かつて昭和の犯罪には、新聞、ラジオ、テレビといったマスメディアを意識して為される「劇場型犯罪」といわれるものがあった。犯人はメディアの先に不特定多数の「観客」がいることを自覚していた。その劇場型犯罪は、現在ではどのようなものになるのかーーそうした興味深い問いかけが、映画『22年目の告白-私が殺人犯です-』の大きなテーマになっている。
※22年目の告白-私が殺人犯です−
2017年公開の日本映画。時効後に公の場に姿を表した殺人犯・曽根崎雅人(藤原竜也)と、彼を逮捕寸前まで追い詰めた刑事・牧村航(伊藤英明)を中心に描かれたスリラー映画。キャッチコピーは「すべての国民が、この男に狂わされる。」。
この映画は、平成を逃げのびた連続殺人鬼がタイトル通りの告白を行うところから始まる。彼は犯罪のあらましを記した自伝を出版し、様々なメディアへの相互影響を計算しながらスター然と振る舞い、毀誉褒貶ありつつも一躍時の人となる。その真意は何か? 贖罪、売名、あるいは……。22年という時の流れと世相の変化に対して真正面から向かい合った骨太のミステリーだ。
「平成」は「負のエンターテイメント」を生み出した
昭和、平成……と元号は変わっていくが、時間や人々の思いは連続している。平成元年を思い返すとそれは昭和の後期でもあり、時間をかけてゆっくりとクロスフェードしていった。だが、個人的な実感として“平成ならでは”を決定的にしたのはソーシャルメディアの登場だった。
そして、ソーシャルメディアがマスメディアに匹敵する大きな存在になった現在。
あるできごとが起きたとき、その情報がマスメディアとソーシャルメディアの両輪によって、加速度的に広がり、人々の好奇心は刺激され続け、腫れ上がる。そしてついには観ているだけの「観客」では物足りず、いつの間にか意見を発信して参加するという「当事者」になっていく。この一連の騒ぎを「エンターテインメント」として一通り食い潰すと、できごとの本質は置き去りにして、次の獲物に飛びつく……。
特に、負のイメージがあるできごとに対して、こうした現象は見受けられる。「負のエンターテインメント」とでもいうべきか。この「負のエンターテインメント」は、ここしばらく続いており、“STAP細胞”【※1】や“佐村河内氏”【※2】の騒動あたりから、顕著になってきた現象だ。
※1 STAP細胞
動物の分化した細胞に外的刺激(ストレス)を与え、再び分化する能力を獲得させたとされる「STAP細胞」を、小保方晴子氏(理化学研究所)と笹井芳樹氏(同)らが共同で発見したとして、2014年1月に論文2本を学術雑誌「ネイチャー」に発表。生物学の常識をくつがえす大発見とされ、また小保方氏が若い女性研究者であることもあり、世間から大いに注目された。しかし、論文発表直後から様々な疑義や不正が指摘され、7月2日に著者らはネイチャーの2本の論文を撤回した。
※2 佐村河内氏
聴覚障害を持つとされていた音楽家・佐村河内守氏は、『鬼武者』のゲーム音楽や『交響曲第1番《HIROSHIMA》』などを作曲したとして脚光を浴びたが、2014年2月、自作としていた曲がゴーストライターの代作によるものと発覚。ゴーストライターを務めていた作曲家の新垣隆氏は、「佐村河内氏は18年間全ろうであると嘘をつき続けていた」と主張し、騒動となった。
決して他人事ではない。ぼくも「負のエンターテインメント」参加者のひとりとして、この磁力に引き寄せられている。狂騒はやがて落ち着くのかもしれない。だが今は渦中だ。同一の情報環境を共有し活動している以上、降りたくても降りられない。これによって自分自身が、あるいは社会全体が少しずつ傷ついていっているような感触がある。
『22年目の告白−私が殺人犯です-』は、この「負のエンターテインメント」を物語の背景としてではなく、ミステリーを発生させる主要要素として扱っている。状況が二転三転すると思わず驚きの声が漏れてしまうストレートな娯楽作品だ。
映画館は老若男女で満員だった。ストーリーが動くと場内がどよめく。それが楽しい。見知らぬ他者とスクリーンを共有する感覚は昭和的かもしれない。ただそれは、回帰ではなく「負のエンターテインメント」を「正のエンターテインメント」へ、という良き方向転換を示唆するものだと思った。
『あめのふるほし』に見る「平成」の“夢の跡”
話題を呼んだスマホゲーム『ひとりぼっち惑星』【※1】の作者、ところにょりさん(@tokoronyori)の新作スマホゲーム『あめのふるほし』【※2】にも、『22年目の告白-私が殺人犯です-』と同様の問題意識を見いだすことが出来る。
「雨がよく降る頃」にリリースする予定だと、にょりさんが言っていたので、もうすぐ遊ぶことが出来るだろう(編集部注:2017年6月17日に配信開始)。ぼくは5月に開催されたインディゲームの祭典BITSUMMITでこのゲームをプレイさせてもらった。
※1 ひとりぼっち惑星
2016年にリリースされたスマホ向けアプリ。ジンコウチノウ達が戦争を続ける惑星で「ひとりぼっち」になってしまった主人公(プレイヤー)は、戦いで飛び散ったジンコウチノウのパーツを集めてアンテナを作り、宇宙から届く匿名のメッセージを受信したり、逆に発信したりするゲーム。
※2 あめのふるほし
2017年にリリースされたスマホ向けアプリ。ところにょり氏の前作『からっぽのいえ』と同じ惑星を舞台にした続編。現実の天気と連動し、雨の日のみ起動できるという独特の仕様。他のプレイヤーが残したメッセージを拾い集めたり、自身がメッセージを遺したりするゲーム。
荒涼とした大地を巨大装置がゆっくり歩行していく。巨大装置をよく見ると、スマートフォンやテレビモニターなど現代文明のプロダクトがごっちゃと固まって出来ている。
つまり、この装置はわれわれの文明の産物の集積で、平成よりもずっと先の未来、人類がいなくなった後の地球が舞台だということがわかる。
それと同時に、『22年目の告白−私が殺人犯です−』のような「負のエンターテインメント」が暴走している現在の状況を心象的に描いているようにも思える。巨大装置は、ソーシャルメディアやマスメディアの象徴である情報デバイスを取り込んだ異様な姿で無人の荒野を徘徊しているからだ。「負のエンターテインメント」をひたすらに消費し続ける「平成」の“夢の跡”を想起してしまう。巨大装置からはもの哀しさと滑稽さと同時に超然とした佇まいの美しさを感じる。
にょりさんの説明によれば、巨大装置には寿命があり、歩行の末、やがて活動を停止し残骸となる。その残骸と遭遇した時にテキストがソーシャルメディアによって共有される。それは、他のプレイヤーが発見者に託した「遺書」のようなものだ。ゲーム世界で「遺書」として繋がっていく言葉と言葉は、やがて「物語」となる。
「負のエンターテインメント」の生産に拍車をかけることになった“罪”を持つ“ソーシャルメディア”。『あめのふるほし』は、この媒体自体を介して、人々のコミュニケーションの新しい有様を模索する。結果的にこの試みは、正か負かという軸とは別の立脚点を見出すことになるだろう。これは、文明の自傷を「治癒するエンターテインメント」だというのは飛躍しすぎだろうか。