いま読まれている記事

現代のコンピューターにおけるスタンダード「ノイマン型」を初めて実現したのは、かの天才「フォン・ノイマン」ではなく「もうひとりのノイマン」だった…!?

article-thumbnail-220914a

1

2

 フォン・ノイマンという天才の名前に聞き覚えは無いだろうか。数学、物理学、気象学、経済学など恐ろしいほど幅広い分野にわたって活躍した、間違いなく歴史に残る偉人のひとりである。

 そのおびただしい功績の中でも特に記憶に残りやすいのが、彼の名前がそのまま名づけられている「ノイマン型コンピューター」という構造を生み出したことだろう。現在のコンピューターの大半が、彼が1945年に執筆した報告書の中で提示したアーキテクチャをベースとしている。

 こういったことから「フォン・ノイマンは現代コンピューターの父だ!」と短絡的に受け止めてしまいがちだが、現実はそれほど単純ではないようだ。なにしろ、フォン・ノイマンが自ら開発した文字通りの「ノイマン型」コンピューターである「IASコンピューター」は、いかなる点でも世界初のコンピューターなどではないという。

 では、フォン・ノイマンのコンピューター史における功績は過大評価であり、彼の生み出した「IAS」は歴史の中で重要な位置を占めるものではないのだろうか? そういった疑問に答えてくれるのが、2022年8月5日(金)に発売された書籍『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』である。

『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』
(画像はPLANETS公式ストアより)

 本書はフォン・ノイマンをはじめ、ゲーデルタルスキといった現代のコンピューターサイエンスの礎を築いた偉人たちを中心に、アメリカで開花した情報技術と分析哲学のルーツをたどる書籍である。

 一見すると接点がないように見える「コンピューター・サイエンス」「分析哲学」というふたつの学問をつなぎ、その土壌となった大学制度や研究機関の成り立ち、文化風土も視野に入れながら解説していく内容となっている。

 今回、著者である小山虎氏から特別に許可をいただき、本書から「ノイマン型コンピューター」の誕生にいたるまでの歴史を解説した第12章、そしてフォン・ノイマンの思い描いたプログラム内蔵方式のデジタルコンピューターを初めて実現した「もうひとりのノイマン」にフォーカスした第16章を抜粋し、まるごと掲載させていただけることになった。

 また、PLANETSの公式オンラインストアでは、小山虎氏が直々に本書のポイントを解説するオンライン講義「100分de(本書のポイントがわかることで、ぐっと読みやすくなる)『知られざるコンピューターの思想史』」の特典動画付きで販売中。以下の抜粋部分で興味を引かれた方は、ぜひこちらを購入されてみてはいかがだろうか(編集部)。


アナログからデジタルへ 第12章〜「ノイマン型」コンピューターの誕生

 前章の最後で述べたように、フォン・ノイマンは、ENIACが開発されたアバディーン性能試験場の弾道研究所の顧問を務めていたが、ENIACの開発に最初から関わっていたわけではなかった。フォン・ノイマンがコンピューターの開発に関わるのには、複雑な経緯と様々な偶然があったからである。本章では、その経緯をたどってみたいと思う。

 ところで、ENIACは世界初のコンピューターだとされることもあるが、厳密には「世界初の汎用電子計算機(コンピューター)」の方が正確である。同じように、いわゆる「ノイマン型コンピューター」についても、それが何を指すのかは、じつのところあまり明らかではない。

 この名前は、フォン・ノイマンによるEDVACの報告書で提示されたことに由来するが、その内容は、フォン・ノイマン個人というよりは、ENIACおよびEDVAC開発チームによるところが大きい。だから、その意味では「ノイマン型」という名称はあまり適切ではない。また、ノイマン型コンピューターの特徴とされるプログラム内蔵方式についても、現在では、それを最初に考案したのはフォン・ノイマンではないと考えられている。

 ということは、本当はフォン・ノイマンは、世間で言われているようなコンピューターの歴史に輝く重要人物などではなかった、ということなのだろうか。必ずしもそうとは言えない。もし「ノイマン型コンピューター」を、フォン・ノイマン自身が構想していたようなコンピューターだと考えるのであれば、それは確かに存在するだけでなく、コンピューターの歴史において極めて重要な地位を占めるようなものなのだ。

 そのような「ノイマン型コンピューター」とは何か。それを説明するために、まずはどうして弾道研究所でENIACが開発されるに至ったのかの話から始めよう。そこで重要な役割を果たすのは、「アナログ」のコンピューターである。

1 アメリカ陸軍とペンシルベニア大学を結びつけた「アナログ」コンピューター

 これも前章で触れたことだが、アバディーン性能試験場は第一次世界大戦中に設立されたものである。当然ながら、終戦後はその中心的な役目が失われたため、予算は大きく削減されていた。

 試験場の弾道学部門は、戦争中にヴェブレンが戦後も継続的に研究することを推薦する報告書を残していたこともあり、規模は小さくなりながらも削減されることなく残されていたのだが、1935年に他の部門と合併し、一つの研究所となる。それが弾道研究所(Ballistic Research Laboratory)だ【※】

※弾道研究所の歴史については、Gordon Barber. (1956). Ballisticians in War and Peace: A History of the United States Army Ballistic Research Laboratories. Volume 1. 1914-1956, Aberdeen Proving Ground.に従う。

 研究所になったとはいえ、予算やスタッフが増員されたわけでもなく、相変わらず細々と研究が続けられていたのだが、数年後に転機がやってくる。第二次世界大戦の勃発である。

 1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ちょうどそれは、タルスキがアメリカ・ハーバード大学で開催される科学哲学の国際会議に出席するために母国ポーランドから旅立ってまもなくのことだった。開戦により生き別れになった家族とタルスキが再会するには、それから7年もの歳月が必要だった(第5章第5節)。

 アメリカはすぐには参戦せず、様子をうかがっていたものの、実際にヨーロッパで戦争が始まると、アメリカ国内への影響は少なからずあった。特に弾道研究所は、戦争勃発の恩恵を大いに得る。1940年から1945年にかけて、弾道研究所の予算とスタッフ数は10倍以上に膨れ上がるのだ。ENIACの開発も、この戦争による弾道研究所の規模拡大がもたらしたものなのである。

 ところで、以前にも触れたが、実際にENIACの開発を担当したのはペンシルベニア大学だ(第7章)。つまりENIACは軍産複合体の産物である。それが可能になったのは、ペンシルベニア大学と弾道研究所には、ENIACの開発以前から結びつきがあったからだ。

 コンピューターの誕生以前、弾道の計算には機械式のアナログ計算機が用いられており、弾道研究所では「微分解析機(Differential Analyzer)」というものが使用されていた【※】

※微分解析機の詳細については、http://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0064.htmlを見られたい。

 ペンシルベニア大学はペンシルベニア州の州都フィラデルフィアにあるのだが、フィラデルフィアは研究所のあるメリーランド州アバディーンから車で行ける距離であり、より高性能な微分解析機を所有していた。

 そこで、陸軍が資金を出し、ペンシルベニア大学の電気工学部──といっても日本の大学の「学部」とは違い、ロー・スクールやメディカル・スクールと同様、専門家を養成する大学院であり(第7章第3節)、正式名称も「ムーア電気工学スクール(Moore School of Electrical Engineering)」というのだが──が互いの所有している微分解析機の性能を向上させるという共同プロジェクトが行われていたのだ。

 このような大学と軍の共同プロジェクトは、当時は珍しいものではなかった。むしろ、推奨されていたと言ってもいい。なぜなら、第一次世界大戦中に米軍から資金援助を受けることで大きくなった大学がいくつもあったからだ。その代表例が、マサチューセッツ工科大学(MIT)である。1861年に設立されたMITは、当初はカレッジですらない専門学校のようなものであり、経営も安定せず、近くにあるハーバード大学の工学部に何度も吸収されそうになるほどの弱小大学だった。

 それが、第一次世界大戦中に海軍の航空機パイロット訓練プログラムを請け負うことで一変する。軍や関連産業に協力することで教育研究を充実させ、経営の安定化や規模拡大を実現する。これが第一次世界大戦後のアメリカの大学では、主流のビジネスモデルだったのだ【※】

※米軍からの資金援助によるMITの発展については、第14章を見られたい。

 ペンシルベニア大学は弾道研究所以外にも様々なプロジェクトを受注していたが、1942年、かつてないほどに性能を向上させるプロジェクトとして、デジタルの計算機(コンピューター)の開発がペンシルベニア大学から弾道研究所に提案される。これがENIACとなるのである。

 ENIACの開発を提案した中心人物は、ジョン・モークリーという若い物理学者だった。モークリーの専門は天体物理学であり、天体の軌道計算と弾道の計算の両方で微分解析機を駆使していた経験から、より高性能な計算機を求めており、大学院生のジョン・プレスパー・エッカートと協力し、ENIACを構想したのだ。モークリーとエッカートの二人は、ENIACの開発者として、コンピューター・サイエンスに名を刻むことになる【※】

※モークリーとエッカートの出会いについては、ミネソタ大学チャールズ・バベッジ・研究所が実施したエッカートへのインタビュー(John Presper Eckert. (1977). Oral history interview with J. Presper Eckert. Charles Babbage Institute.)に従う。

 ところで、ENIAC開発を提案した当時、モークリーはまだペンシルベニア大学に来たばかりだった。彼がペンシルベニア大学に来るきっかけも戦争だった。

微分解析機

2 1942年、フィラデルフィア~戦争のために分野を越えて集まった4人の開発者たち

 ヨーロッパでの戦争勃発が迫りつつあった1930年代後半、戦争が始まれば技術者不足になるという懸念から、一般市民向けの工学トレーニングを実施するという構想がアメリカ政府の中で生まれていた。

 そして実際に1939年にヨーロッパで戦争が始まったこともあり、1940年の冬、時の大統領フランクリン・ルーズベルトの命により、アメリカ教育局(Office of Education)の資金で、「EDT(Engineering Defense Training: 工学の防衛訓練)」と呼ばれる短期集中のトレーニング・コースが全米の144の大学で実施されることになる。

 EDTの成功を見たアメリカ政府は予算を拡充することを決定する。加えて、1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃が起き、アメリカは第二次世界大戦に正式に参戦することになったため、EDTの大幅な拡充が望まれるようになった。

 最終的には、「ESMWT(Engineering, Science, and Management War Training:工学と科学と運営の戦争訓練)」というコースが全米215大学で実施されるようになるのである。これはアメリカで実施された教育プログラムとして最大級のものだ【※】。そして、実施大学の中には、弾道研究所を通じて陸軍と深いつながりを持っていたペンシルベニア大学も当然含まれていた。

※EDTおよびESMWTについては、英語版Wikipediaの項目「Engineering, Science, and Management War Training」に従う。

 モークリーは、1932年にジョンズ・ホプキンス大学で物理学の博士号を取得した後、ペンシルベニア州の小さな大学で教えていたのだが、近い将来に起きるであろう戦争に貢献できるようにと、1941年の夏、ペンシルベニア大学ムーア・スクールで開講されていたESMWTを受講する。その講師の一人が、のちに相棒となるエッカートである。

 当時エッカートはまだ大学院生だったが、大学院生に授業を担当させるのはアメリカでは当時からすでに一般的だった(もっとも、待遇は日本の非常勤講師と変わらない場合もあり、労働問題となることも珍しくないのだが)。ESMWTを通じてエッカートと親しくなったモークリーは、それまで一人で構想していた高性能のデジタル計算機が実現可能であることを、エッカートとの議論を通じて確信したのだ。そしてペンシルベニア大学からの誘いに応じて、異動してくるのである。

 ところで、ムーア・スクールのESMWTには一人の哲学者も参加していた。後にENIAC開発に参加する彼の名は、アーサー・バークスという(第6章第1節)【※】

※バークスの経歴およびENIAC開発への参加経緯については、ミネソタ大学チャールズ・バベッジ・研究所が実施したバークス夫妻へのインタビュー(Arthur W. Burks and Alice R. Burks. (1980). Oral history interview with Alice R. Burks and Arthur W. Burks. Charles Babbage Institute.)に従う。バークス夫人もまたENIAC開発関係者であり、このインタビューによれば、二人はENIAC開発で知り合ったという。

 バークスは元々数学を専攻していたが、ミシガン大学の大学院入学時に哲学に専攻を変える。そして1941年に哲学の博士号を取得するのだが、戦争の足音が明らかに近づきつつあった当時、哲学や数学で職を得ることはとても難しかった。職探しの日々を続けていたバークスは、たまたまペンシルベニア大学で開講されているESMWTのことを知り、モークリー同様、開戦後に貢献できるようにとESMWTを受講するのだ。

 講師のエッカート、そして同じ受講生のモークリーと親しくなったバークスも、コース修了後にムーア・スクールに職を得ることになる。おそらく本人にとって意外なことに、哲学ではなく、電気工学の講師として。

 第二次世界大戦は、もう一人の関係者をペンシルベニアに呼び寄せていた。彼の名は、ハーマン・ゴールドスタインという【※】

※ゴールドスタインの経歴と、ENIAC、EDVACおよびIASコンピューター開発との関わりについては、ミネソタ大学チャールズ・バベッジ・研究所が実施したゴールドスタインへのインタビュー(Herman Heine Goldstine. (1980). Oral history interview with Herman H. Goldstine. Charles Babbage Institute.)、およびThomas J. Bergin (ed.). (2000). 50 Years of Army Computing From ENIAC to MSRC: A Record of a Symposium and Celebration November 13 and 14, 1996, Aberdeen Proving Ground.に従う。

 1936年にシカゴ大学で数学の博士号を取得したゴールドスタインは──これはつまり、ヴェブレンの後輩にあたるということだが──ミシガン大学で働いていたが、第二次世界大戦勃発を受け、大学の職を辞して陸軍に志願する。1942年7月のことだ。陸軍少尉となったゴールドスタインは、専門知識を活かすために、アバディーン性能試験場に配属される。

 ゴールドスタインのアバディーン性能試験場配属を決めたのは、じつはヴェブレンだ。ヴェブレンもまた、アメリカの参戦に伴い、かつて自分がいたアバディーン性能試験場に科学顧問として再び関わるようになっていたのだ。

 ゴールドスタインは博士号取得後の数年間、シカゴ大学のギルバート・ブリスという数学者のアシスタントをしていたのだが、ブリスはヴェブレンの盟友だった。ブリスとヴェブレンはどちらもシカゴ大学で博士号を取得しており、若き日にはプリンストンで同僚として働いていた。

 その後、ブリスは母校のシカゴに戻るのだが、第一次世界大戦では、ヴェブレンとともにアバディーン性能試験場で兵器の開発に携わる。その経験をもとに、戦後ブリスは弾道学の専門家となっていたのである。

 ゴールドスタインもまた、ブリスから直接弾道学を学んだ専門家だった。ゴールドスタインから陸軍入隊の知らせを受け取ったブリスは、彼をアバディーン性能試験場に配属することをヴェブレンに推薦する。こうしてゴールドスタインは、アバディーン性能試験場の弾道研究所に配属されることになるのである。

ペンシルバニア大学ムーア電気工学スクール

 アバディーン性能試験場にやってきたゴールドスタインが命じられたのは、弾道研究所の微分解析機の性能向上──もちろん、それまで同様、ムーア・スクールとの共同プロジェクトとして──だった。こうしてゴールドスタインは、モークリー、エッカート、そしてバークスに出会うのである。

 ENIACの開発には様々な人物が関わっているが、中心となるのは、もちろん物理学者モークリーと電気工学者エッカートの二人である。だが、同時にバークスという哲学者が開発の最初期から関わっており、ゴールドスタインという数学者が軍人として関与していたことは、その後のコンピューター・サイエンスの歴史にとって大きな意味を持つことになる。

 1943年、アメリカ陸軍とペンシルベニア大学は正式に契約を交わし、ENIAC開発が極秘裏に始まる。ただ、完成は終戦後の1946年にまで持ち越されることになった。

3 フォン・ノイマンとコンピューターとの出会い

 ヴェブレンは、ゴールドスタイン以外にも、数多くの科学者を弾道研究所に連れてきた。第一次世界大戦後、ヴェブレンは全米研究評議会の委員やアメリカ数学会の会長を歴任しており、関連分野の造詣も深まっていたのだ。

 特に、軌道計算ということで弾道学と共通点の多い天体物理学からは多くの人材が集められた。銀河の赤方偏移、すなわち宇宙の膨張の証拠を発見し、ハッブル望遠鏡に名を残す天体物理学者エドウィン・ハッブルもまた、ヴェブレンの推薦により、第二次世界大戦中は弾道研究所で勤務していた天体物理学者の一人だ【※】

※英語版 Wikipediaの項目「Edwin Hubble」による。

 だが、フォン・ノイマンに関しては事情が異なる。そもそもフォン・ノイマンを弾道研究所に連れてきたのはヴェブレンではなかった(第11章第5節)。ヴェブレンがアバディーン性能試験場に科学顧問として戻ってくる以前から、弾道研究所には科学諮問委員会(Scientific Advisory Committee)が設立されており、フォン・ノイマンも、彼をアバディーンに連れてきた母国ハンガリー時代からの友人フォン・カルマンも、1940年の第1回委員会からのメンバーだったのだ。

 第二次世界大戦中、フォン・ノイマンは軍部との関わりを深めていた。弾道研究所だけでなく、例えば科学研究開発局の顧問を務めていた。「科学研究開発局」という名称ではあるが、その前身は全米防衛研究委員会(National Defense Research Committee)といい、その実態は、戦争に関するさまざまな科学研究プロジェクトを実施していた部門だ【※】

※科学研究開発局およびその全身である全米防衛研究委員会については、第14章第2節を見よ。

 マンハッタン・プロジェクトも科学研究開発局で実施されていたプロジェクトの一つであり、フォン・ノイマンがマンハッタン・プロジェクトに関わることになったのも、科学研究開発局にいたことが主な理由である。

 ただ、彼の関心の中心は流体力学だった。流体力学はまさに高性能な計算機を必要とするが、だからといって、それを開発しようという考えは、さすがのフォン・ノイマンも持っていなかったようだ。むしろ、ENIACとフォン・ノイマンの出会いは偶然の産物だったらしい。

 ゴールドスタインが語るところによれば、1944年8月のある日、アバディーン駅でゴールドスタインはフォン・ノイマンとばったり出会う。以前からフォン・ノイマンと知り合いだったゴールドスタインは、これを絶好の機会と捉え、自分が携わっているプロジェクトとして、ENIAC開発について詳しく語って聞かせるのである。

 フォン・ノイマンが興味を惹かれたのを見たゴールドスタインは、数日後、彼をENIACが開発されているムーア・スクールに連れていき、開発途中の実物を見せる。これがフォン・ノイマンとコンピューターの出会いとなるのである。

 ENIACの開発に大きな感銘を受けたフォン・ノイマンは、ムーア・スクールに通い、弾道研究所の科学諮問委員会メンバーとして、開発会議にも参加するようになる。フォン・ノイマンが参加した記録が残っている最初の会議は、1944年8月29日に開催されたものだ。この会議は後にEDVACとなるENIAC後継機の開発に関する会議だった。

 1944年10月、ENIAC完成前にアメリカ陸軍は後継機開発予算の許可を出す。こうしてフォン・ノイマンは正式にコンピューター・サイエンスに取り組み始めるのである。その成果が結実したのが1945年6月、有名な「EDVACに関する報告書の第一草稿(First Draft of a Report on the EDVAC)」である。現在のコンピューターはこの報告書でフォン・ノイマンが提示したアーキテクチャに従っており、ゆえにノイマン型コンピューターと呼ばれることは、すでに触れた通りだ(第10章第5節)。

 このフォン・ノイマンによる報告書は、もともと公開予定ではなかったのだが(だから「第一草稿」なのだ)、ゴールドスタインによって広められる。これにより、フォン・ノイマンの名声がさらに高まるだけでなく、高性能な計算機の開発に取り組んでいた研究者たちの目をENIACに向けさせることになった。

 ただし、代償もあった。ENIAC開発の中心人物であるモークリーとエッカートは、自分たちが開発していたコンピューターが、後から参加してきたフォン・ノイマンの名前で広まっていくことに不満を覚えたのだ。結果的に、彼ら二人はEDVACの完成前に開発チームから離れることになる。

 陸軍との正式な契約は第二次世界大戦終了後の1946年に持ち越され、1949年に一応完成するが、実際に稼働し始めるのはさらに2年後の1951年だった。そしてその頃にはもう、EDVACは時代遅れになりつつあった。プリンストン高等研究所で、フォン・ノイマン指揮のもと、新たなコンピューターが開発されていたのだ。

第1回団同研究所化学諮問委員会参加者写真

4 ノイマン型アーキテクチャを広めたプリンストン高等研究所のコンピューター

 フォン・ノイマンは、弾道研究所の科学諮問委員会のメンバーとして、ペンシルベニア大学ムーア・スクールで行われていたEDVAC開発に参加していた。だが、EDVACもENIAC同様、アメリカ陸軍の資金で開発されており、完成の暁には弾道研究所が所有することになっていた。これはつまり、用途は弾道研究所の研究に限定されるということだ。

 コンピューターに惚れ込んでいたフォン・ノイマンは、この点について強い不満を持っていた。もっと自由にコンピューターを使えないものか。そう思ったフォン・ノイマンは、自身が所属するプリンストン高等研究所でコンピューターを開発することに乗り出したのだ。

 それは第二次世界大戦の終わりも見えていた1945年の夏のことだった。後にそのコンピューターは、プリンストン高等研究所(Institute for Advanced Study)の頭文字をとって、「IASコンピューター」と呼ばれることになる【※】

※IASコンピューター開発プロジェクトについては、プリンストン高等研究所公式ウェブサイト内の「Electric Computer Project」(https://www.ias.edu/electronic-computer-project)を見られたい。

 プリンストン高等研究所でコンピューターを開発することには、障害も少なくなかった。そもそもプリンストン高等研究所は、分野を数学や理論物理学に限定することで、限られた予算で世界をリードする研究機関を実現する、というポリシーのもと設立されたものだ(第11章第4節)。コンピューター開発のような、大規模な予算をかけて実施される実験的プロジェクトは研究所設立以来初の試みであり、教授陣の中に反対の声もあった。

 だが、フォン・ノイマンには大きな後ろ盾がいた。ヴェブレンである。弾道研究所の科学顧問としてENIACやEDVACの開発のことを知っていたヴェブレンは、フォン・ノイマンのプロジェクトを全面的にバックアップしたのだ。ヴェブレンの支持により、フォン・ノイマンは誰の目も気にすることなく、コンピューターの開発プロジェクトを進めることができたのだ。

 次の障害は予算だ。当初フォン・ノイマンは彼を何度も支えてくれたロックフェラー財団に打診するが、デジタル・コンピューターに懐疑的だった財団は、電気式の微分解析機の方が性能面で優っていると考え、フォン・ノイマンの依頼を拒絶する。結局IASコンピューター開発プロジェクトは、ENIACやEDVACと同様、まずはアメリカ陸軍からの資金援助で開始されることになる。そして、1945年10月にプリンストン高等研究所の正式なプロジェクトとして認可されるのである。

 IASコンピューター開発プロジェクトには、ENIACとEDVACの開発に参加していたゴールドスタインとバークスも参加する。それが可能になったのは、終戦のためである。終戦後、ゴールドスタインは陸軍を除隊しており、次の職を探していた。バークスもまた、ペンシルベニア大学を離れることを考えていた。バークスの身分はずっと任期付きの講師のままであり、EDVACの開発が終われば、契約が更新されるかどうか定かではなかったのだ。

 この点については、モークリーとエッカートも同じだった。彼らはENIAC開発という歴史の残る大仕事をやってのけたにもかかわらず、ペンシルベニア大学は彼らをムーア・スクールの教授に昇進させようとはしなかった。

 大学本部からすれば、ENIACをはじめとするコンピューターの開発は、あくまで戦争による時限付きプロジェクトであり、そのためのスタッフはみな、一時的に雇用しているに過ぎなかったのだろう。それを知ったモークリーとエッカートは、1946年3月にペンシルベニア大学を離れ、彼らの会社を立ち上げる。

 バークスも、モークリー、エッカートと同時期にペンシルベニア大学を離れる。彼ら二人とは異なり、バークスはフォン・ノイマンの誘いに応じてプリンストン高等研究所に移る。そしてゲーデルの隣の部屋で、フォン・ノイマン、ゴールドスタインと共にIASコンピューターの最初の報告書「電子計算機器の論理設計に関する予備的検討(Preliminary Discussion of the Logical Design of an Electronic Computing Instrument)」を書くことになるのである。

 さて、ENIACやEDVACと比べると、コンピューターの歴史でIASコンピューターの名前が言及されることは少ない。しかし、IASコンピューターにはきわめて興味深い特徴がある。それは、同じアーキテクチャを採用した「同型機」の登場である。

 イリノイ大学の「ORDVAC」と「ILLIAC」、マンハッタン・プロジェクトが行われていたロス・アラモス研究所とアルゴンヌ国立研究所の「MANIAC」と「AVIDAC」をはじめ、合計10数台の同型機が建造されたのだ【※】。その中にはIASコンピューターよりも早く完成したものもあったぐらいだ。ランド研究所の「JOHNIAC」(第10章第5節)もまた、こうしたIASコンピューター同型機の一つだった。

※IASコンピューター同型機の詳細については、John Deane. (2003). The IAS Computer Family Scrapbook, Australian Computer Museum Society.を見よ。

 当時はまだ、互換性という発想がなかったため、同型機であっても性能などで異なる部分も多く、プログラムの互換性はなかったものの、一部はIASコンピューターの文字通りのコピーであり、互換性があったと言われている。JOHNIACもその一つだ。つまり、現代では常識となっている「互換機」の走りだったのだ。

 これらIASコンピューター同型機の名称はENIACやEDVACを彷彿とさせるが、これらは決してENIACやEDVACの同型機とは言えない。なぜなら、どちらも特許が取得されていたためだ。開発に関する技術的詳細についてもまた、特許取得のためであったり、軍事機密扱いになっていたりしたため、非公開だった。

 IASコンピューター開発の指揮を取るフォン・ノイマンは、それをよしとしていなかった。IASコンピューターはパブリック・ドメインとして開発され、バークスらの書いた報告書「電子計算機器の論理設計に関する予備的検討」も自由に配布することが許されていた。1951年には遠く離れた日本の東京大学に寄贈されているぐらいだ【※】

【※】渡辺勝「研究室紹介:渡辺研究室」、『生産研究』、第37巻第5号、200頁、1985年による。

 加えて、フォン・ノイマン自身が、IAS同型機の建造に積極的だった。フォン・ノイマンはIASコンピューターの開発資金獲得に奔走し、最終的にはアメリカ陸軍だけでなく、海軍、空軍、そして自身も委員の一人だった原子力エネルギー委員会からも獲得するのだが、その際に彼が提案したのはまさに、IASコンピューターの開発で得られた設計図をもとに、同型機を他の政府機関にも設置することだった。

 マンハッタン・プロジェクトが行われていたロス・アラモス研究所とアルゴンヌ国立研究所でIASコンピューターの同型機が建造されたのも、原子力エネルギー委員会を通じてIASコンピューターのことを知っていたからなのだ【※】

※Charles Nelson Yood. (2005). Argonne National Laboratory and the Emergence of Computer and Computational Science, 1946-1992, Ph.D. Dissertation, Department of History, Pennsylvania State University.を見よ。

フォン・ノイマンとIASコンピューター

5 どうしてIASコンピューターが生まれたのか~フォン・ノイマンとエッカートの思想的すれ違い

 フォン・ノイマンはどうしてIASコンピューターの設計図をパブリック・ドメインにしたのか。これには、彼のENIAC開発チームでの経験が影響している。モークリーとエッカートは、ENIAC開発に関するあらゆる技術的詳細を特許として取得しようとしていた。これは、特に当時のアメリカの工学では一般的であり、その特許をもとに起業し、新たな産業を生み出すことは、アメリカの活力を生み出す伝統ですらあった。

 しかしこれは、アメリカに帰化したとはいえ、オーストリアで生まれ、ドイツの知的風土で育ったフォン・ノイマンには理解しがたいものだった。大学とは個人や企業を利するものではなく、教育と研究を通じて国力増強を図るためのものだ。これが、オーストリアやドイツ(プロイセン)をはじめとする、かつての神聖ローマ帝国諸邦の大学観だった(第1章第4節)。

 しかし、アメリカの大学観はこれとは異なる。イギリスのカレッジ制大学をモデルとする学部と、ドイツの大学をモデルとする大学院で教育と研究を役割分担するものだった(第7章第3節)。これは、国力増強という発想がなかったがゆえに生まれたものなのだ。

 さらに、アメリカの大学には、オーストリアやドイツの大学とは大きく異なる点がもう一つある。私立大学の存在である。

 国家から支給された予算でほとんどすべてを賄うオーストリアやドイツの大学とは違い、アメリカには私立大学が数多くあった。アメリカ最古の大学であるハーバードからしてそうだ。ペンシルベニア大学も私立大学である。こうした私立大学にとっては、どのように経営を安定させるか、あるいは規模を拡大させるかが大きな問題だった。

 だからこそペンシルベニア大学は、政府から資金を得たりコネクションを作ることを目的に、弾道研究所と共同プロジェクトを実施し、モークリーやバークスが受講してENIAC開発のきっかけを作ったESMWTを開講していたのだ。

 だが、フォン・ノイマンにしてみれば、戦争という国家的事態に大学が協力するのは当然のことであり、それを自らの利益に結びつけようとするモークリーとエッカート、そしてペンシルベニア大学の姿勢は、大学や大学人にとって、あるまじきことだと映ったであろうことは想像にかたくない。

 エッカートはこれを、フォン・ノイマンが、自身がコンサルタントを務めていたIBMを利するためだと信じていた──IBMもまた、IAS同型機を開発したからだ。IBMが開発したIAS同型機はIBM 701と命名され、エッカートとモークリーが売り出していた初の商用コンピューターUNIVACと競合することになる。

 しかし、単にIBMに利益を上げさせることだけが目的であったのなら、パブリック・ドメインにまでする必要はない。また、フォン・ノイマンがIBMだけでなく、全米のあちこちにIAS同型機を建造するよう働きかけていたこととも符合しない。

 むしろフォン・ノイマンとエッカートの間には、「大学とは何のための組織なのか」「大学は何を目的に研究すべきなのか」といった思想的な面で大きな相違があったと考える方が適切ではないだろうか。

 もう一点、フォン・ノイマンとエッカートの間には大きな違いがあった。エッカートは、EDVAC開発に関して、フォン・ノイマンの貢献はほとんどなかったと主張している。ENIACとEDVACの違いとされるプログラム内蔵方式に関しても、フォン・ノイマンが関わる以前にすでに考案していたと主張する。

 しかし、どうしてフォン・ノイマンにとって、プログラムがメモリに置かれて実行されるという点が重要だったのだろうか。それは、チューリング・マシンを実現したことになるからである。

 フォン・ノイマンは、チューリングのことをよく知っていた(第11章第5節)。かつて自分やゲーデルが取り組んでいた数理論理学の「ヒルベルトのプログラム」。その延長線上にある「決定問題」の答えを出すために、天才チューリングが構想したチューリング・マシン(第2章第6節)。このような純粋に数学的な理念上の存在だったはずのチューリング・マシンが、現実のものとなろうとしているのだ。

 このことに気づいたとき、フォン・ノイマンはどれほどの興奮を覚えたことだろうか。だから彼がプログラム内蔵方式を重視したのは、エッカートの考えるように、開発上の問題点が解消できることやコンピューターの設計として優れているからではないのである(もちろんそのことも承知してはいただろうが)。

 エッカートはチューリングのことを知らなかった。仮に知っていたとしても、チューリングの論文を理解することは極めて困難だっただろう。なぜなら、チューリング・マシンが最初に提示された論文は、数理論理学に関する専門的な論文だ。記号論理学や数学基礎論の知識なしには、チューリング・マシンというものがどのようなもので、それに何ができるのかを把握するのは不可能だと言っても過言ではないほどだ。

 ENIAC開発チームからIASコンピューター開発チームに移ってきた二人、バークスとゴールドスタインは、プログラム内蔵方式がチューリング・マシンの実現にほかならないことを理解していた。なぜなら、二人とも数理論理学の素養があり、チューリングの論文を読んでいたからだ。じっさい、彼ら3名で書いた例の報告書「電子計算機器の論理設計に関する予備的検討」はチューリングの論文を引用している。タイトルに「論理設計」とあるのも、数理論理学的観点からの検討だからだ。

 つまり、IASコンピューターは、ENIACやEDVACとは異なり、チューリング・マシンの実現であることを知っていたメンバーが中心となって開発されていたのである。このことを踏まえれば、「ノイマン型コンピューター」の真髄は、IASコンピューターの設計図に込められており、IASコンピューターの同型機とともに広まっていったと考えることもできるだろう。

 IASコンピューターはENIACのような当時の他のコンピューターと異なり、それほど熱心に使われはしなかった。結局のところIASコンピューターは実験機であり、具体的な用途が定められていたわけではなかったからだ。そしてフォン・ノイマンが死去した後、プリンストン高等研究所の中にプロジェクトを引き継ぐ者も現れなかった。

 こうしてIASコンピューター開発プロジェクトは、ひっそりと幕を閉じるのである。だが、全米各地に建造されたIAS同型機は、10年以上も稼働したものがあったぐらいであり、コンピューターの価値を全米、ひいては世界中に広めることになる。

 IAS同型機の中でもひときわ目立つのは、ランド研究所のJOHNIACだ。世界初のプログラミング言語IPL(Information Processing Language)は、JOHNIACで動作するものだったのだ【※】

※IPLを開発したのはアレン・ニューウェル、クリフ・ショー、ハーバート・サイモンの3名である。IPLは人工知能の発祥と言われるダートマス会議で披露される。第13章を見よ。

 また、IPLで最初に行われたのは、コンピューター・プログラムによる数学の定理の証明だった。それも、ライプニッツの普遍記号学が実現可能であることをラッセルとホワイトヘッドが示した『プリンキピア・マテマティカ』(第2章第2節)でなされた証明を、実際にコンピューターで実行するというものだ。これは、ノイマン型コンピューターの素性が数理論理学にあることを示している。

 そしてこの証明は、世界初の人工知能の会議「ダートマス会議」でもデモンストレーションとして実行され、「人工知能」という分野の確立に大きく貢献した──ちなみに、人工知能ということで言えば、最初のチェス・プログラムもまた、JOHNIAC上でIPLを使って作成されたものだ【※】

※Allen Newell, J. C. Shaw, and Herbert A. Simon. (1958). “Chess-Playing Programs and the Problem of Complexity.” IBM Journal of Research and Development, 2, 320-335.を見よ。

 じつのところ、IPL自身はそれほど広まらず、FORTRANやLISPなどのプログラミング言語に取って代わられるのだが、興味深いことに、IPLは他のコンピューターに「移植」された最初のプログラミング言語でもあった。

 移植先のコンピューターはIBM 704。これは、IBMが開発したIAS同型機IBM 701の後継機種である。このようなことが可能になったのは、JOHNIACとIBM 701がともにIAS同型機だったからにほかならない【※】

※IPLの移植については、Allen Newell and F. M. Tonge. (1960). An Introduction to Information Processing Language V, RAND Corporation.を見よ。

 フォン・ノイマンが自ら開発した、文字通りの意味で「ノイマン型」と言ってよいコンピューターであるIASコンピューターは、いかなる点でも世界初のコンピューターなどではなかった

 しかし、コンピューターによるチューリング・マシンの実現、パブリック・ドメインという企業や政府とは異なる大学ならではのアカデミックな文化がコンピューター文化に与えた影響、そして互換機や移植といったコンピューター文化に関しては、IASコンピューター抜きには語れないのである。

IASコンピューター

1

2

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合がございます

新着記事

新着記事

ピックアップ

連載・特集一覧

カテゴリ

その他

若ゲのいたり

カテゴリーピックアップ