先日、3月21日から公開されているスタジオジブリ宮崎駿監督の新作短編『毛虫のボロ』を観る機会を得た。
過日、鈴木敏夫さんにお話を伺ったご縁もあり、そのメディア先行試写会にご招待いただいたからだ。
毛虫の視点では世界がどう見えるのだろう?──そんな突拍子もないテーマで描かれる本作の本編映像はたったの14分と少々。しかし、その中に盛り込まれた、これでもかというほどの宮崎監督のイマジネーションは圧巻のひと言。少し大げさな言いかたをすれば、ある意味で、宮崎監督のクリエイティビティの神髄を見た気がした。
どういうことか?
というのも、筆者も職業柄いろいろな映像を観る機会が多いわけだが、映画やゲームを始め、さまざまな(それでいて豪華な)映像が溢れる昨今にあって、この『毛虫のボロ』は、“本当の意味で贅沢な作品”に思えたからだ。
そもそも、世の中の商業エンターテイメントというものは、そのビジネス的な理由から、どうしても「豪華な」あるいは「ジャンキー」な内容になりがちである。それは、何かものを作るには人手とお金がかかるし、それを賄うためには商業的に“売れる”必要があるからだ。
しかし、豪華なフランス料理やステーキ──これは映画で喩えるなら、ハリウッド映画のようなものだ──だけでは、いくら美味しくてもいずれ胸焼けしてしまう。
たまには、素材の旨味だけを活かした素朴な料理を食べたくなるものだ。その点、『毛虫のボロ』は、混じりっ気なしの天然ダシで作った吸い物のような、ひと味変わった趣のある作品であると言える。
本稿では、そんな『毛虫のボロ』の内容を紹介しながら、それを観て感じたことや思い浮かんだことを、つらつらとまとめてみたいと思う。
やや散漫で、結論といった結論もない内容で恐縮だが、どうかご容赦いただきたい。
宮崎監督らしい創造性に溢れる『毛虫のボロ』
まず、『毛虫のボロ』の概要を簡単に紹介しておこう。
本作は、宮崎駿監督が手がける最新のアニメーション作品。劇場公開の『風立ちぬ』(2013年公開)から数えて5年ぶりとなる新作で、東京都三鷹市にある『三鷹の森ジブリ美術館』の館内に設けられたシアター“土星座”でしか観られない短編映画のひとつである。
主人公はちっぽけな毛虫の「ボロ」。作中では、この小さな毛虫の視点から見た、この世界の美しさや恐ろしさが、宮崎監督らしい創造性に溢れる映像で描かれていく。
タレントのタモリさんが擬音、効果音などすべての音をあてているのも大きな特徴で、その独特の映像世界と合わさって、得も言われぬ作品に仕上がっている。
先に言っておくと、本作は、いわゆる解りやすい大作映画的な表現からはかなり外れた作品である。
いや、映像のクオリティそのものは、宮崎監督が5年の歳月をかけただけあって、きめの細やかな創造性に溢れていることは間違いない。
だが一方では、効果音のすべてをタモリさんが声帯模写よろしく表現していたり、空気や匂い、光といった形のないものを「絵と動きで表現したらどうなる?」といった挑戦に取り組んでいたり、とにかく異質さのほうが際立つ内容になっている。
ジブリの原点は、“絵が動く”という感動
本編を観て、まず驚かされるのが、宮崎監督のイマジネーションの豊かさだろう。
カットのひとつひとつ、画面に出てくるものの動きのひとつひとつに創意工夫が込められており、創造性に溢れていたからだ。それこそ主人公のボロが移動したり食べたりする、ただそれだけの“動き”に対してもテンプレートのようなアクションはそこになく、すべてがワンオフで切り出された一品もののクオリティと言えば、その凄さが解りやすいだろうか。
もっと解りやすい部分で言えば、たとえばボロが葉っぱを食べるときなどは、葉っぱが肉厚なゼリーのようなものとして表現され、微細な器官からは水分がポロンとにじみ出ていて、それをボロが美味しそうにほおばる姿が描かれるし、太陽から発せられる“眩しい光”などは、オレンジ色の寒天のようなものがボロを包み込む映像として描かれる。
ただ移動するだけであっても、何かを気にしながら歩くだとか、怯えながら歩くなどなど……。本当にすべての動きに対して創造性が感じられるのは、地味だがもの凄いことだと思う。
思い返せば、以前、ジブリに入社したばかりの川上(量生)さんから、「ジブリの原点は、“絵が動く”という感動」にあるという話を聞いたことがある。
川上氏:
僕がジブリという組織に入ってみて,「これは思っていたのとは違ったな」と感じた部分で言うと,例えば,ジブリの作品って,やっぱりストーリーがとてもいいじゃないですか。シナリオが奥深いし,見た後に心に残る何かがありますよね。だから僕は,スタジオジブリにおける映画の制作工程では,このシナリオっていう部分を凄く大事にしているんだろう。シナリオに凄いこだわりがある集団なんだろうって思っていたんですね。
4Gamer:
……違うんですか?
川上氏:
シナリオはもちろん大事にしているんですけど,スタジオジブリの人たちが一番大事にしているのは,別にそこじゃないんですよ。彼らの原点は,あくまでも「絵が動く」というところにあるんですね。
4Gamer:
ああ……。
川上氏:
例えばですが,「東映アニメーション」という会社は,元々は「東映動画」って名前だったんですよね。動く画(え)と書いて「動画」ですよね。すなわち動画っていう単語は,昔はアニメーションのことを指していたわけですよ。
4Gamer:
それはゲーム業界でも似たような感覚があるんですよ。ファミコンとかそれよりも昔からゲームを作ってきてる方々っていうのは,純粋に「コンピュータで処理ができる」「何かを入力したら,反応がある」というシンプルな部分に感動を覚えた人たちなんだなと。ストーリーどころか,いわゆるゲーム性云々ですらなくて,単純にプログラムを打って画面が出た! みたいなところに可能性を見出した人達なんだなと感じることがあって。
川上氏:
アニメーションというものが世の中に出たとき,画が動くということ自体に感動した人達が,今のアニメ産業の礎を築いたわけですよ。画が動くという喜びを伝えたくて,そういう仕事を選んだというのが,宮崎 駿さんや高畑 勲さんの世代なんだろうなと僕は思いました。
そう考えると本作も、そうした宮崎監督の原点が垣間見える作品だと言えるだろう。「あらゆるものを絵と動きで表現したい!」という、アニメーターの初期衝動のようなものが、「光や匂いさえも、絵と動きで見せる」という発想に繋がっているわけだ。
ちなみに。ゲームにまつわる話を少ししておくと、昔、CEDECというゲーム開発者向けのイベントで、絵に関するセミナーを取材したことがあるのだが、そのときの光景が忘れられないでいる。
というのも、セミナーを受講しに来た開発者の多くが、講義の前のちょっとした空き時間にもみんな“落書き”をしていたからだ。
それを見て、「ああ、絵でプロになる人たちというのは、このくらい絵を描くことが好きなのか」と感じ入った覚えがある。
逆に言うと、好きなことを仕事にするということは、それくらいハードルの高いものだとも言えるわけだが。
音がないからこそ刺激される想像力
本作を語るにあたって、タモリさんによる効果音にも触れておかなければなるまい。
とはいえ、率直な感想でいえば、これが“良いのか悪いのか”は、正直なところ良くわからない。引っ掛かりを憶えたことは確かだし、個人的には、宮崎監督が描く映像に対して、たったひとりの声で音を当てる──そのことの贅沢さ(ある意味、恐ろしく贅沢な使いかたではないか?)と、実験的なチャレンジ精神のそのものに驚きを抱かざるを得ない。
ただ、これも実際に観てみる(聞いてみる)と解るのだが、タモリさんが吹き込む独特の効果音のほかには、逆にまったく音がない。言い換えれば、タモリさんが注目した箇所のみにSEが当てられており、それ以外の部分は無音という、不思議な構図となっている。
しかし、音がない部分があることによって、逆に想像する余地が生まれ、むしろ想像力が刺激されるというのも、本作のユニークな点かもしれない。
これはまるで昔の無声映画のような感じであり、タモリさんはいわば“活動弁士”に該当するわけだ。
たとえば途中で少女がボロに向かって手を振るシーンがある。そこで少女が「さようなら」と言っているのか「元気でね」といってるのかは判らない……といった具合だ。
おそらくは観客によって受け取りかたが変わるであろうことは想像に難くなく、「ああ、なるほど。無声映画にはこういう良さもあったのか」と気づいたのは、思いがけない収穫だったと言える。
なぜなら、基本的には作り手からの一方通行であるはずの映像メディアで、お客さんの受け取りかたに変わる余地がある表現ができる──それって、なんだか“現代的(双方向性がある)”だなぁと思うからだ。これってとても興味深くないですか? え、考えすぎ? ……そうですか(´・ω・`)
『毛虫のボロ』は、非商業ならではのコンテンツ
しかし、こうやって思い返せば返すほど、『毛虫のボロ』は、驚くほど挑戦的な作品だと気づく。シアター“土星座”のみで公開される一連の短編映画(10作ほど作られている)が、大作の劇場版映画とはまた違った宮崎監督の実験的な創作の場であることがよくわかる。
「時代の空気を取り込まないと、映画は作れない」
というのは鈴木敏夫さんの言だが、これは言い換えれば、大衆向けの大作映画の制作において、そうした“外と向き合う作業”が欠かせないという話でもある。
ジブリ鈴木敏夫Pに訊く編集者の極意──「いまのメディアから何も起きないのは、何かを起こしたくない人が作っているから」
まぁジブリほど時代の本質と向き合わないにしても、商業コンテンツには、少なからずそうした外(市場)と向き合う側面が求められるのだろう。
では、この『毛虫のボロ』はどうか。
こちらは宮崎監督が少年時代に漫画を読んで感じたことを、いま70年近い時間を経て形にしたというもので、商業を度外視した純粋な創作意欲そのものだけが作品作りのいちばんの原動力となっている。
つまり、これは“内を向いて”作られている作品であり、劇場向けの映画とは真逆の方向性だろう。したがって、「いまの時代に合致しているかどうか」なんてことは当然考えられてない。
しかし、だからこそ、このような異質な作品が生まれ得るのだとも思う。
冒頭でも書いたように、まさに商業的な理由から、商業コンテンツはどうしても画一的になりがちな部分を持っている。それはその良さもあるが、「コンテンツには、もっと“幅の広さ”があってもいいのではないか?」ともよく思う。
食べ物であれば、豪華な懐石料理がある一方で、スナック菓子や、素材の味をそのまま味わう郷土料理があるように、大量生産はできないかもしれないけど、そこでしか味わえない逸品のような作品も、コンテンツの世界でももっとたくさんあればと思うわけだ。
それでいうと、『三鷹の森ジブリ美術館』のみで公開されている『毛虫のボロ』を始めとする短編映画群“ジブリの森のえいが”は、文字どおりそこでしか味わえないコンテンツそのものだ。
何も、何十億や何百億をかけた大作だけがコンテンツのありようではない。質素だが手間の掛かるもの、本当に贅沢なものとはこういう作品を指すのかもしれないな……と、本作を観てしみじみと思った次第である。
最後に。企画展示「食べるを描く。」にも注目
じつを言うと、三鷹の森ジブリ美術館を訪れたのは、これが初めてだったのだが、『毛虫のボロ』のクオリティを目の当たりにして、ほかの短編映画もぜひ観てみたいと思った。全部で10作品(『ボロ』が10作目)があり、このシアター“土星座”で、ローテーションで上映されているのこと。
中には、あの押井守監督に「宮崎駿の最高傑作。これは宮崎駿にしか描けない」と言わしめた『めいとこねこバス』などといった作品もあるようなので、時間を見つけ、プライベートで何度となく鑑賞に行ければと思う。
ちなみに、三鷹の森ジブリ美術館の常設展示物もたいへん見応えがあり、まだ行ったことがないという方は、ぜひ一度訪れてみることをオススメする。
なんというか、見ていてシンプルにワクワクするような仕掛けや展示が多く、スタジオジブリの魅力を文字どおり体感できる場となっている。
加えて2018年11月までは、企画展示「食べるを描く。」も開催されている(予定)。
これはジブリ作品で描かれている「食べるシーン」を特集するという展示で、各作品の絵コンテを始め、『天空の城ラピュタ』に登場する飛空艇(タイガーモス号)の厨房を再現した部屋や、『となりのトトロ』の草壁家のお勝手などが公開されている。
こちらもかなり興味深い内容となっているので、ジブリファンを自認する人はぜひ期間中に訪れてみてほしいと思う。
『毛虫のボロ』上映にあたって、宮崎駿監督のコメント(全文)
ごあいさつ
生まれたばかりのちっぽけな毛虫に世界はどう見えているのでしょう。
小学生のとき、植物の光合成について教えられて、光合成はどう見えるのかズーッと気になっていました。
毛虫には空気の粒は見えるのかなぁとか、葉っぱをかじった時はゼリーのような味がするのかなぁとか、狩人蜂は今の戦場でとびまわっている無人攻撃機みたいなものかなぁとか…。
それでこんな映画ができてしまいました。
さいごまでつきあってくれたスタッフと、ノボロギクを教えてくれた家内と、音をあててくれたタモリさんに感謝します。
タモリさんなくては、この映画は完成しませんでした。
ありがとう
宮崎駿
■三鷹の森ジブリ美術館の入場は日時指定の予約制です。
・毎月10日より、翌月入場分のチケットを全国のローソンでのみ販売します。
・web、モバイル、店頭Loppiにて予約、ローソン店頭で引き換えます。
・夏休みシーズン(7月・8月入場分)のチケットは、先行抽選販売を実施予定です。
詳細はこちらのページからご確認いただけます。
■『毛虫のボロ』はジブリ美術館の映像展示室「土星座」のみで上映します。
・3月21日(水/祝)~8月31日(金)上映予定
■利用案内、アクセス、チケット販売価格などの詳細は下のボタンからご確認いただけます。
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