブ本部長。水樹奈々氏をはじめとするアーティストのプロデュースを行っているほか、『魔法少女リリカルなのは』『戦姫絶唱シンフォギア』などのアニメ作品を手がけている。
※2 矢吹俊郎
過去に奥井雅美氏の音楽プロデュースやステージ演出を手がけたほか、その後水樹奈々氏の音楽プロデュースを行っていた。第1回目のアニサマではステージ演出を担当した。
井上氏:
僕は、アニサマの第1回目の会場が代々木(第一体育館)っていうのにビックリしたんですよ。
奥井氏:
太田さんが言い出したんですよね?
太田氏:
違いますよ(笑)。矢吹さんです。
僕はキャスティングの際には知らなかったんですけど、奈々ちゃんは2005年の1月2日に武道館公演をやることが、その時点ですでに決まっていたらしいんですよ。アニサマの1回目は2005年7月ですから。それで僕が「アニサマは2000人ぐらいの会場で」と言ったら、矢吹さんに「えっ、代々木でしょ」と言われて。
「奈々ちゃんが出るんだったら、それぐらい大きな会場じゃないとダメでしょ」と言われて。そこで腹を決めて、代々木第一体育館の予約を取りに行ったんです。多分、すでに武道館が決まっていたから、代々木って矢吹さんが仰ったんだと思います。
井上氏:
アニサマの一発目が代々木というのを聞いて、僕は「ご協力させていただきます」と言いながらも、プレッシャーを感じていたんですよね。
ランティスからはみんなに出てほしいんですけど、そのステージに立つっていうのは、選ばれた中のひとりにならなくちゃいけないので。なのでJAM(Project)と栗林(みな実)さんと、あとは影山(ヒロノブ)君がソロで『ドラゴンボール』を歌ったのかな。それと鈴木達央君が出てって感じでしたかね。
森田氏:
一発目の会場が大きかったっていうのは、間違いなくインパクトだったと思います。
あとは演出の面で言うと、今まではバンドがいたとしても背景は白ホリ【※】で歌うアニソンフェスとか、後ろにスクリーンがあってアニメが流れてるようなイベントはあったんだけど、CGとか照明でロックライブみたいに仕上げていたのは、あんまりなくて。
でもアニサマは、スタートの時からそういう作りになっていたので。だからロックとかポップスが好きな人を連れていっても恥ずかしくないイベントだというのは、見に来たお客さんも認識したと思うんですよ。
※白ホリ
「ホリ」とはホリゾントの略で、舞台やスタジオの背景に使用される幕や壁のこと。白ホリとは無地の白い幕を指している。
井上氏:
(1回目の演出を手がけた)矢吹さんの功績は大きいね。
森田氏:
そうかもしれないですね。
代々木体育館に集まった大勢のアニソンファンを見て、関係者はみんな泣いていた
──「会場が代々木第一体育館というのにビックリした」というお話がありましたが、それがどれだけヤバいことなのか、僕らにはピンと来ないので、ご説明いただけますか。
太田氏:
奈々ちゃんがたまたま2005年の1月に、武道館でやってますけど。僕らがアニサマを代々木でやるって決めた時には、まだそれを知らなかったので。客席を全部埋められるかどうかなんて、分からなかったんですよ。奈々ちゃんはZeppツアーで勢いがあって、チケットも落選がいっぱい出ている、ってことぐらいしか知らなくて。
JAMさんもあの時は、キャパ3000人の日比谷野音が、いちばん大きい会場だったんですよね?
井上氏:
そうそう。
太田氏:
たくさんアーティストさんが出るからといっても、全部のファンが加算されてみんな来る、というわけではないので。「どうすりゃいいんだ、代々木」と言われたんだけど、でも奈々ちゃんが出るためには代々木でやるしかなかったですから。だから宣伝を死ぬほどがんばりましたよ、本当に。
奈々ちゃんのファンクラブや奥井さんのファンクラブで、まるでファンクラブの会報みたいに、アニサマの先行受付のチラシを送るということをやったんです。ちゃんとファンクラブの封筒で。それをやらせてもらえたこと自体が、けっこうスゴいことだったんですけど。
あとは秋葉原をアニサマでジャックしたり。さすがにTVCMは、あの時はやらなかったですけど。アニメイトさんにも、テーマソングのCDを売ってもらうというのもあるので、宣伝を協力してもらうとか。めちゃくちゃいろいろやりましたけど、さすがに全部は埋まりませんでしたね。
井上氏:
集客がなかなかしんどかったから、真ん中に大きなステージと花道を作って、ちょっとキャパを減らして。
太田氏:
そうですね。フルだと1万2000人ぐらい入るところを、あの時は8700人ぐらいにしたんですよね。
井上氏:
それでも当日、お客さんを見た時は絶景やったけどね。こんなに大勢の人がアニソンに集まるんだ、と思って。
太田氏:
お客さんが入ってくれたのは、本当に感動しました。ほぼ埋まってましたから。
奥井氏:
満杯じゃなくても、見た目は埋まってた。
井上氏:
みんな泣いてたよね、打ち上げで。
奥井氏:
1年目は面白いぐらい泣いてましたよ。「本当に今日は……ウゥワーン」みたいな。太田さんは泣いてないけど(笑)。
井上氏:
矢吹さんも泣いてはった。
──イベントの打ち上げで泣くというのは珍しいんですか?
奥井氏:
珍しいですね。なんだろうなぁ・・・みんな力を合わせたんだろうね。
森田氏:
さっき太田さんがおっしゃっていた、業界全体を押し上げていくっていう気持ちを持っていた関係者はたくさんいた気がする。
奥井氏:
そうだね。
井上氏:
それとやっぱり出演者が、「私たちを応援してくれる人たちがこんなに大勢いるんだ」というのに感動したんじゃないですかね。
奥井氏:
だから1年目は純粋な人たちがみんなで、純粋にアニサマというものを作り上げたっていう感覚かなぁ。今はまた違った形になってますけど。
井上氏:
あの時の映像はないんですか?
太田氏:
記録映像だけですね。
奥井氏:
記録映像は、私が出しちゃいけないって、何回も言ってるんです。私が超デブだから(笑)。「これだけならいいよ」っていうのが要所要所、あるんですけど・・・私がデブだから、1年目はソフトが出てない(笑)。
森田氏:
というより、ソフトを出す予定がなかったから、そもそもちゃんとしたのを撮ってなかったんですよ。MIXができない状態で。
太田氏:
そうですね。録音のほうができなかったので。
奥井氏:
面白いから「奥井さんがデブだから」ってことにしとこう(笑)。
ドワンゴとアニサマの関係──きっかけは着メロサービス
──僕から見て不思議なのは、ドワンゴの共同設立者だった太田さんが、いったいどこから音楽業界とつながりを持つようになったのか、というところで。
僕のイメージだとドワンゴって、エンジニアの会社というか。川上量生さんもオタクエンジニアみたいな方なので、本来なら芸能とか音楽とかには関わっていないと思うんです。
太田氏:
じつは、僕は作曲家志望だったんです。姉が音大に行ったりしてて、音楽はもともと好きなんですよ。
──あっ、そうなんですか。でもそれで言うと、太田さんがなぜ川上さんと一緒にドワンゴを立ち上げたのかも、よく知らないのですが。
太田氏:
ドワンゴというのは「Dial-up Wide Area Network Gaming Operation」の略で、もともとは北米の「Interactive Visual Systems」という会社が開発したPCゲームの通信対戦システムの名前なんですよ。日本では川上さんのいたソフトウェアジャパンという会社がライセンスを受けてサービスしていたんです。一方、僕は同時期に「X Dimension」という日本製の通信対戦システムを別会社で開発・運営していて、ライバル関係だったんですね。
それでソフトウェアジャパンが営業を停止した時に、川上さんから「一緒にやらない?」と誘われて、ドワンゴを設立したという流れです。ライバル関係の時からお互いに知っていて、ウチが開発したソフトをソフトウェアジャパンで売ってもらったりしていたので。
──そこから着メロ事業を始めたのは、どういう流れなんですか? 作曲家志望だった太田さんの意向があったのですか?
太田氏:
そういうのはまったくなくて。僕はいったんドワンゴを辞めて、しばらく離れていたんですよ。
昔、Napster【※】というMP3のファイル交換サービスが流行っていたじゃないですか。それのMIDI版をやりませんか? というのをNTTとか、いろんなところに言っていたんです。それで川上さんのところにも行ったら、「太田さん、MIDIできるの! じゃあ着メロやろうよ」って言われて、その場で資本構成とかを書き始めて(笑)。そうやって強引に誘われたのが始まりですね。
当時のドワンゴはiモードでゲームのサービスをやっていたんですけど、着メロ市場が大きいのは分かっていたから、なんとか参入したいと思っていたんでしょうね。
※Napster
MP3などのファイルをインターネットを介してユーザー間で共有するサービスとして、1999年にスタート。しかし、著作権を無視した音楽ファイルを違法に交換する例が多数を占めたため、サービスを終了。2003年からは音楽配信サービスの名称として「Napster」が使用されている。
──ではその時に、ドワンゴの子会社として株式会社コンポジットを立ち上げて、着メロ事業の「16メロミックス」(現・ドワンゴジェーピー)を始められたわけですか。
太田氏:
そうです。それで2003年に、水樹奈々ちゃんにイロメロミックスのTVCMに出てもらって。
森田氏:
その頃、奥井さんはまだキングレコードさんでやってた時期ですよね。
奥井氏:
キングさんに所属しながら、JAM Projectに入ったばっかりの頃かな。太田さんが「次は奥井さんに曲をお願いできませんか」って言って来られたんです。それでアニメロミックスのCMを、ナレーションは林原めぐみさん、歌は私の「SECOND IMPACT」っていう組み合わせでやらせてもらって。
この時から太田さんは「アニソンのフェスをやりたい」って言ってましたよね。なんでやりたかったんですか?
太田氏:
それはわりとビジネス的な話で。当時レコード会社のみなさんが、着うたをなかなか出してくださらなかったんですよ。着うたを出してもらうためには各メーカーの人たちと仲良くならなきゃいけなくて。それと「レーベルを超えたアニソンフェスは今までなかったから、作りたい」と思ったのが、ほぼ同時ですね。
奥井氏:
その後すぐですよね、私がキングさんを急に辞めることになって。JAMさんには入ってたんですけど、そっちに迷惑をかけれないから「どうする? どうする?」ってなってた時に、太田さんに「私、辞めたんです」って言ったんですよね。なんで相談したんだろう?
太田氏:
なんででしょう。
奥井氏:
そうしたら太田さんが「奥井さん、レコード会社【※】をやりませんか?」って言ってくださったんです。キングさんみたいな大きなレコード会社を急に辞めたから「ちょっと関わらないほうがいいんじゃないか」という業界の人がほとんどだったんですけど、太田さんってそういうの関係ないんですよ。長いものには巻かれないので。「そんなのぜんぜん関係ないですから、やりましょう」みたいな感じで言ってくださったんですよね。
だから太田さんの印象って「男らしいな」と。業界の中同士で顔色を窺うとかもあるなかで、ちょっと違う種類の業界の方だからこそなのかなぁと、その時は思って。でも、その後もずっと変わらないから、そういう人なんですね、たぶんね(笑)。
※レコード会社
奥井雅美氏が主宰するオリジナルレーベル「evolution」として、2004年7月に設立。
森田氏:
ほぼほぼ僕もね、そういう意味では一緒ですから。奥井さんの音源制作とかライブとか演出周りとかをやらせてもらっていて。アニメロのCMソングだった「SECOND IMPACT」の前後ぐらいに、太田さんに会って。
奥井氏:
そういう流れの中で、太田さんが「レーベルやレコード会社の垣根を越えたフェスをやってみたい」と言うので、私もお手伝いすることになったんです。出てくれそうなアニソンシンガーの知り合いに声をかけて。
森田氏:
これは時効だから言ってもいいと思うんだけど、奥井さんが車の中で「もう止めてやる~!」って泣いて叫んでたの。
奥井氏:
ある人とケンカした時ね。
森田氏:
けっこう良からぬことを憶測で言われてたんですよ、「ドワンゴから大金をもらってるんじゃないか」とか。そんな話を関係者とか、同業者から言われたりして。僕は奥井さんをケアする側に回ったぐらい、初年度は心がね、大変ではあったかもしれない。
奥井氏:
今だったら「この人はこれぐらいのギャラが」とか、すごくケアしてくださるんですけど、初年度のアニサマは赤字になるのが分かってたから、「みんな一律これぐらいのギャラでやりましょう」っていう説得から始まっていたんです。そうすると「そんなお金で出るだなんて」って文句を言う人もいて。私は出演者でもあるからみんなと同じようにやってるんだけど、「絶対ひとりだけお金もらってんじゃね」ぐらいな感じで言われて(苦笑)。
太田氏:
すいません、ありがとうございました。
アニソンのライブに、友達を連れて行ける時代へと変わってきた
──井上さんはJAM Projectも所属されているランティスの代表として、太田さんからアニサマの話を聞かれたわけですよね?
井上氏:
アニサマが始まったのと、僕がランティスを作ったのはわりと近いんです。1999年ですから。「今の時代のアニソンを作りたい」と思って設立したんですけど。
──「今の時代のアニソン」というのは?
井上氏:
その頃、アニメはすごく成長して世界中で認められたり、深夜アニメがスタートしたりしていた時代で。だけど楽曲は、ぜんぜんそれ用に作っていないタイアップであったり、少しレトロな感じの音楽が多かったんです。だから今の時代の音楽、今の時代のアニソンを作りたいと思って、ランティスを作ったんですね。
アーティストさんによっては完全タイアップで、作品とは関連性がない曲をその時だけ歌う人もいるじゃないですか。そういうものはちょっと違うよなぁと。それから、アニソンって言われる前のマンガの歌だとか、アニメ主題歌って言われていた時代を引きずっている、ちょっとオールドなスタイルも違うよなぁと。そうじゃない、新しい時代のアニソンを作っていくというのが、アニサマが始まるぐらいのタイミングに僕が思っていたことなんです。
奥井氏:
ランティスと同時にJAM Projectができたのも、そういうことですか?
井上氏:
そうですね。
奥井氏:
アニメのための曲を作るので、JAM Projectが結成されたって。私は後から入ったメンバーなので、その頃は知らないんですけど。
井上氏:
JAM ProjectのJAMは「Japan Animation song Makers」なんですよね。アニメやゲームのための曲を作るプロジェクトだ、ということで。
──アニソンというものが今は、ただ単にアニメのオープニングやエンディングを歌うところから飛び出して、「アニソン」という独自のエンタメとして確立されていると思うんです。その節目となった時期、アニソンそのものやライブそのものを楽しむみたいな空気ができていった時期は、いったいどのぐらいなのでしょうか?
井上氏:
それは2006~2007年ぐらいじゃないかな。
奥井氏:
私もそんな気がするなぁ。
──ということは、アニサマがスタートしたのと、ほぼ同時期ですね。
井上氏:
僕は実感したことがありましてね。2006~07年か、その前ぐらいかなぁ。ランティスのライブでペンライトを無料で配り出したんですよ。当時はまだパキッって折るタイプだったんですけど。そうしたら演者もお客さんも、ライブというのはこういうものを使って、ステージと客席が一体になって盛り上がっていくものだ、という気持ちが生まれていったんですね。
その時にJAMのライブだったと思うんですけど、当時は会場のグッズでデカい黒いTシャツばっかり売れていたんですが、途中から黄色とかオレンジとか緑とか青とかの、ちっちゃいサイズのTシャツが売れるようになって。若い人もそうだし、女性のファンも増えてきたっていう広がりを、実感できた時があったんですね。
アニソンのライブに友達を連れてこれるようになったというか。今までは友達に隠れて行っていたのが、「一緒に行こうよ」とか「私は誰々のファンだけど今回は付き合うわ」っていう感じで2倍、3倍に広がっていったのを、実感しましたね。それが2006~07年ぐらい。それはアニサマでチャンスをいただけた結果だと思うんです。
奥井氏:
それこそ水木一郎さんなどが作ってこられた時代のアニソンなどは「アニソンってこうじゃなければならない」みたいなのがあったと思うんです。でも音楽もだんだん多様化したというか。
もんちゃんはアニメとぜんぜん関係なかった人やから、一般ピープルの考えに近かったでしょ?
森田氏:
ハードロックとJ-POPで育ってるし、自分でもバンドをやってたから、固定観念でアニソンとかアニメってダサいと、ずっと思ってた。だから奥井さんのライブもそうだけど、これをロックにしていかないとな、っていうのはすごく感じてて。
奥井氏:
それはよく言ってたね。
森田氏:
今では『ラブライブ!』みたいなコンテンツもできて、アニメとライブをシンクロさせることでさらに盛り上がる、みたいなこともできるようになったんだけど。でも、アニメとアニソンを良い意味で切り分けて、ロックライブにしたというのがアニサマの功績のひとつだと、すごく感じますね。
──それは意図してそうなったんですか?
太田氏:
いやぁ、たまたまでしょう。当時から奈々ちゃんのライブもすごくカッコ良かったし、奥井さんのライブもカッコ良かったですから。僕はアニメもそんなに見ていなかったし、アニソンというジャンルをよく知らなかったので、「普通にカッコ良いじゃん」って思ったんですよ。これだけ音楽もカッコ良くて、カッコ良いライブをやれるんだったら、このアニソンってジャンルだけで普通に広がるでしょ、って。
ただ、アニソンのステータスを上げようというのは、やっぱり思っていましたよね。やってる音楽に対して世間の偏見が酷すぎるというのは、思っていましたから。
井上氏:
昔はアニソンって、コンサートと言いながらも、カラオケでチャチャッとやるイベントが多かったんですよ。ところが奈々さんのところは矢吹さんが演出をやられて、フルバンドの演奏だったんです。奥井ちゃんのライブも矢吹さんが演出をやられてたので、そうやってたしね。
奥井氏:
はい。
井上氏:
僕もバンドの出身なので、「バンドでやるのが普通でしょ」って感覚ですから。そういう人がだんだんと加わっていったというのがあるかもしれない。
奥井氏:
私がいちばん最初にデビューした時、自分自身もアニソンに対して、固定観念があったんです。ちょっと可愛い曲で、綺麗な声で、私たちが子どもの頃に聴いていた、堀江美都子さんみたいな感じで歌わなきゃいけないんじゃないかって。私の中の固定観念では、そういうイメージだったんです。
──その感覚は、なんとなく分かります。
奥井氏:
私がデビューから2000年までソロでやった時のライブの演出は、矢吹さんの考えがほとんどなんですけど。昔、オタクって言われていたような人って、J-POPやロックのコンサートに行きたくても、性格的に内向的で? 行けないんじゃないか。だったらそれを、アニメとかが好きな子たちに見せてあげたらいいっていうのが、矢吹さんの派手な演出に表れてるんだと思うんです。だからダンサーさんを入れたりとか、バンドさんを入れたりとかしていて。
一方で、JAM Projectはアニメにあった曲を作ってJAMのカラーっていうのを押し出しているんですけど、それが時代がだんだんと「えっ、これがアニメの歌なの!?」みたいな、すごくカッコ良かったりオシャレな曲が起用されるようになって。結果アニソンとしてもぜんぜん違和感なく、アニメが好きな人たちに受け入れられるようになったんですよね。聴くほうの人たちの感覚も、そうやって変わってきていて。
だから、誰かが何かをしたっていうわけじゃなくて、やっぱり時代の流れがあったんだと思います。でもその中でアニサマは、初めてのアニソンのフェスとして、派手な演出やカッコイイ演出になっていて。それから出演者としては、自分のコンサートではできないような大きなホールで歌えましたから。やっぱりああいうところで歌えるとテンションも上がるし、モチベーションも上がるので。そういう意味では時代の流れとアニサマとが一緒になって、良い方向に動いていったんだなぁって思います。