令和直前に、滑り込みで電ファミも平成を総括。編集長TAITAIによる「この30年はなんだったのか」の思索と、「この30年のざっくりとした業界トピックス&発売されたおもなタイトル」をまとめた年表を用意しました。
ここでは前者を公開。「何々があったよねー」という話ではなく、この平成の時代にゲーマーである私たちが何を経て、令和の時代にどうなっていくかを語っています。
これを契機に、読者の皆さんもぜひ平成のゲームを考えてみると面白いかもしれませんね。
年表は以下のリンクから。ぜひご覧になってください。(編集部)
文/TAITAI
平成の30年は何をもたらしたか
この平成の30年の歴史は、ゲームの発展の歴史でもあった。
もともとゲームは新しい技術によって革新が起き、技術ドリブンで新たなフォーマットや、新たなゲームのスタイルのようなものが生まれ、発展してきた娯楽だ。たとえば3Dの技術。たとえばCD-ROMという媒体。
そしてネットワークの整備によって登場したオンラインゲーム。高性能化する携帯ゲーム機やスマートフォンの登場では、『ポケットモンスター』や『モンスターハンター』、それから『パズル&ドラゴンズ』や『ポケモンGO』のようなタイトルが花開いたわけだ。
でも、この時代の切り替わりのタイミングでは、こうした話はほかにも多くの人が語るだろう。だからここでは、「技術の進歩によって発展が促されてきた一方で、ゲームの進化は、社会のありようを写した鏡でもあった。社会のありようによって、あるいは社会とプレイヤーの接しかたに合わせて、ゲームがいかに変化してきたか?」という話をしてみたい。
だから平成史を振り返ってというよりは、ここで考えるのは、この平成の30年で我々が経てきたものと得たものの話になる。
時代の変化に合わせて、ゲームはより浸透していった
平成のはじめの1989年にゲームボーイが登場し、それまでテレビの前に座って遊ぶものとなっていたコンピューターゲームが、「家から持ち出せる、友だちと紡ぐコミュニケーションの道具」という方向の可能性を大きく拡げたことは、平成という時代のゲームの、ひとつの象徴的な出来事であったように思う(もちろんゲーム&ウオッチなどの個人で楽しむゲームは昭和の昔から存在していたが)。
そもそも、コンピューターゲームが商用として初めて導入され、花開いた場所は、『ポン』や『スペースインベーダー』がそうであったように、酒場や喫茶店といった人々が集うアーケードの中であった。
当時、大学の研究室にしかなかったコンピューターなるものが、ゲームという形で人々の生活の中に進出してきたわけだ。ゲームは、そうした人が集う場所における娯楽として、その中のコミュニケーションの話題のひとつとして、人々のライフスタイルの中に取り込まれていった。
その後、コンシューマゲームが登場し──中でもファミリーコンピュータが発売されると、今度はアーケードから家庭へ、それもお茶の間へとゲームは進出を果たす。世の中に広く普及したテレビというインフラに乗っかる形で、ゲームはさらに人々の生活の中に“溶け込んで”いったのだ。
そう考えると、「ファミリーコンピュータ」という名称も、任天堂の狙いというか、その決意が見て取れるものだと解釈できる。
平成とともに現れたゲームボーイは、そんなゲームの歴史の流れの中にあって、さらにゲームを「家族単位」から「個人単位」で浸透させ、溶け込ませるという役割を担った点が革新的であったといえよう。
ゲームボーイが遊ばれていた当時、ときおり言われていたことに、「テレビは家族の画面だけど、ゲームボーイは自分の画面である」というものがある。
親に隠れて遊んだり、外に持ち出して遊んだりできるゲームボーイは、いまとなっては当たり前だが、“テレビを観ながらスマホを触る”というような「マルチスクリーン」の概念みたいなものの、ある意味先駆けとして機能した。
また、そうしたゲーム環境の変化のありようは、当然、ゲームデザインやプレイヤーのありようにも変化をもたらす。
たとえば前述のように、もともとテレビ番組やビデオが寡占していたお茶の間には、アーケードからコンピューターゲームが入り込んだ。アーケードが由来であるから、それはインカム重視の爽快で短時間で終わるもの──つまりアクションゲームやシューティングゲーム、そしてレースゲームなどが、そのままお茶の間でも楽しまれていた。
ファミコンもそのひとつだ。ファミコンはアーケードゲームを家庭でも遊べることが大きな売りのひとつだったし、実際に『ドンキーコング』や『ゼビウス』は、ファミコン黎明期の代表的なキラーコンテンツとなっていたものだ。
ところが子ども部屋にテレビが設置されるような時代になり、すなわちゲームとそのプレイヤーが一対一で向き合うという環境が整い始めたとき、いちばん花開いたのは、そういうゲームではなく、『ドラゴンクエスト』のような物語がメインとなるものだった。
つまりテレビと向き合って遊ぶというスタイルが、コンピュータRPGというゲームデザイン【※】を許容し、その隆盛を促したのだ。
これはつまり、新しいビジネスモデルであったり、それによって生まれた新しいプレイヤーの多くが「どうゲームに接しているか」によって、ゲームデザインが規定されたり、拡張されたりするという話だ。
※コンピュータRPGというジャンル自体は、もともと「パーソナル」なコンピュータで楽しむゲームからの発祥である。
ゲームボーイに話を戻そう。
では、人々のゲームへの接しかたがより個人単位へと変化したとき、何が起きたのか。それは『ポケットモンスター』に象徴されるゲームデザインだ。
モンスターの交換や対戦といったものは、言うまでもなく、ゲームが個人の所有であることや、持ち出せる環境がセットでないと語れない。ゲームの新しい遊ばれかたが、新しいゲームデザインを花開かせたのだ。
また、それまでは同時に楽しもうとしたとき、「テレビを観る。そして切り替えてゲームを遊ぶ」というスタイルだったものが、携帯ゲーム機が登場してからは、「テレビを観ながらゲームを遊ぶ」スタイルとなっていった。
つまりゲームは、テレビなどと競合するエンターテイメントではなく、共存する形でより広くライフスタイルに溶け込んでいったのだ。そして携帯電話やスマートフォンが現れてからは、さらにそれが顕著になっていく。
インターネットのあり方の変化と、ゲームの変化
つぎにインターネットの爆発的な普及がゲームを変えていく。それ以前、インターネットの黎明期は、それをゲームに用いる人が限られていたので、ゲームの中のオンラインという要素は、リアルの友だちを繋ぐためにあったのではなく、知らない誰かといっしょに遊ぶための機能として存在した。
それは『ウルティマオンライン』でもそうだったし、『ディアブロ』でも『エバークエスト』でもそうだった。
とくに『エバークエスト』には、見知らぬプレイヤーどうしがスムーズに連携して遊べるように、役割分担できるようなゲームデザインが施されていた。いまとなっては当たり前だが、プレイヤーの職業ごとに明確に役割を(前衛の戦士が敵を引きつけ、後衛の魔法職が火力担当やサポートに徹するなどを)規定することで、言葉に頼らずとも自然にチームプレイが前提になるような設計になっていた。
ゲームのシステムとして「役割を演じる(ロールプレイをする)」という明確な遊びかたが意図されていたわけだ。
これはインターネットが本当に社会のインフラとなる前の、「ネットの世界」がまだ「リアルの世界」とは分断された“特殊な場所”として認知されていた時代の話だが、ひとつ与太話をすると、そのふたつの世界が融合していく端境期の象徴的なイベントのひとつが、じつは『ニコニコ超会議』であった。
当時のドワンゴ・川上量生氏の言葉を借りれば、ニコニコ動画の初期のころは、まだまだネットの世界とリアルの世界は分断されており、「ネットの人気者とリアルの人気者は別だった」という。
それこそニコニコ超会議の当初のコンセプトは、「リアルに進出せよ」というものであり、ニコニコ超会議は「ネットの変なものをリアル世界に現出させるイベント」として、その地位を確立していったのだ。
ところが社会の基盤としてインターネットが“世に溶けていった”ときに、あまりにも当たり前になったオンラインという要素は、「知らない人と出会えるのが面白い」という異文化交流的な側面だけでなく、知っている人どうしが繋がるリアルのツールとしての機能を充実させ、さらに世の中に浸透していった。
その結果、HIKAKINに代表される人気YouTuberがそうであるように、いまやネット上の人気者はリアルの世界でも人気者となっていった。現在は、ネットとリアルに境目がない“あって当たり前”の時代に突入しているわけだ。
SNSなどが普及した結果、リアルもネットもごちゃ混ぜになり、コミュニティにはリアルの友だちもいれば、オンライン上だけの友だちもいるようになった。壁や仕切りはなくなったのだ。
いにしえにあった、「ネットワークは特殊である」という垣根のような概念が、インフラとして社会に溶け、すなわち社会や人々とコンテンツとの接しかたが変わっていった結果、コンテンツの受容のされかたが変わっていったのだ。
ゲームのありようも、当然、それに合わせて変化していく。ネットを介したオンライン対戦や協力プレイも、いまやそこに知人か知らない人かの垣根はなく、フレンドとはパーティを組みつつも、さらに知らない人がマッチングによって参加していくといったような、システマティックに洗練されたものへと進化した。
これも余談だが、インターネット──とくにSNSの普及により、あらためてボードゲームやカードゲームなどのアナログゲームが盛り上がってきているのも、とても興味深い現象だろう。
SNSの普及によって同好の士、遊ぶ仲間がすぐ見つかるようになったということが、このようなアナログゲーム隆盛の一助になっていることは間違いなく、これもまた、時代の環境に合ったゲームが浸透していくひとつの事例と言える。
ひとつを100万人で。100をそれぞれ1万人が。
インターネットやSNSの普及によって、コミュニティやユーザーの趣味嗜好は細分化されたとよく言われる。たとえば昔は、テレビの人気番組や『週刊少年ジャンプ』などというマスメディアを通じてコンテンツが100万人単位で共有されていて、みんなが同じそれについて語り合うというのが一般的な消費のありかただった。
だが、インターネットやSNSの普及によって1万人単位の同好の士のようなコミュニティがたくさん存在するような構造になり、それによって大きな「みんなの話題」というようなものが、なかなか醸成されなくなってきている。
それはひところの掲示板などで、ネットの総体として使われていた「おまえら」がもういないことにも象徴される。セグメントが小さくなり、「○○民」など、特定のコミュニティを指す小さな言葉だけが使われてるようになった。
マイナーな趣味嗜好の仲間同士が、ネットの力でまとまりやすくなったのはとてもいいことだろう。しかしその反面、かつて『少年ジャンプ』が担っていた誰もが知るコンテンツだったり、みんなで共有できるネタ/話題としての巨大コンテンツというものは廃れていってしまうのだろうか? ──そんな問題意識が、筆者の近年の関心事でもあった。
しかし、そんな心配を吹き飛ばしてくれたタイトルが、『Fate/Grand Order』(以下、『FGO』)だった。『FGO』では、キャラクターの追加やイベントなど、アップデートがそのたびネット上でバズとなり、トレンド入りするようなことがたびたび起こっている。
そういう盛り上がりを目にすると、いまはソーシャルゲームこそが、往年の『少年ジャンプ』であったり、はたまたテレビが持っていたライブ感や、エンターテイメントとしての熱量を持っているコンテンツだと感じてならない。
では、その「熱量」の正体とはいったいなんだろうか。あるいは、その「熱量」を生み出すからくりとは何か?
筆者は、それに対して「ライブ感」や「同時性」が重要なのではないかと最近は考えている。『少年ジャンプ』や、あるいは人気テレビ番組が持っていた熱量の背景には、当のマスメディアが持つ重要な機能のひとつである「巨大な同報性」と、そこから生まれる「ライブ感」というものがあったように思うからだ。
そもそも、もともとインターネットというものは、その構造上の理由で、そうした同報性にはあまり向かないインフラであった。ウェブサイトは基本的に非同期的(入れ替わり立ち替わり)に切り替えて見る使われかたを想定しているし、動画サイトにしても、一度にたくさんの視聴者を捌くことは難しい。サーバー代などコストも高く付く仕組みだったからだ。
だからこそ、ニコニコ動画のような「非同期だけど同期しているような面白さを再現する」コメントのありようは、革新的な面白さを持つ仕組み(ほかのWebサービスにはない面白さを生む差別化要素)として機能した側面がある。
話が少し脱線したので話題を『FGO』に戻そう。『FGO』で最新のイベントを楽しむには、それまでのシナリオをすべてクリアしていなければならないという縛りがあるのだが、筆者にとって、これははじめ「理解し難い不思議な仕様」だった。
普通のオンラインゲームであれば、途中参加の人に、そこまでの負担を強いるような仕組みはなかなか珍しい。むしろ新規参加者がすぐに“追いつきやすい”ための仕掛けをてんこ盛りにする方が、一般的な考えかただからだ。「せっかく来てくれた新規プレイヤーにわざわざ負担を強いるような仕組みを、なぜ盛り込むのだろう?」というのが不思議でならなかったのだ。
しかし、じつはこれこそが『FGO』を特別なコンテンツへと昇華させる重要な要素だったのではないかと、いまでは思う。というのも、プレイヤーたちの足並みを揃え、一斉にラスボスイベントのようなものを体験させることが、ひとつのイベントを100万人単位が同時に遊んで話題にしていた「往年のマスメディア的コンテンツの面白さ」を体現する仕掛けとして機能していたように感じられたからだ。
思い返せば、その昔、4Gamerに掲載した、僕が関わったインタビューで『FGO』のシナリオを手がけた奈須きのこさんが、「これからは一回性の体験が重要になる」というような話をしていた。
それまでのパッケージされたメディアの面白さは、その完成度の高さや、反復しても楽しめる面白さなどの部分が重視されてきたが、これからソーシャルがもっと流行っていく過程で、「より一回性のようなものの体験/ライブ感の価値が重視されるだろう」という主旨だ。
それはCDで糧を得ていた音楽業界が、CDが売れなくなり、いまはライブ事業で儲けているのに似ている。CDが売れない代わりに、YouTubeで無料のPVを公開し、それで楽曲やアーティストを好きになったユーザー、つまり対象に価値を見い出した「お金を使ってくれる人」たちを集め、ライブやイベントを催して市場を成立させているわけだ。
これはネットワークインフラの普及や通信速度の向上によって、コンテンツの形がマテリアルからデータに移行したことで、コピーできるものの価値が減り、コピーできないものの価値が上がったことに他ならない。
ビジネスの基盤やユーザーが求めるポイントが、そういうふうに変わっているのだ。
令和の時代にコンテンツがどんな形になっていくのか? ──断言できることは多くないが、一回性の体験がより重視されていき、その結果、コンテンツの形がいま以上に拡散していくことはおそらく既定路線だろう。
そこにあって、先に挙げた『FGO』は、ひとつの先例を残した事象であり、恐らく振り返ったときに、単なるヒット作以上のエポックメイクなものとして、後世の人々の目に映るのではないかと思う。続く時代は、そういうライブ性や一回性みたいなものがもっと広く受容されていく時代なのだ。
平成を越えて
もう少し未来を考えてみよう。
ここへ来て、GoogleのSTADIAに代表されるクラウド型の新しいゲームプラットフォームの話題も現実味を帯びてきた。先ほど、インターネットは同報性には向かないインフラだったという話をしたが、それもいまは昔の話。
技術的な革新──たとえばこれから普及が予定されている5Gなど──によって、大量データ&リアルタイム性の高い通信の常時接続時代が到来しようとしている。その通信環境やクラウドといったものを軸にした新しいアツいゲームがこれから生まれてくることだろう。
Googleがゲームプラットフォーム「STADIA」正式発表。YouTubeで視聴中の『アサクリ』を5秒でブラウザにて起動、スマホやテレビへ中断無しで切り替え可能
現在のSTADIAは、AAAタイトルが数秒で起動できるなどの話がされがちだが、言ってしまえば、じつはそんなところはまったく本質ではない。語るべきは、ゲームが手元のクライアントで処理されるのではなく、クラウド上で処理されることが前提になったとき、まったく新しいゲーム性の在りようが、そこで開花するはずだということだ。
いまはゲーム動画やゲーム実況も当たり前の時代。YouTubeやNetflixの隆盛により、動画はいち早く社会に溶け込んでいる。
そうした中で、すでにYouTubeとの密接な連携が示唆されているSTADIAによって、人々のゲームへの関わりかたが変わっていくのは確実だろう。
ここまでで語ってきたように、ゲームがそうした社会環境/インフラの変化と密接にリンクして浸透していくことは既定路線の話であって、そうしたときに「どういう形で新しいゲームとの関わりようが生まれるか」が、今後のゲーム産業を占う意味では重要なのだ。
いまはまだ、視聴しているストリーミング動画からゲームを購入し、シームレスに参戦するというようなレベルの話としてしか聞こえていないが、きっとそれだけではない。もっと新しい“何か”が発明されることだろう。
そもそも先行している動画サービスにしても、クラウドベースに移行することで革新を起こした。それは単に購入やレンタルの手間が楽になったということではない。
マルチデバイス&マルチスクリーンが当たり前の現代で、そこにクラウドサービスを重ねたことで、たとえばリビングのテレビで観ていた動画の続きを、そのまま通勤中の電車の中でシームレスにスマホで観るといった風に、動画というものをより人々のライフスタイルの中に溶け込ませた点が斬新だったのだ。その価値は既存の映画やテレビ番組がそうであったような“座ってみる”だけではない視聴スタイル、動画の消費ニーズそのものを、より社会に浸透せしめた点にある。
大げさな言いかたをすれば、人々のライフスタイルそのものを変容させた点が凄いのだ。
ゲームにおける革新も、やはりそれに似る。
ゲームの本当の意味での革新とは、単にビジュアルや処理速度など、スペック的な向上を指すのではない。アーケードから家庭へ、家庭から個人の所有へ、そしてネットによる繋がりへ。
これまでも社会のありようだったり、新しいライフスタイルに合致した瞬間にこそ、大ヒットが生まれてきており、今後もそれが本当の意味での革新となるのではないか。
ゲームにおいて、これから起こるであろう革新がなんなのかは判らない。それが判れば、それこそ億万長者になれるだろう。
だが昭和に生まれたコンピューターゲームが、平成で怖ろしいほどの進化を遂げ、社会のありかたに沿って、いつしか人々のコミュニティに溶け込んでいった。
令和でも、それが続くのは間違いないだろう。願わくば、ゲームが今後さらにエンターテイメント産業の主役として、もっともっと発展していってくれることを期待したいし、自分もそれに少しでも寄与できればと考えている。
……あと、じつはこれからの社会にやっぱり密接に関わるキーとなるインフラとして、AIがある。ただ、これを語り始めると、とんでもない時間や文字数を費やすことになるので、これはまた別の機会に譲っておこう。