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現代のコンピューターにおけるスタンダード「ノイマン型」を初めて実現したのは、かの天才「フォン・ノイマン」ではなく「もうひとりのノイマン」だった…!?

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第16章「コンピューター史に名を残すもう一人のノイマン」〜イギリスのコンピューター黎明

 第4章ではフォン・ノイマンの名前の変遷をたどったが、じつはコンピューターの歴史にはもう一人の「ノイマン」がいることをご存知の方はおられるだろうか。この「もう一人のノイマン」も、フォン・ノイマン同様、人生の途中で名前を変えることになる。

 ただし、フォン・ノイマンの方は、生まれた時の姓は「フォン・ノイマン」ではなかったが、アメリカに渡って姓を変え、「フォン・ノイマン」として知られるようになるのとは異なり、この「もう一人のノイマン」は、生まれた時の姓が「ノイマン」であり、姓を変えた後の名前で知られるようになる。

 また、フォン・ノイマンが主にアメリカで活躍したのとは異なり、「もう一人のノイマン」が活躍したのはイギリスである──そもそも彼はイギリス生まれだ。本章では、この知られざる「もう一人のノイマン」の人生を通じて、イギリスのコンピューター・サイエンス黎明期を眺めてみたい。

1 もう一人の「ノイマン」のルーツと生い立ち

 今回の主人公である「もう一人のノイマン」の生まれた時の名は、マクスウェル(マックス)・ノイマンという【※】。まずはノイマン家のルーツについて述べておく必要があるだろう。マックスの父ハーマン・アレクサンダー・ノイマンが生まれたのは、ポーランドのブィドゴシュチュ(Bydgoszcz)という古い都市だ。「ノイマン」という同じ姓を持つフォン・ノイマンと同様、こちらのノイマン家もユダヤ系だった。

※マックス・ニューマン(ノイマン)の生涯については、David Anderson. (2007). “Max Newman: Topologist, Codebreaker, and Pioneer of Computing.” IEEE Annals of the History of Computing, 29(03), 76-81.に従う。

 ブィドゴシュチュは歴史ある城塞都市であり、ドイツ騎士団やスウェーデンに何度も占領されるほど政治に振り回されていたが、ルヴフがオーストリアに割譲され、「レンベルク」へと改称されることになる1772年のポーランド分割(第5章第2節)で、ブィドゴシュチュはプロイセンに割譲され、「ブロンベルク(Bromberg)」と改称される。

 ハーマン・ノイマンが生まれたのは、そのプロイセン領時代の1866年のことである。その後、1871年に普仏戦争で勝利したプロイセンがドイツ帝国となるのだった(第1章第2節)。

 ブィドゴシュチュがプロイセン領、さらにはドイツ領となることで大きな影響を被ったのが、ユダヤ人である。元々ポーランドにはユダヤ人が多く住んでいた。ノイマン家もそのようなポーランド在住のユダヤ人だったらしい。

 ポーランド分割によりポーランド領の一部を手に入れたオーストリアでは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートが民族融和主義政策を進め、第一次世界大戦によってオーストリア帝国が解体するまでユダヤ人はとりわけ「オーストリア的」な帝国臣民として自由を謳歌することになるが、プロイセンでは、反オーストリア運動の一環としてドイツ化が進められており、厳格なユダヤ人差別が存在していた(第8章第3節)。

 ハーマン・ノイマンが両親や家族とともにドイツからイギリスへと帰化したのは1881年、まだハーマンは15歳の少年だった。

 さて、今回の主人公マクスウェル・ノイマンは1897年、イギリス・ロンドンで、父ハーマン・ノイマンと母サラ・パイクとの間に生まれる。ノイマンはユダヤ系のイギリス人としてロンドン郊外で育つが、大きな転機が訪れる。そのきっかけとなったのは1914年の第一次世界大戦勃発である。父ハーマンが、敵国ドイツ出身ということで抑留されてしまうのだ。

 当時ハーマンは48歳、イギリスに帰化してから33年もの年月が過ぎていた。にもかかわらずドイツ人扱いされたことに憤慨したハーマンは、抑留から解放されるや否や、家族を置いて一人ドイツへと帰国してしまう

 突然父を失ったノイマンが行ったのは、姓の変更だった。「ノイマン(Neumann)」というドイツ語風の姓から「ニューマン(Newman)」という英語風の姓へと変更するのである。これ以降、彼は「マクスウェル・ニューマン」と名乗るようになる。

1657年のブィドゴシュチュ

2 コンピューター・サイエンスの歴史の転換点となったウィーン留学

 こうしてマックス・ニューマンとなったノイマン、いやニューマンは、ケンブリッジ大学に進学する。1915年のことだった。彼は大学でも優秀な成績を収めていたが、1年後に休学する。そして第一次世界大戦終了までの3年間、寄宿学校の住み込み教師として働くのである。このまま退学してしまうと思われていたニューマンだったが、1919年、ケンブリッジに戻ってくる。そして1921年、優秀な成績で卒業するのである【※】

※ケンブリッジ大学では、優秀な成績で卒業した数学専攻の学生は「ラングラー(wrangler)」と呼ばれる。ニューマンは1921年のラングラーの一人だった。

 ケンブリッジに戻ったニューマンは生涯の知己を得ることになる。その友人の名は、ライオネル・ペンローズ。2020年にノーベル物理学賞を受賞した著名な物理学者ロジャー・ペンローズの父親である【※】。ペンローズはニューマンより若かったが、ニューマン同様、ケンブリッジ入学後に一時休学し、終戦後に復学していた。二人はそこで出会ったのだ。

※ニューマンとライオネル・ペンローズの関係については、Ivor Grattan-Guinness. (2013). “The Mentor of Alan Turing: Max Newman (1897–1984) as a Logician.” Mathematical Intelligencer, 35, 54–63.を見よ。

 ペンローズはバートランド・ラッセルのもとで記号論理学を学びたいとケンブリッジに入学したのだが、ラッセルは反戦運動によりケンブリッジ大学講師の職を辞職していた。卒業する頃、ペンローズの関心は論理学と心理学の両方にまたがっており、フロイトのいたウィーンに留学を決意する。そして、親友のニューマンに一緒にウィーンへ留学することを勧めるのである。

 裕福だったペンローズ家とは異なり、母子家庭のニューマンに財政的な余裕はあまりなかったが、当時のイギリスは戦勝国であり、敗戦国のオーストリアへの留学に関して、費用面の心配は不要だった。こうして、ニューマンはペンローズと共に、ウィーン大学へ1年間留学するのである。

 ニューマンとペンローズがウィーンに着いたのは1922年の秋。それはちょうど科学哲学者モーリッツ・シュリックがマッハやボルツマンの後任としてウィーン大学の科学哲学教授職に就いた年だった(第3章第2節)。

 ウィーンでニューマンは、クルト・ライデマイスターという数学者と出会う。ライデマイスターは、アイソタイプと呼ばれる絵文字を科学哲学者オットー・ノイラートと共に開発し、第二次世界大戦勃発後にはノイラートと共にイギリスへ亡命してノイラートの妻となるマリー・ライデマイスターの兄であり、また、1930年にはケーニヒスベルク大学の教授として、ゲーデルが不完全性定理を公表した「ケーニヒスベルクの会議」開催に尽力した数学者である(第3章第3節)。

 ニューマンとペンローズはライデマイスターから、後にウィーン学団の中心人物となるカール・メンガーやハンス・ハーンのことを知らされる。ハーンがラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』のセミナーを開始するのは1924年だが、ハーンらはそれ以前からラッセルの記号論理学について研究しており、ハーンのセミナーでもラッセルのことが度々言及されていた(第3章第4節)。

 前からラッセルの記号論理学に関心を持っていたペンローズ、そしてペンローズの影響で記号論理学に興味を持ち始めていたニューマンは、ハーンのセミナーを通じて、記号論理学を深く学ぶのである。そしてこれがニューマンの、ひいてはコンピューター・サイエンスの歴史の転換点となるのだった。

3 アラン・チューリングをチューリング・マシンへと導いたニューマンの講義

 帰国したニューマンは、ケンブリッジ大学の研究員(Fellow)に応募する。当時のイギリスに大学院という制度は存在せず、卒業後は各カレッジが募集する研究員となって研究するのが一般的だった【※】

※大学院制度はアメリカで成立したことを思い出されたい(第7章第3節)。カレッジ制の大学であるケンブリッジやオックスフォードでは、今日でも大学院制度は存在しない。

 研究員応募に当たってニューマンが提出した書類の一つは、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトが当時取り組んでいた集合論を用いた数学の基礎づけに関する論文であり(第2章第5節)、もう一つはそれを応用した科学哲学に関する論文だった。いずれもウィーン留学前のニューマンの研究からはかなり遠いものであっただけでなく、当時のイギリスには専門家がほとんどいない分野だった。

 ニューマンが提出した論文は当時の最先端のものであり、それを理解できた専門家は世界でもかなり限られていた。まずヒルベルト本人、そしてドイツやスイスのヒルベルトの教え子たち(フォン・ノイマンもスイスでヒルベルトの教え子であるワイルから学んでいる)(第4章)、ハーンをはじめとするウィーンの数学者たち(第3章)、タルスキらポーランドの論理学者たち(第5章)、そしてヴェブレンや彼の教え子チャーチをはじめとするアメリカの数学者たちだ(第11章)。ニューマンがウィーンでこの分野を学んだことは間違いなかった。

 1923年、ニューマンは無事に研究員として採用される。研究員の任期中に次々と論文を発表したニューマンは、1927年からはケンブリッジ大学の講師として数学を教え始める。

 数学者として順調なキャリアを歩んでいたニューマンは1933年にある講義を担当することになる。「数学基礎論(foundation of mathematics)」と題されたその講義は、ヒルベルトによる数学の基礎づけおよび公理化、それに必要な数理論理学、そして1931年に論文が出版されたばかりのゲーデルの不完全性定理までもカバーするという極めて野心的なものであり、当時のイギリスではニューマン以外に教えることは不可能なテーマを扱うものだった。

 ニューマンのこの講義は伝説となる。なぜなら、たった3年間しか開講されず、数えるほどだった履修生の中に、アラン・チューリングの名前があったからだ。この講義を通じてチューリングは数理論理学を学び、決定問題のことを知るのだ。チューリング・マシンが決定問題を解決するために考案されたことは、第2章でも述べた通りだ(第6節)。だから、チューリングがニューマンの講義に出ていなければ、チューリング・マシンが生まれることはなかったのである。

 ニューマンとチューリングの関係はこれだけではない。チューリングがニューマンの講義に出席していたのは1935年のことだったが、翌1936年にチューリングはニューマンに、後にチューリング・マシンについて初めて述べられた論文となる原稿を持ってくる。

 ニューマンはチューリングの原稿の重要性にすぐさま気づいたが、同時に、プリンストンのアロンゾ・チャーチが決定問題を解決したばかりであり、論文を出版する準備を進めていることを知っていた(第2章第6節)。

 チューリングが原稿の中で用いた手法がチャーチの手法とはまったく異なることを理解していたニューマンは、ロンドン数学協会に宛てて両者の違いについて説明した手紙を出してチューリングの原稿が論文として出版されるよう手筈を整える。

 同時にニューマンは、チャーチにチューリングのことを教え、チューリングがプリンストン大学の博士課程に進学できるよう推薦する。チューリングがプリンストンの大学院生となり、チャーチの指導で博士号を取得するのも、こうしたニューマンの活動の結果だったのだ。

4 ニューマンが開発した「世界初」のコンピューター

 1939年の第二次世界大戦の勃発は、ニューマンの人生を大きく変えることになる。ユダヤ系ということもあり、万一のことを考えてニューマンは家族をアメリカに疎開させるのだが、彼自身はイギリスに留まる。一説には、旧知のオズワルド・ヴェブレンを頼ってプリンストン高等研究所に滞在しようとしたのだが、ヴェブレンは愛国心に溢れる男であり、戦争協力にも熱心だった(第11章第2節)。ヴェブレンは祖国防衛のために戦争に協力するようにとニューマンの申し入れを断ったと言われている。

 戦火は拡大し、ケンブリッジの同僚も一人、また一人と戦争に協力するために大学を離れていくのを見たニューマンは、ケンブリッジを離れることを決意する。1942年のことだった。情報機関などいくつかの候補の中から彼が選んだのはブレッチリー・パーク。チューリングも働いていたことで知られる政府暗号学校(Government Code and Cypher School)だ。ニューマンもチューリングと共に暗号解読に携わることになったのだ。

 ニューマンは、チューリングが配属されていたエニグマ暗号機解読チームとは別の暗号機解読チームに配属され、多くの暗号を解読する。特筆すべきは、彼のチームでコロッサス(Colossus)という暗号解読機が開発されることだ。ニューマンはエニグマよりも高度な暗号を解読するために、高速な計算機が必要だと考えたのだ。

 1944年に完成したコロッサスは先進的な機械であり、ほぼ現代の意味でのコンピューターと呼んでよいほどデジタル・コンピューターの特徴を数多く備えていた。だが、プログラム内蔵方式ではなかったし、後発のENIACのような汎用型でもなかった。

 ニューマンは開発者にチューリングの論文を読ませ、プログラム内蔵方式の汎用型コンピューターを開発させようとしたが、ENIACを開発したモークリーやエッカートと同様、数理論理学の専門知識を持たないものにとっては理解が困難な代物だったのだ(第11章第5節)。

 コロッサスは国家機密であったため、第二次世界大戦終戦後に破壊され、設計図も廃棄される。その存在が公になったのは、1970年代になってからのことだ。だが、コロッサスの遺産はニューマンを通じて広まることになる。

 戦後、ニューマンはケンブリッジには戻らず、マンチェスター大学数学科の教授となる。着任するやいなや彼が行ったのは、コンピューターの研究室を設立することだった。1946年、ニューマンは、王立協会から3万ポンドの資金を得て、マンチェスター大学にイギリス初のコンピューター研究室「計算機械研究室(Computing Machine Laboratory)」を設立する。そしてそこにはもちろん、ニューマンのブレッチリー・パーク時代の有能な同僚の顔もあった。

 ニューマンの業績はイギリス初の研究室を設立しただけではなかった。彼の研究室では、世界初のプログラム内蔵方式のデジタル・コンピューター、マンチェスター小規模実験機(Small-Scale Experimental Machine, SSEM)、通称「マンチェスター・ベイビー(Manchester Baby)」が開発されるのである。それはEDVACやIASコンピューターの完成より早い1948年6月のことだった。つまり、チューリングやフォン・ノイマンが思い描いていたコンピューターを初めて現実のものにしたのは、ニューマンなのである

世界初とはいえ、SSEMは試作機であり、実用的なものではなかった。SSEM開発が成功したのを見てコンピューター・サイエンスの将来を確信したニューマンは、実用機の開発に取りかかる。そして1949年の秋、マンチェスター・マークⅠ(Manchester Mark I)が完成するのである。

 残念ながら、マンチェスター・マークⅠの完成より一歩早く、1949年の5月にケンブリッジ大学がEDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)を完成させており、世界初の実用的なプログラム内蔵方式のデジタル・コンピューターの座は、EDSACに譲ることになる。

 1948年9月、ニューマンはチューリングをマンチェスターに呼び寄せることに成功する。計算機械研究室の室長代理となったチューリングは、マンチェスター・マークⅠの開発にはそれほど関わらなかったが、完成後、マンチェスター・マークⅠを用いて様々な研究を行う。

 有名なチューリング・テストが初めて述べられた論文「計算する機械と知性(Computing Machinery and Intelligence)」が出版されたのも、マンチェスター時代だ。この論文は、人工知能の可能性について検討した最初の論文だとされている──当時はまだ「人工知能」という言葉も存在していなかったのだが(第13章第1節)。チューリングは彼の悲劇的な死までマンチェスターで過ごすことになる。

 だが、この頃、ニューマンのコンピューター・サイエンスとの関わりは終わろうとしていた。冷戦下のイギリス政府は、マンチェスターのコンピューターを核兵器の開発などの軍事目的で利用しようとし始めたのだ。第二次世界大戦中に暗号解読に従事していたものの、決して軍事協力を好んでいなかったニューマンは、計算機械研究室の室長を退き、数学科の教授職に専念する。1951年のことだった。

 チューリングは1954年に死去する。彼の死は、ニューマンのコンピューター・サイエンスとの関わりの終わりを告げるものだった。じっさい、ケンブリッジでの出会いからブレッチリー・パークを経て、マンチェスターに至るまで、チューリングの近くには常にニューマンの姿があった。チューリング亡き後のコンピューターの世界は、ニューマンにとって興味を惹かれるものではなかったのかもしれない。

 結局ニューマンは、89歳で死去する1984年に至るまで、コンピューター・サイエンスの世界に戻ることは一度もなかった。

 フォン・ノイマンや教え子のチューリングと比べて、「もう一人のノイマン」、マクスウェル・ニューマンの名前は、残念ながらあまり知られていない。その理由の一つは、フォン・ノイマンやチューリングのように大きな影響を与えた論文を公表しなかったことがある。ニューマンは彼ら二人のようにコンピューターの理論面で大きな貢献をしたわけではなかったし、ENIAC開発者のモークリーとエッカートのような技術面で貢献したわけでもなかった。

 だが、EDVACやIASコンピューターより一足早く、イギリスのマンチェスターでプログラム内蔵方式のコンピューターが開発されたのが、ニューマンの功績だったことは疑いない。

 チューリング自身、ロンドンのイギリス国立物理学研究所(National Physical Laboratory)でプログラム内蔵方式のコンピューターの開発に取り組んだものの、完成には至らなかった。

 まだ存在しないプログラム内蔵方式のコンピューターについて熟知しているだけでなく、実際に開発できるだけの能力を持った技術者を招き、数理論理学の素養を持たない彼らにプログラム内蔵方式のコンピューターがいかなるものかを説明できたという点では、ニューマンは、チューリングよりもフォン・ノイマンよりも先んじていたのだ。

 ところで、我々がニューマンと出会うのは今回が初めてではない。序章で取り上げた、ゲーデル、フォン・ノイマン、そしてタルスキの3名が顔を揃えた1946年にプリンストンで開催された会議の写真、じつはその最前列にニューマンの顔がある。タルスキの前の列で座っているのがニューマンだ(「The Problems of Mathematics(数学の諸問題)」の集合写真参照)。

 知られざる「もう一人のノイマン」マクスウェル・ニューマンは、本書の冒頭からひっそりと登場していたのである。まさに、知られざる「もう一人のノイマン」として。

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