「レンタルビデオの時代は終わるんじゃないか」懸念を抱えた吉川氏が立て続けに展開した新規事業は、思いがけない形でジャレコとの接点を生んだ
吉川氏:
「今後、CDやレンタルビデオの時代は終わるんじゃないか」という懸念も当時からありましたので、10個ぐらいの事業を立ち上げてとにかくいろいろなことに挑戦しようと考えました。QRコードを使った映像配信サービスの代理店や演歌歌手のプロデュースなど、本当になんでもやりました。
──新規事業に挑戦していた時期は、会社のスタッフは何人ぐらいいましたか。
吉川氏:
立ち上げメンバーが私を入れて3人ですが、ひとりは結構すぐ辞めてしまったので残ったのがふたり。当時入社して今まで続けてくれてるのがふたり、経理がひとりで合計5人ぐらいですね。
──その間も、TSUTAYAとの取引は以前と同様に続けていたんでしょうか。
吉川氏:
はい。平日はフルタイム出社でTSUTAYAの業務をやりながら、夜と土日で新規事業のことをやっていました。
そうやっていろいろとやってるうちのひとつ、映像配信サービスの代理店として付き合いがあった元武富士の方がある時「自分の元同僚がジャレコへ大量に流れた」という話を聞かせてくれたんです。
あの時は驚きましたね。私は食いつかんばかりに「私の社名はジャレコのゲームから取ったんです! ぜひ紹介してください!」とお願いして(笑)、ジャレコ社の人と会わせてもらいました。
仕事を経由して会うわけですから、本来なら代理店をやってる配信サービスのプレゼンをしたりしなきゃいけないはずなんですが、そんな話も全然しませんでした(笑)。
ジャレコの人も「吉川君のとこの社名ってウチのゲームだよね?」と面白がってくれて、怒ったりすることも全然なくずいぶん仲良くしてもらいました。
数億円でジャレコの株を買って社長就任!?資金集めに奔走する吉川氏に対する周囲の反応は「ジャレコだけはやめてくれ」
吉川氏:
そんなある日、ジャレコホールディングスの役員さんから「吉川さん、うちの社長やらない?」と言われたんです。
こっちとしては「え!?」ですよ。何事かと思って詳しく話を聞いてみると、当時の社長さんから、自分に社長を変えたいという思惑があったようです。
その時に持ちかけられた条件というのが、株式の買収です。当時『サドンアタック』などを運営していたゲームヤロウさんがジャレコの株式の購入を検討されていたんですが、その株式を代わりに私が買って社長にならないかという打診だったんですね。
そのために数億集めてくれないかと言われて、私は「わかりました!」と了承して、そこからはとにかく資金集めに奔走しました。実家の周りの友達にまで「金貸してくれ」と呼びかけまわりましたし、ベンチャーキャピタルや銀行も回って「自分がジャレコの社長になったらこういうビジネスを始めてこれだけの利益を出す。最終的には再上場を目指す」と熱弁しました。
ですが、当時のジャレコは金融機関的には“絶対NG”の会社でした。投資家にも「吉川くんが別のビジネスをやるんだったら投資するけども、ジャレコだけはやめてくれ」と言われてしまうほどで、「そんなにジャレコって印象悪いのか」と愕然としました。
ある方にお金を出してくれとお願いした時には「ジャレコ丸ごとは無茶だけど、1タイトルに絞って『シティコネクション』のIPを手に入れれば、吉川さんは化ける。それだけ目指して交渉してみたらどうか」と提案されました。
「絵にかいた餅みたいな資料を並べてもお金は出せないけど、『シティコネクション』だけに絞るなら協力する」と言っていただけたんですが、私はあくまでもジャレコの社長になるのを目指していたので、丁重にお断りしました。
結局、半年かけても資金はほとんど用意できず、ジャレコはゲームヤロウさんに売却されていったわけです。
──2009年のゲームヤロウによるジャレコ買収の陰で、そのようなことが起きていたんですね。
吉川氏:
多分、ジャレコホールディングスが唾をつけてたのは自分だけではないと思いますけどね。私はいろいろな人に話を持ち掛けていったなかのひとりに過ぎず、「それなりに頑張るから、もしかしたらやるかな」ぐらいのポジションだったのではないでしょうか。
兎にも角にも私の奮闘は実を結ばず、それどころかこの半年間でシティコネクションの社内に大きな亀裂を作ってしまいました。
考えてみれば当然ですよね。「レンタルビデオの時代は終わるかもしれない、なんとしても新しい柱を作るんだ」と言っていた人間が、暇を見つけてはジャレコへ行き、潰れかけの会社を買うために東奔西走し、その間社内の人と一言もしゃべらなかったわけですから。
「吉川は頭がおかしくなった」とか「ジャレコに呪われてる」とか、散々な言われようでした。設立から一緒にいて経営も共にやっていた創業者からも「頼むからジャレコのことを忘れてくれ」と懇願される有り様です。
──幼いころは「ジャレコ愛なんて1ミリもなかった」はずの吉川さんを、そこまで動かしたものはなんだったんでしょうか。
吉川氏:
「何者でもない自分」から脱却したかったんです。社名をシティコネクションにした時は、もちろん後にジャレコの社長になるチャンスが来るなんて思ってもいませんでした。でも私は、自分の会社にシティコネクションという名前を付けた、その事そのものに意味を持たせたかったんです。
TSUTAYAの下請けとして一生懸命頑張ってはいたものの、やはり周囲の経営者や企業と比較した時、私はあまりにも中途半端でした。それを変えたかったんですね。
ですが、創業からの仲間に「もうジャレコに連絡するな。連絡したら辞める」とまで言われてしまっては、仕方がありません。「わかった。もう俺のなかからジャレコ消えます」と答えて、ジャレコのことは考えないようにしました。
とは言っても、私はシティコネクションの社長なわけで、日夜その社名を目にします。どう頑張っても、ジャレコの事を忘れることはできませんでした。
TSUTAYAとの契約が終わる!?切羽詰まったなかで吉川氏が繰り出した起死回生の一手こそ、音楽レーベル「クラリスディスク」だった
吉川氏:
ジャレコ買収に失敗してから少し経った頃、CCC【※】で自分を拾ってくれた方が定年近くなってきたこともあり、シティコネクションとTSUTAYAの契約がなくなってしまう恐れが出てきました。
※CCC
カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社の略称。TSUTAYAや蔦屋書店の運営母体。
当時のシティコネクションの業務の大半はTSUTAYAとのやり取りですから、契約が切れると本格的に食い扶持がなくなります。何かしらの新事業の必要性が一気に高まりました。
そこで私が目を付けたのが、ゲームミュージックです。TSUTAYAの売り場を見ていて、「ゲームミュージックの棚が無い」というのはいつも気になっているポイントでした。そこで、ゲームミュージックレーベルを立ち上げて、レンタル向けのビジネスをやればある程度の稼ぎになるのではないかと考えたんです。
まだTSUTAYAに切られていないこのタイミングなら、発注も自分で管理できますから、勝ち目は十分あると思いました。
レーベルを立ち上げるとなると、当然名前が必要になります。私は「クラリスディスク」【※】と名付けました。「ジャレコは忘れろ」と言われてたのに(笑)。
──ジャレコ由来の名前ということで、周囲から反対などはされませんでしたか?
吉川氏:
反対はとくになかったですね。社名がシティコネクションですし、むしろ「自然じゃん」という感じでした。別の名前をいちから用意するより、ブランディングとして統一性がありますから。
──ジャレコさんに相談などはされたんでしょうか。
吉川氏:
しました。レーベルの名前にクラリスを使うことだけでなく、そのレーベルで出す音楽CDの第一弾をジャレコにしたかったので。
このクラリスディスクの第一弾が、自分の手掛けてきた新規事業の中では“小ヒット”という感じで、そこそこ売れました。続く第二弾はサンソフトを選びました。全然サントラなどが発売されておらず「どうしてどこも出さないんだろう」と思いつつクラリスディスクから出してみたらこれが大当たりしました。
私自身も幼少期のピアノから学生時代のギター、メーザーでの学習など音楽とは長く付き合ってきたミュージシャンでもありましたから、「オリジナル」のみならず「アレンジ」も用意し、両輪としてリリースしたことも、ヒットの一因だったのではないかと分析しています。
──遊んできたゲーム、打ち込み続けた音楽、TSUTAYAとの長年の取引に企業としての新事業など、吉川さんが人生のなかで取り組んできた様々なものを結集させたのが「クラリスディスク」だったんですね。
吉川氏:
そうなんですよ。レーベルの立ち上げをする時は誰でも手さぐりで始める「流通」や「小売り」に関して、私は誰よりも詳しいという自負がありました。「こうやれば売れる」という勘所もわかっていましたし。
当時は原曲をそのまま音源化している会社が多く、手をくわえるといってもコンプレッサーをかける程度でしたが、ウチは空間系のエフェクトを入れたり、EQ(イコライザー)をガンガンいじったりというレベルで手を入れていました。そこまでのことはウチ以外ではほとんどやってなかったんじゃないかなと思います。
──ゲーム音楽のアレンジは吉川さんが担当されてたんでしょうか。
吉川氏:
音楽のディレクションやプロデュースは私がやって、アレンジャーを私の友達にお願いしていましたね。
──クラリスディスクの成功を経て、吉川さんの「何者でもない自分」というモヤモヤした感情は払拭されましたか。
吉川氏:
かなり払拭されました。
──ずっと「ジャレコ」にこだわっていたことで、シティコネクションの社内に亀裂が生まれたというようなお話もありました。この辺りも変化はありましたか?
吉川氏:
そっちは円満とはいかなかったです。ジャレコの件以降、私とシティコネクションの社員との関係性はかなり弱くなっていて、クラリスディスクについても外の仲間たちと協力して動かしていました。
たとえば、当時クラリスディスクのデザイナーを勤め、今もゲーム開発兼デザイナーの上田は、もともと私と同じバンドのボーカル、キーボードでした。
私はほとんど“外人部隊”を指揮するような形で、クラリスディスクに取り組んでいました。
──クラリスディスクでは前述のジャレコやサンソフトだけでなく、「暴れん坊天狗音楽集」【※】でもスマッシュヒットを飛ばすなど、タイトルのチョイスに独自性がありながら「確かにこれなら売れるだろうな」と思わせる説得力がありますね。吉川さんはどういった部分に注目して目利きをおこなっていたんでしょうか。
吉川氏:
私はターゲットを1000人とか2000人に絞ってましたね。大勢が知ってるかどうかではなく、「このぐらいの数の人は買うだろう」という見込みが立つかどうかで選んでいました。
ちょうど「暴れん坊天狗音楽集」を出したころ、シティコネクションの創業からやっていたもうひとりが「我慢できない」ということでシティコネクションを辞めました。同じタイミングで、TSUTAYAからの仕事もほとんどなくなりました。
クラリスディスクはそこそこやれてましたが、そんなに大きな利益は出ていませんでしたし、創業時からの面子も私以外いなくなってしまいました。「これからどうしようかな」と思っていたところに、“運命のいたずら”としか言いようのないものが訪れます。
ゲームヤロウの社長から、電話が鳴ったんですよ。