「こんなところに住んでられるか!」浪人中にカツアゲされ、友人とふたりで上京を決意
──高校を卒業後、上京されてますね。なにか心境の変化などはあったんでしょうか。
吉川氏:
高校を出たあと、もともとは三重か名古屋か、とにかく地元の大学に行こうと思っていました。でも志望校に合格できなくて、浪人したんです。その一浪中に、実家の目の前の道でヤンキーに絡まれて、夜中に中学校に連れ込まれましてね。ボコボコにされて、血まみれになって……。
──それは昔からの因縁とかではなく、突然絡まれた感じですか。
吉川氏:
強いて言えば「原付に乗ってた」ぐらいですかね。結局のところは絡んできた本人にしかわからない部分ですが、ともかく血まみれで家に帰って、泣きながら『天外魔境 風雲カブキ伝』を遊んでいるうちに、どんどん悔しくなっていきました。
「こんなところに住んでられるか!」と(笑)。「俺は田舎を出て東京に行くぞ」と決意して、先ほどの話にも出てきて私と一緒に浪人していた、ゲームセンターの経営者の息子のところにいって「もう一浪して、東京の大学に行こう」とタッグを組んで、同じ予備校に通って上京しました。
──大学ではどういったことをされてたんですか?
吉川氏:
バンドを組んでましたね。もともとピアノを習っていたというのもあって音楽は好きだったんですが、浪人していた時期に母が付き合っていた相手というのがミュージシャンだったんです。ブルースギタリストと言うんでしょうか。
正直「うさんくさいのと付き合ってるな」と思っていたんですが、ある日「ライブをやるから見に来てくれ」と言われまして、内心イヤイヤ見に行ったらこれがすごい格好よかったんですよ。「俺もライブやるぞ」と思い、受験勉強中にギターを練習しはじめました。
ゲームセンターの息子も「お前がギターやるんなら俺はボーカルでもやるよ」と乗ってきたので、ふたりで音楽活動をやって、カラオケボックスでライブやったりしてましたね。
そうこうしているうち、上京の動機が「田舎を出たい」から「音楽で食っていきたい」に変わっていきました。首尾よく私は駒沢大学で友人も東洋大学とふたりとも東京の大学に合格したので、おたがい大学の音楽サークルにも入りつつ友人との音楽活動もする、というのが私の大学一年目でした。
そのぐらいから、家ではゲームを一切しなくなりました。ほとんどゲーセンで事足りるようになり、当時だと『ゼロスリー』【※】や『3rd Strike』とかを遊んでましたね。
大学を中退し親からは勘当。切羽詰まった吉川氏は新聞社の奨学金制度を使って名門音楽学校へ通い、一発逆転を目指した
──そのまま大学卒業まで、音楽活動をしつつゲームはゲーセンでという生活だったんでしょうか。
吉川氏:
音楽活動に関しては、メンバー間での揉め事が原因で私は最初のバンドを辞めてしまいました。そして当時バイトをしていたTSUTAYAのバイト仲間と一緒に別のバンドを始めました。大学二年生の時ですね。ギターが嫌になっちゃったので、そのバンドでは私はベースを担当してました。
そして、今思うと我ながら最悪な話なんですが、私は二年で大学を辞めてるんですよね。二浪も許してくれて学費も入学金も出してくれた親に何も言わずに。
母親はもちろん激怒しましたし、別れた実の父親の方からもほとんど勘当みたいな扱いを受けました。当然仕送りもなくなって、私はどうにかして食っていかなくてはいけなくなりました。
──なにか「これでやっていけそう」みたいな目算があって大学を辞めたわけではなかったんですか。
吉川氏:
全くないですね(笑)。TSUTAYAでバイトしながらデビューを夢見るバンドマン……それが当時の私でした。しかもそのバイト仲間とのバンドすら、周りの面子にとっては趣味で、「デビューしてやる」と考えてるのは私だけという状況です。
切羽詰まった私は、「メーザー・ハウス」という東京の非常に有名な音楽学校に通って、まじめに音楽をやろうと考えました。とは言え、学費を払う金なんて手元にはありません。そこで私は“新聞奨学会”制度を使うことにしました。新聞配達などをして働くかわりに、新聞社に学費を出してもらう仕組みです。
この仕組みのなかでも一番キツい、学費を全部出してもらう代わりに、朝刊と夕刊にくわえて集金までやるタイプのものを選んで、3年間やり抜きました。
──あの過酷な新聞配達と学業をよく両立させましたね。
吉川氏:
たしかに、大変でした。新聞奨学金をあそこまで使っていたのは同期でも私ひとりだったと思いますね。しかし今考えると、これまでのどうしようもない人生から、ようやく離れられた瞬間だったかも知れません。
──その時期はゲームからも離れていたんでしょうか。
吉川氏:
そうですね、家にゲーム機がなかったし、パソコンも音楽制作のためにマックを使っていたし、たぶん人生で唯一ゲームをやっていなかった時期だと思います。
音楽会社へ就職し、カラオケ音源を作り続ける生活に嫌気がさした頃、電話が鳴った。「吉川、社長になってくれ」
吉川氏:
メーザーでDTMによる作曲や楽器演奏を学んだ後、卒業した私は知り合いの紹介を受けて音楽制作の会社に就職しました。
音楽制作会社と言っても、新入りが担当するのはもっぱらカラオケで使う打ち込み音楽の制作です。有り体に言えば、いろいろな既存曲を耳コピしていくわけですね。私の就職した会社は「カラオケDAM」の専門会社だったので、1年間ほどひたすらDAM用の曲を作ってました。覚えている範囲だと美空ひばりとかEvery Little Thingとかの曲を受け持ちましたね。
これは結構なお金になりました。一曲打ち込むのに、慣れてくれば二日もあれば事足りるんですが、外注の方にお願いした時に7万7777円とか払ってましたから。
この頃に、TSUTAYAのアルバイト時代の先輩から連絡がありました。その人たちはアルバイトを続けているうち、TSUTAYA本部に引き抜かれることになったんですが、その引き抜きというのがちょっと特殊で「TSUTAYAのプロパー(正規)社員になる」か、それとも「別会社を興して契約する」かを選んでもいい。
先輩たちは「別会社を作ることにしたのだが、頼みがある」というんです。何を頼むかと思えば「吉川、そこの社長になってくれ」と。
──いきなり「社長になってくれ」というのはすごいですね。
吉川氏:
ビックリしましたよ。とは言え、バイト時代もバイトを辞めてからも、プライベートでの交流はずっと続けていた相手ではあったんです。私は音楽を頑張ってなんとか音楽会社には就職したけれど「耳コピばっかり、本当はしたくないよ」と仕事内容に不満を持っていることも伝えていました。
私はもっと華やかなことがしたかったんです。ですので、ある意味でこの電話は渡りに船でした。私は電話口でそのまま「明日会社を辞めてきます」と返して、社長になることにしました。
──その話を持ち掛けてきた先輩方というのは何人ぐらいいましたか。
吉川氏:
二人ですね。両方私より年上で、バイト時代の私は何を言われても「はい、わかりました」って言うことを聞いてました。
──アルバイト時代やプライベートでの交流によって生まれた信頼関係が社長を任せるという形で現れたんでしょうか。
吉川氏:
いやあ、正直誰でもよかったんだと思いますよ。でも私が会社勤めで「つらい」と言ってるのも知っているし、「吉川に言えばやってくれるだろう」と思ったんでしょうね。
そして冒頭でもお話した通り、軽いノリで名前を決めて有限会社シティコネクションを起業しました。最初は僕と先輩ふたり、合わせて三人だけの会社です。2005年のことでした。
──先輩方のお仕事として、起業と入社とで選べたとのことですが、違いとしてはどういったものがあったんでしょうか。
吉川氏:
これがね、なかったんです。取引先となる私たちの扱いはプロパー社員と一緒なんですよ。まるっきり同じ。
──え?
吉川氏:
ビックリでしょう。TSUTAYAからの給与が個人宛じゃなく法人の口座に三人分纏めて振り込まれるだけで、それ以外は何ひとつとして違いがなかったですね。アクセスできるデータベースから弁当の献立に至るまで、全部一緒でした。
──一般的にはあまり聞かない事だと思うんですが、なぜそういった状況になったんでしょう。
当時私たちが取引していたのはTSUTAYAが“GEO対策”として作った子会社「ユー・ファクトリー」です。社名のユーは「USED」つまり中古品を取り扱うという意味なんですが、TSUTAYAの中古在庫を使った店舗をGEOの周囲に作るという、そういう会社でした。
そのユーファクトリーの社長さんは当時三井物産からやってきた方で、各所で敏腕を振るわれていた実力者でした。外部であるはずの私たちのことも、社内のプロパーと同じように扱って気にかけてくださっていました。
──なるほど……。ちなみに、業務としてはどのようなことをされてたんでしょうか。
吉川氏:
端的に言えばバイヤーですね。もちろん音楽制作はせず、CDの在庫補充などをしてました。たとえば、新作が出るとなるとレコード会社さん達とやり取りをして、私の管轄である30~40店舗に対して、1店舗多ければ1000枚とか2000枚を発注し、どこへ何枚送るかを決めるという感じですね。
──では裁量はかなり大きかったわけですね。
吉川氏:
そうですね。予算は当然厳守ですが、月に数千万ぐらいは動かしてました。あと、これはプロパーではなく企業として独立していたメリットとして、ほかの業務を始めても誰にも文句を言われない立場でしたので、数年経つうちに別の柱を探すようになったんです。