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ジャレコ愛なんて1ミリもなかったけど、なんとなく子どもの頃好きだった『シティコネクション』を社名にしたらその因果にとらわれ、紆余曲折の末にジャレコのIPを丸ごと継承することになった男の話

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『シティコネクション』というゲームをご存じだろうか。

日本のゲーム会社ジャレコが開発して1985年よりアーケードで稼働、ファミリーコンピュータにも移植されたアクションゲームである。

ジャレコのIPを管理するシティコネクション社長・吉川延宏氏へのインタビュー_001
(画像はアーケードアーカイブス シティコネクション ダウンロード版 │ My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)より)

このゲームを開発したジャレコは、現在はもう存在しない。だが、『シティコネクション』は『アーケードアーカイブス』に収録され、各種プラットフォームにて今も遊ぶことができる。そのライセンスを管理しているのは、株式会社シティコネクション。

ゲームと同じ名前の会社が、『シティコネクション』のみならずジャレコがかつて世に送り出したIP(知的財産権)の全てを管理している。冗談のように聞こえるが、本当のことだ。しかも、シティコネクションはジャレコの関係者がIP管理のために作った会社ですらない。

ジャレコとはまったく無関係な人間が、『シティコネクション』の名を冠した会社を作り、紆余曲折を経てジャレコのIPを継承したのだ。このシティコネクションでは「クラリスディスク」という名前の音楽レーベルも展開しており、レーベルの名前もまた『シティコネクション』の主人公「クラリス」から取られている。

これほどまでに『シティコネクション』、ひいてはジャレコへの思いを表明してみせるシティコネクション社長・吉川延宏氏とは一体何者なのか? 吉川氏はなぜそこまでジャレコのことが好きなのだろうか?

それを問うべくインタビューに臨んだ編集部に対し、吉川氏の回答は「ジャレコ愛なんて1ミリもなかった」という衝撃的なものであった。

ジャレコのIPを管理するシティコネクション社長・吉川延宏氏へのインタビュー_002
シティコネクション社長・吉川延宏氏

しかも、吉川氏はかつてジャレコから「社長にならないか?」と誘われた際、必要額の調達に失敗。周囲からの大反対も受け、ジャレコのことを一度は諦めたと言うのである。

これを聞けば、誰もが次にこう思うはずだ。「ではなぜ今現在、吉川氏がジャレコのIPを持っているのか?」

その答えを探る道のりは吉川氏の半生を辿る壮大なものとなり、同時に氏が抱える「何者かになりたい」という切実な願いと向き合っていく、極めて興味深いものとなったので、ぜひ最後までお読みいただきたい。

聞き手/豊田恵吾
撮影/佐々木秀二

※この記事はシティコネクションさんと電ファミ編集部のタイアップ企画です。


社名にまでなったジャレコの『シティコネクション』は「そこまで好きじゃなかった」!?

──本日のインタビューは“決定版”と題しまして、吉川さんの半生を含めシティコネクションの全てがわかる、そんな記事にしたいと思っております。よろしくお願いします。

吉川延宏氏(以下、吉川氏):
よろしくお願いします。私としても、そうなってくれれば本当に嬉しいです。まず、今日のインタビューでこれだけは伝えておかないといけないというものがありますので、最初に言わせてください。

私の会社名「シティコネクション」は確かにジャレコの『シティコネクション』から取った名前なんですが、別に私は『シティコネクション』のことを社名にするほどは好きじゃなかったということです。

ジャレコのIPを管理するシティコネクション社長・吉川延宏氏へのインタビュー_003

──そうなんですか!?

吉川氏:
はい。会社を興すとき、軽いノリで「昔好きだったゲームのタイトルから取ろう」と考えたんですが、本当は『妖怪探偵ちまちま』とか『ゴールデンアックス』から取りたかったんです。当時の社名は「有限会社シティコネクション」でしたが、「有限会社ちまちま」の方が自分としてはしっくりきます。

しかし、流石にこれらのゲームタイトルは社名として単体で見た時に不自然すぎると思い、いろいろと別の候補を探して最終的にたどり着いたのが『アーバンチャンピオン』と『シティコネクション』、残ったのが『シティコネクション』だったというだけなんですよ。もちろん大好きなゲームではありますが「好きだったゲーム“ベストテン”」止まりですね。

そもそも、私は起業した時まだ27歳です。自分の会社が10年後、20年後にどうなっているか、ましてや将来ジャレコのIPを継承するなんてまったく想像もできないことです。

──では、特別ジャレコ愛があったわけではなく……?

吉川氏:
全然なかったです(笑)。地方に暮らすゲーム好きの子どもではありましたが、ジャレコ愛なんて幼いころには1ミリもありませんでした。そもそも小学生で「ジャレコ愛」ってなんでしょうか?(笑)『燃えろ!!プロ野球』とか『忍者じゃじゃ丸くん』とか、楽しく遊ばせてもらってはいましたけど、それらのタイトルを発売していたジャレコに対してどうこう思うことはなかったです。

幼少期、ピアノの練習部屋に突如やってきた「PC-8801」。妖怪好きの少年は『妖怪探偵ちまちま』の虜になった

──開幕から衝撃の事実を聞かせていただきましたが、そんな吉川さんのゲーム遍歴を教えてください。

吉川氏:
私が初めてゲームに触ったのは1984年、小学二年生のころです。当時私は家でピアノの練習をさせられていたのですが、ある日父がハチハチ【※】を買ってきてピアノの練習部屋に置いたんです。

※ハチハチ
1981年から発売されていたパソコン「PC-8801」に端を発する「PC-8800シリーズ」の通称。

親は私に「ピアノの練習をしろ」と言うので練習部屋にいくんですが、幼い私はハチハチに興味津々になりました。とりわけ父がハチハチと一緒に買って横へ置いていた『妖怪探偵ちまちま』や『フラッピー』『サラダの国のトマト姫』といったゲームが気になって仕方がなかったんです。

当時はゲームのソフトがカセットテープで作られていたので、パソコンにソフトを読み込ませて遊べるようになるまで30分ぐらい掛かりました。なので、待っている間だけピアノの練習をして、30分したら休憩……と見せかけてずっと『ちまちま』を遊んでましたね。

当時の私は『ゲゲゲの鬼太郎』などの影響もあって妖怪が大好きで、日本妖怪も西洋妖怪も出てくる『ちまちま』に夢中でした。

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(画像は妖怪探偵ちまちま for PC-8801 (1984) │ YouTubeより)

──1980年代の当時はゲームというとアーケードゲームが主流だったかと思いますが、吉川さんはアーケードを通らずいきなりハチハチでゲームを体験されたんですね。

吉川氏:
そうですね。人生で初めて遊んだゲームが『ちまちま』でした。その翌年、1985年に父が今度はファミコンを買ってきまして、「せっかくファミコンあるなら遊ぼうかな」という感じで『プーヤン』『ドラゴンクエスト』『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大魔境』などのゲームも遊ぶようになりました。

──ハチハチはお父様が購入したとのことですが、使い方や遊び方も教わったんでしょうか?

吉川氏:
いえ、一切教わってないですね。そもそも、父は基本的に家にいなかったので、聞きに行くということもありませんでした。キーボードの使い方もおぼつかない状態から、ひとりでアレコレと触って「これを楽しむためにはどうすればいいのか?」と考えつつ、覚えていきました。

またその父というのが、普段家にいもしないのにいろいろなものを買う人だったので、ピアノの練習部屋にはほかにもギターやベースにシンセサイザー、ミニコンポにレコードと父の趣味のものが山のように置かれていましたね。

今にして思うと、そこそこ金持ちだったのかもしれない(笑)。ただ、小学四年生の頃に両親が離婚して以降は母と二人の母子家庭で、結構つらい思いもしましたね。

グループのリーダーと仲良くなるため、誰も持っていなかった“メガドライブ”を手に入れた中学時代

吉川氏:
それから少し時が経って、中学生のころに学内のあるグループのリーダー格の子がゲームハードを大量に持ってたんです。ファミコンやPCエンジン、当時出たばかりのスーファミに至るまでなんでも持っていたその子が、ひとつだけ持ってないゲームハードがあったんです。それが、メガドライブでした。

私はどうしてもそのグループに入って仲良くなりたいと思っていたので、その子が持っていないメガドライブを母親に買ってもらいました。とは言え、そんなに余裕のある生活でもなかったのでソフトに関しては新しいタイトルが出るたびに古いものを売って購入してましたね。

メガCD【※】も発売前に通販へ電話をして、発売日は朝から玄関先で届くのを待っていました。たしか年末だったかと思うんですが、寒いのも我慢して夕方まで外に立ってましたね。

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※メガCD:メガドライブに接続することで、CD-ROMソフトでのプレイを可能とする周辺機器。1991年12月に発売された。(画像はメガCD | セガ SEGA より)

──メガCDはお小遣いをやりくりして購入されたんでしょうか。

吉川氏:
いえ、これも母親に買ってもらってました。それからもいろいろゲームで遊びましたが、やっぱり私にとって一番思い出深いのはメガドライブですし、更に言えばメガCDですね。

『惑星ウッドストック』『天下布武』『アーネストエバンス』……初期のソフトは大体遊びました。

最初からメガドライブに惚れこんでいたというわけではないんです。メガCDなんて、外で届くのをずっと待って受け取ったその足で、一緒に買った『ノスタルジア1907』ごと例のリーダー格の子の家に持っていきました。「届いたよ!」なんて言ってね。あの頃は、とにかく友達との関係性を作り維持するという、そのためにゲームを使っていました。

まあ、遊んでいるあいだにいつの間にかメガドライバーになっていましたが(笑)。

──すると、吉川さんはアーケードを通らずにセガ派になったわけですか。

吉川氏:
そうですね。メガドライブの前に友達の家にあったセガ・マークⅢを触ったりはしてましたが、アーケードは全く通ってないです。

私は三重県の鈴鹿で育ちました。F1のサーキットなんかで有名なあの鈴鹿です。地方都市なりにゲームセンターはありましたが、小学生の頃は一切立ち寄りませんでしたね。

でも、その状況が高校生のとき一変しました。『スト2』『ストリートファイター2』)と出会ったんです。もうそこからは逆転しましたね。

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『スト2』にハマり、格ゲーを遊び続けた高校時代。それでもいつも「居場所」を探していた

──なるほど。『スト2』からアーケードに入っていったんですね。

吉川氏:
そうですね。当時の私は妙に『スト2』がうまかったんですよ。鈴鹿市内でも割と上位のほうで、大会に出場すれば上位入賞ぐらいはしてました。その頃はとにかくゲーメスト【※】を読んでゲーセンにこもってという、当時としては典型的な生活を送ってましたね。

※ゲーメスト:
1986年に創刊されたゲーム雑誌。アーケードゲームを専門的に取り扱った。「インド人を右に」など個性的な誤植でも有名。

そのうち、三重県内じゃそこまで強い相手もいないので愛知県の名古屋まで遠征もするようになりました。

──それはすごい。『スト2』以外にはどんなアーケードゲームを遊びましたか?

吉川氏:
格ゲーしかやりませんでした。『スト2』から始まり、当時出ていた2D格闘ゲームはほとんど全部触りましたね。ゲームセンターの経営者の息子と仲良くなったので、そこに入り浸ってました。

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──では『バーチャファイター』も……?

吉川氏:
これが『バーチャ』は一切やってないんですよ。「ボタンを押したらガードとか、ありえないだろ!」という(笑)。まあこれも当時たまにあった派閥みたいなものですね。『鉄拳』はやったんですが、『バーチャ』はやりませんでした。

──メガドライブからアーケードにと、当時から様々なゲームを遊んでいたんですね。そんなゲーマーな吉川さんの興味は、パソコンゲームの方にはいかなかったんでしょうか。『ちまちま』のお話など、ある種ゲーム体験の原風景とも言えるかと思いますが。

吉川氏:
調べたこと自体はありましたが、パソコンには行かなかったですね。私は幼い時にピアノを習っていたこともあって音楽が好きだったので、当時だとFM TOWNSで作曲して音楽をやるような流行もあり、音楽方面に進もうかと思った時代もあったんですが親が反対しまして。「普通の大学にいけ」ってね。

結局、あの頃の私はゲームそのものを見て選ぶというよりも、人が集まっているゲームに流されていた節があります。そもそもメガドライブを選んだのも人間関係のためだし、格ゲーにハマったのもゲーセンにいけば人がいるからでした。

母子家庭で母親は働いていたので、家に帰っても誰もいません。寂しくて、いつも居場所を探していたように思います。ゲームを遊ぶというより、コミュニケーションツールとしての使い方がメインだったんでしょうね。

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副編集長
電ファミニコゲーマー副編集長。

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