経済危機で雑誌がなくなって、漫画家の行き場がなくなったところから、WEBTOONが生まれた
――ここで改めて、イ・ヒョンソクさんご自身について伺いたいのですが。
イ氏:
僕は1974年生まれで、漫画原作者としてデビューしたのが26歳の時。軍隊に行って【※】帰ってきて、その2年後にはデビューできたんですけど、その頃はまだ韓国の漫画にも雑誌文化があって。
※軍隊に行って
韓国の成人男性は一定期間、軍隊で兵役に就く義務がある。
1989年の12月に、日本式の週刊漫画雑誌システムが韓国にも生まれて。『IQジャンプ』という雑誌ができるんですけど、その主力商品のひとつが正式に輸入された『ドラゴンボール』だったんです。その前はいろんな政治的な理由で、日本の文化の輸入が禁止されていて。
鳥嶋氏:
そうだね。
イ氏:
それが解除されて、韓国の漫画雑誌で最初に正式連載された日本の漫画が『ドラゴンボール』だったんです。だからやっぱり、社会的な反響が大きくて。僕は当時中学生だったんですけど、学校に行ってもみんなその話なんですよ。ブルマがスカートをめくるシーンとか、大反響で(笑)。あれは韓国ではあり得ない表現だったので。
鳥嶋氏:
(笑)
イ氏:
『ドラゴンボール』のアニメは、韓国でも放送されていたんですよ。ほかにも『銀河鉄道999』だとか『魔法のプリンセス ミンキーモモ』だとか。ただそれは韓国で放送する時に、名前を全部変えています。韓国式にローカライズされていて。
鳥嶋氏:
そうなんだ。
イ氏:
それで韓国にも週刊漫画雑誌ができて、10年間発達して雑誌も売れたんですけど、1997年にアジア金融危機【※】というのが起きまして。その時に、韓国でもみんな娯楽にお金を使っていたんですけど、まずそういうところから支出を減らすじゃないですか。それで漫画雑誌を買わなくなった。
※金融危機
1997年の夏にタイで発生した通貨危機が、東南アジアや東アジアに広く波及。特に韓国では、韓国政府が国際通貨基金(IMF)に救済を要請する事態となった。これにより韓国の金融システムは麻痺状態となり、企業の倒産が相次いで、多くの人々の生活を一変させた。
あとはパルプ代が3倍に上がる、印刷するためのインク代も上がる。全部輸入品ですから。
鳥嶋氏:
日本のオイルショックと一緒だね。
イ氏:
さらに日本側に支払うライセンス代も上がる。それで雑誌が致命的な大打撃を受けてしまって、いろんな漫画雑誌が廃刊されたし、作家さんも行き場所がなくなった。
韓国では経済危機の後に「国の経済的な体質を変えよう」という議論が起こって、それで選ばれたのがIT産業。つまりネット産業ですね。それによって娯楽文化が、経済の中心に移動するんです。
その時に、雑誌がなくなって行き場所のなくなった漫画家さんが、ブログとかで自分の漫画を発表したことから、韓国のWEBTOONという文化が始まったんですよ。
鳥嶋氏:
そこからなんだ。
イ氏:
だから今、WEBTOONはいきなり出てきたものとして扱われるんですけど、じつは20年以上前から始まったというのが正しいんです。
鳥嶋氏:
ということは紙の雑誌の時代に、日本の漫画も韓国へ行ったけど、韓国オリジナルの漫画もその雑誌に載っていたっていうこと?
イ氏:
載っていましたし、それも非常に人気を得て、世代交代が起きたんです。各漫画が100万部以上売れて「100万クラブ」という用語が生まれたぐらいで。なので当時は、有名作家さんが韓国に大勢出てきてすごく盛り上がっていたんですけど、経済危機によって根本から揺らいでしまったんです。
鳥嶋氏:
韓国の市場は日本の半分ぐらい?
イ氏:
韓国の人口は約5000万人です。ただ、当時のマンガ市場は日本よりははるかに小さい規模でした。
鳥嶋氏:
そうすると、韓国で100万部売れるというのは日本だと200万部ぐらいの感覚になるわけで。それはスゴイね。
イ氏:
当時いちばん売れた漫画雑誌が、週刊で30万部ぐらいですね。他にも雑誌がたくさんあったし。
良い作品も生まれましたし、特に女性漫画に関してはすごく発達したんです。日本とほぼ同レベル以上の作品が出てきて。『テルミドール』という作品を描いた人(編注:キム・ヘリン(金恵隣)氏)なんですけど、スゴイ人気でした。
日本の漫画が正式に解禁されたことで、韓国の漫画家に世代交代が起こった
鳥嶋氏:
僕が知っている知識で言うと、東映アニメーションの森下(孝三氏)【※】さんなんかが韓国に行って、韓国のアニメスタジオに発注すると、ものすごくレベルが高くて。だからたいへん申し訳ないんだけど、日本で同じレベルを求めるとコストが高くなるので、韓国に出していたの。
※森下孝三
1970年に東映動画(現・東映アニメーション)に入社して、演出家として活躍。『機甲艦隊ダイラガーXV』『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』などでシリーズディレクターを務めた後、『聖闘士聖矢』でシリーズディレクターからプロデューサーに転身。以後、『ドラゴンボール』などをプロデュースしている。2014年に東映アニメーションの取締役会長に就任し、2020年に退任したが、2022年に取締役会長へと再度復帰している。
今、韓国で任天堂の代理店をやったり、『ジャンプ』の漫画のゲームを発売したりしている「大元(テウォン)メディア」って会社があるんだけど、そこはもともと「大元動画」っていうアニメ会社から始まっていて。そこのオーナー社長は元アニメーターなんですよ。
イ氏:
チョン・ウク(鄭煜)さんですね。
鳥嶋氏:
だから、そういう意味で言うと描き手に関しては、かなり昔から高いレベルの人がいるんだよね。ヒョンソクさんがおっしゃるように、いきなり出てきたわけではない。
イ氏:
韓国の漫画は1950年代から根強くあったし、貸本屋とかで一時期ブームになったりして。それが日本から来た週刊漫画雑誌システムによって、一回変わって発達したという感じなんです。
韓国の漫画文化や漫画の歴史を見ると面白いのが、政権交代が起きると漫画文化自体も変わるんですよ。
鳥嶋氏:
そうなんだ。
イ氏:
1979年に軍事政権だったパク・チョンヒ(朴正煕)政権が終わると、経済発達がいきなり起こって、それに乗って貸本屋が2万店ぐらいできたりして。そこに作品を納品する「財閥漫画家」と呼ばれる人たちが出てくるんです。この財閥漫画家たちがどれぐらいの数の漫画を生産していたかというと、いちばん多い人が一年間に描いた漫画本の数が、449冊なんです。
鳥嶋氏:
えっ!? 449冊?
イ氏:
といっても、1巻あたりは100ページぐらいなんですけど。
鳥嶋氏:
日本の漫画単行本が1冊あたり190ページぐらいだから、それに換算しても200冊以上でしょ! あり得ないよ。
イ氏:
当時はまだ販売するという形じゃなくて貸本だったから、回転率が重要なんです。そのためには書店に人を呼ばないといけない。
鳥嶋氏:
借りてもらわないとお金を生まないからね。
イ氏:
だから毎日のように新商品が出る必要があった。それで、各作家さんの下にAからFぐらいまでのチームを作っておいて、毎日のように単行本を出すっていう仕組みがあったんです。
――その時からすでに、分業制みたいな概念があったわけですか?
イ氏:
ありました。ただ、これは韓国だけのものではなくて。じつは日本もよく見ていると、さいとう・たかをさんとかはこれに近いのかなと。
鳥嶋氏:
そうだよね。僕が今聞いていてまさに思っていたのは「さいとう・プロダクションもそうだよね」ってことで(笑)。
それで言うとね、日本も1959年に『マガジン』『サンデー』が週刊誌として創刊される前は、月刊誌と貸本だった時代があって。さいとう・たかをさんはその当時の貸本業界の売れっ子だった。だからそういう意味で言うと、非常に興味深いね。
イ氏:
そうなんですね。それが遅れて韓国でも出てきたって感じなので。そういったところから、漫画を読みながら育った世代が蓄積してきた。
それで1989年に日本の週刊漫画雑誌システムが韓国に入ってきた時に、自分の作品を発表できる場所を得た作家さんたちが、たくさん作品を発表して新しい時代になった。それと並行して起きたのが、政権交代なんです。1980年代後半からの民主主義的な運動によって、韓国では民主化政権が始まります。それに合わせて日本の週刊漫画雑誌システムが入ってきているので。
鳥嶋氏:
その時に漫画だけじゃなくて、日本の映画や音楽も、韓国が許容して受け入れるようになった。
イ氏:
そうです。日本の音楽も非常に人気があったし。ただ、本を出すのは大丈夫だったんですけど、音楽や映画はその後もしばらくは制限があったんですよ(※編注:日本の音楽や映画が、韓国で本格的に解禁されたのは1990年代後半から)。
日本の漫画は1989年に韓国に正式に入ってきて、大ブームになったんです。『SLAM DUNK』とか、ものすごい人気だったので。たとえば韓国にはそれまで、プロバスケリーグがなかったんですよ。1997年にプロバスケリーグが誕生したんですけど、それは『SLAM DUNK』によって生まれたと言われるぐらい、人気が高かったんです。
鳥嶋氏:
そうなんだ。
イ氏:
僕はちょうどリアルタイム世代なんですけど、すごい人気でしたね。後から聞いた話なんですけど、印刷所がある街に10トントラックがいつでも止まっていて、韓国全土に『SLAM DUNK』の単行本を運んでいったっていう。
鳥嶋氏:
要するに、印刷して倉庫に積み上げるんじゃなくて、印刷したらすぐ本屋に届けるわけだ。
イ氏:
そうです。それぐらい人気でした。
そうやって韓国でも漫画文化が発達してきたんですけど、1997年の経済危機によって、またしても変わるわけですね。
韓国は日本以上に統合されている社会なんです。まだ戦争が終わっていない戦時国家【※】ですし。なので上が変わると、下部のサブシステムも変わる特徴があるんです。だから漫画のシステムも、10年ごとに綺麗に変わっているんですよ。
※戦争が終わっていない戦時国家
1950年に開始された朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれたが、最終的な平和解決は2022年現在、いまだに成立していない。
鳥嶋氏:
そうか……大統領が変わるたびに文化政策が変わり、サブカルチャーも変わるんだ。
イ氏:
その中に僕もいまして。僕はその時に入ってきた日本の漫画やアニメを見ながら成長してきた世代で。中学3年生の時に「漫画家になる」と決心して、努力したわけですね。
漫画を勉強するため日本にやってきて、『アフタヌーン』の編集長に突撃インタビュー
イ氏:
僕は漫画家としてデビューして、作品を3つぐらい発表したんですけど、大学を卒業する時にその先の進路で悩みが生まれたんです。
2つ選択肢があって。ひとつは映画も好きだったので、ハリウッドに行って映画を勉強しようと。もうひとつは日本に行って、日本の漫画というのはいったい何なのか、日本語を勉強して具体的に探ってみたいと。
鳥嶋氏:
じゃあ、その時の針の振れ具合によっては、ハリウッドに行っていたかもしれないわけだ(笑)。
イ氏:
はい。でもハリウッドに行っても、たぶん失敗していたと思います。人種差別とかもありますから。
それで日本に来まして、最初は埼玉の西川口というところに住みました。
鳥嶋氏:
今は海外の人が大勢住んでいるところだね。
イ氏:
僕が日本に来る時に、日本の社会に持っていたイメージは『シティーハンター』だったんですよ。
鳥嶋氏:
漫画によってイメージが作られているんだ。
イ氏:
そうなんですよ。綺麗に整理された街っていう。ところが西川口に住んでみたら、ちょっと違っていて(笑)。
鳥嶋氏:
そりゃ違うよね(笑)。
イ氏:
まぁそれでバイトしながらいろいろやって、日本語を勉強できた後は、僕の師匠である宮台真司【※】さんと出会ったりして。
※宮台真司
1959年生まれ。東京都立大学教授。社会システム論を専門とする社会学者で、著書に『システムの社会理論』『日本の難点』『14歳からの社会学』などがある。援助交際などの性風俗や、映画や漫画についての論考も発表している。
鳥嶋氏:
そこで宮台さんが出てくるというのが、不思議というか違和感があるんだよね。漫画に関わっている人で、恩師として最初に出てくる名前が宮台さんっていう。
イ氏:
日本に来まして、僕が通っていた日本語学校というのが、日本語を教える教師を育成する機能も持っていたんですよ。そこに入ってきた大学生の人と話をする機会があって、「僕はもう少し具体的に日本の漫画を勉強したいんだけど、誰か学者とかいませんか?」と聞いたら、その人の口から出たのが宮台さんの名前だったんです。
鳥嶋氏:
へぇ~。
イ氏:
じつはその人は宮台さんのファンで、「新宿のロフトプラスワンというところに宮台さんが出るから、一緒に行きませんか?」と誘ってくれたので、行きました。その時に僕がショックだったのは、トークショーの相手が元AV女優だったんですね(笑)。
鳥嶋氏:
宮台さんとAV女優で、トークのテーマはなんだったの?
イ氏:
当時の性意識とか、そんな感じでしたね。あとはAVに対してみんなはこういう認識を持っているけど、じつはこういうものなんだ、とか。
鳥嶋氏:
あぁ、そういうふうに掘り下げた形ね。
イ氏:
はい。でも韓国の人間としては「社会学者とAV女優が話をするって、どういうことだ?」とショックを受けて。で、その後も宮台さんの対談やトークイベントを観覧したりして、会場で宮台さんに自己紹介したんです。そうしたら「自分の研究所に来て」と言われて、そこから宮台さんの大学院で勉強することになったという形ですね。
あとは当時、大学院に留学する準備をしている頃に、僕は韓国の漫画雑誌に「日本通信」という名前のコラムを連載していたんです。そのコラム用に、講談社にいた由利耕一【※】さんにインタビューすることになって。由利さんもすごく良い方で、由利さんと出会ったことで漫画編集に関していろいろなことを教えられました。
※由利耕一
1972年講談社に入社。『週刊少年マガジン』で『釣りキチ三平』『愛と誠』『三つ目がとおる』、『ヤングマガジン』で『AKIRA』『攻殻機動隊』などの担当編集者として活躍。『ミスターマガジン』『月刊アフタヌーン』で編集長を務める。2018年逝去。
鳥嶋氏:
なぜ由利さんだったの?
イ氏:
それはですね。その前に『最終兵器彼女』の髙橋しんさんにインタビューできたんです。日本語がまだそんなにできない時にインタビューして、それを韓国の雑誌に載せたら大反響。スゴイ人気になっちゃって。それで勇気が出て「次は藤島康介を取材するんだ!」って、講談社に電話したんです。
そうしたら取材を断られたんですね。それで僕は怒って「じゃあ編集長でもいいので、取材を受けてくれませんか?」って言ったら、『アフタヌーン』の編集長の由利さんが出てくれたんです。
なにしろ電話の第一声が「誰ですか?」でしたから(笑)。それで説明したら「質問を送ってみろ」と言われて。それで全部手で書いてFAXで送ったんですね。そうしたら「よく分かんないけど来てみろ」と。
鳥嶋氏:
へぇ~。
イ氏:
講談社のビルに行っていろいろと質問したら、由利さんは僕が漫画を勉強していた『AKIRA』や『攻殻機動隊』を作った方で。そこで初めて僕は「たいへんなミスをしたんじゃないか」と思ったんですけど。
そんな形で由利さんにお話を聞いて、韓国の雑誌に3回に分けて載せたんです。当時の韓国では、日本の漫画は人気があったんですけど、それを実際に作っているのは誰だっていう話がなくて。
鳥嶋氏:
ましてや編集者にインタビューした記事なんて、なかったわけだ。
イ氏:
ほぼなかったです。そういう話を初めて雑誌に載せたから、その記事もすごく人気になって。
その後、大学院の入試が終わった頃に由利さんから電話がかかってきて。「大学院はどうなった?」「受かりました」「じゃあ酒をおごるから新宿に出てきて」って言われて、歌舞伎町で一緒に飲んで。その後も由利さんはたまに呼んでくれて、いろんなことを教えてくれたんですね。なので編集者としては、由利さんから学んだことが多いです。
『ヤングガンガン』に韓国の漫画家を紹介しながら、編集者としても活躍
イ氏:
それで大学院に入って、修士論文のタイトルは「日韓漫画システムの世代論的な考察」という名前にしたんです。日本に来て、いろんな方と出会って話をしてみたんですけど、「じゃあ日本の漫画って何ですか?」という質問に対して、答えてくれた人は誰もいなかったんですね。編集者も学者もそうだったんです。
そこで僕なりに分析して。韓国の漫画と日本の漫画を比べた時に、韓国の読者も熱意があるし、韓国の漫画家も日本の漫画家に負けないぐらい熱意がある。では韓国の漫画と日本の漫画の決定的な違いは何かというと、編集者の存在でした。
当時、韓国で僕が連載していた『ヤングチャンプ』という漫画雑誌は、編集者がたった2人しかいなかったんです。
鳥嶋氏:
2人!?
イ氏:
はい。それに対して、僕が取材した当時の『週刊少年マガジン』は、編集者が50人以上いたんです。ひとつの作品に編集者が3~4人いて、ビックリしました。
鳥嶋氏:
講談社は特に多いからね。
イ氏:
日本の編集者のことをよく調べてみると、次の世代の作家たちが出てきたら、編集者がその雑誌のフォーマット、「我々が要求しているのはこういうものだ」というのをキッチリ教えている。あとは品質維持ですね。作家が育った後は、その人が定期的に商品を出すように管理している。この編集者たちがいるか、いないかが決定的な違いなんだと思いました。それで修士論文を書いたんですけど。
鳥嶋氏:
日本の漫画雑誌の根幹には作家の育成システムがあり、それを運営しているのは編集者だと。今雑誌に載っている漫画だけじゃなくて、次の漫画が出てくる土壌作りも同時に行っているから、それだけの人数が必要だってことだね。
イ氏:
そうなんです。これが日本の出版漫画の今を作っているんだって実感できまして。それなら僕も編集者という仕事に就こうと。作家のように脚光は浴びないけど、裏でそういうものを作る業界で仕事をしたいと。
そう思っていた時にスクウェア・エニックスから要請がありまして。韓国の作家さんを日本に紹介したり、韓国の漫画を日本語に翻訳したり管理したりする仕事から始めることにしたんです。
鳥嶋氏:
スクエニにはどういう仕事で入ったの?
イ氏:
大学院に留学していた時から、『ヤングマガジン』に掲載された漫画で、原作者の仕事をしていたんです。韓国の徴兵制を題材にした『軍バリ!』という作品です。
鳥嶋氏:
最初に会った時に見せてくれたよね。
イ氏:
そうしたら、スクエニから「今度『ヤングガンガン』という新雑誌を創刊するんだけど、新しい作家さんを獲りづらいから、韓国の作家さんも入れたい」という話が来て。だから僕は最初、コーディネーターという形で入ったんです。
鳥嶋氏:
なるほどね。
イ氏:
でも仕事を始めたらそれだけでなく、広範囲でいろんな仕事をすることになって。10年間そこで働いたんですね。
鳥嶋氏:
ということはコーディネーターだけじゃなくて、普通の編集者がやるような仕事も自然とやるようになったんだ。
イ氏:
そうです。たったひとりで。
その時に参加したのが『黒神』だとか、『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』といった作品ですね。この間にいろんなことができまして、結果も良かったんですよ。
韓国の作家さんをシステム的に連れてきてデビューさせることができたのは、日本の出版社では僕だけだったんです。それが10年後、2014年になると、韓国からなかなか作家さんが日本に来なくなって。それで不思議に思って聞いたところ、「みんなWEBTOONというのをやっている」と。
鳥嶋氏:
要するに、日本の漫画雑誌に掲載しなくても食っていける状況が生まれていたのね。
イ氏:
以前は「日本の出版社に行けるんだよ」と言えば、けっこうな熱意を持ってアグレッシブにやってくれたんです。ところがある瞬間から、それがピタッとなくなりました。それで話を聞くと、韓国ではWebで作品を発表することが一般的になってきていて、けっこう繁盛していると。
もう一個あるのは、日本の漫画文化は優れているんですけど、僕の心の中で疑問も生まれたんですね。それは何かというと、非常に複雑ということ。作りは最高に良いんだけど、その作りを理解して自分が創作にまで入ろうとしたら10年以上かかるし、非常に難しい概念だと思いました。1ミリ単位での調整とかが必要ですし、文法がものすごく難しい。視線誘導の概念だとか。
鳥嶋氏:
あぁ、漫画の文法ね。
イ氏:
見開きを読んだ時、右から左へっていう物理法則なんですね。これって外国の本を読む習慣だと真逆なんですよ。まずそこから学ばないといけない。それから上段と下段の差とか、見開きにコマを何個配置するかとか、起承転結で見開きを設計しなきゃいけないとか、非常に難しいんですよ。
さらに編集者になると、フォントをどれぐらいの大きさにしなきゃいけないとか、視線に合わせた文字を配置するだとか、非常に難しいんですね。
鳥嶋氏:
今聞いていて、その通りなんだけど、そこまで意識して作っている日本の編集者はほぼいないよ(笑)。
イ氏:
そうなんです。これを素でできちゃうんですよ、日本の人は。でも外国の人がこれを再現しようとしたら、勉強しないとできません。
鳥嶋氏:
基本的に、編集者がちゃんと教えなきゃ無理だよね。描き方を、漫画の文法を。
イ氏:
日本の漫画は演出論としてはスゴイんですけど、難しいんですね。簡単に真似できるかというと、そうではない。だから外国から来た作家が日本の漫画システムの中でヒット作を描いたケースは、ほとんどないんです。50年、60年の歴史の中でほとんどいない。10人に達していないんじゃないですか。
僕も感銘を受けた、宮台さんの社会進化論があって。それは要するに「進化の頂点まで到達した存在は、環境の変化に対して鈍くなる」と。そうなると淘汰されていく。
鳥嶋氏:
分かるよ。てっぺんにいたら落ちるしかないからね。
イ氏:
ちょうど鳥嶋さんが活躍されていた1980年代から1990年代に、日本の漫画は頂点まで行ったんですよ。そういう時に、僕の母国の韓国からWEBTOONというものが出てきたと思っていて。僕はそれを日本に移すことを決心したんですね。
WEBTOONの世界に飛び込んだものの、半年間失敗し続けて、自分の経験をすべて捨ててイチから出直した
鳥嶋氏:
韓国から日本に作家が来なくなって、スカウティングが上手くいかなくなった時に、その根っこにWEBTOONがあると分かって。その後にヒョンソクさんは、どういうふうに動いていったの?
イ氏:
ある意味、危機意識ですね。「この仕事はもう、長くはできないのかな」という。つまり韓国の人材を使えるというのが、できなくなったので。
鳥嶋氏:
それが自分のいちばんの強みだったわけだから。
イ氏:
それで当時ですね、僕もWEBTOONをいくつか、面白く読んだんですよ。面白いし、作り方も日本の漫画よりはシンプルに見えるし。そこでこれを日本に移す決心をして、スクエニを辞めたんです。
そうしてcomicoに行ったんですけど、最初の6カ月間は失敗の連続でした。とにかく出す作品、全部失敗だったので。大惨敗。でも今振り返ってみると、人生でいちばん勉強になった時期ですね。
鳥嶋氏:
スクエニで10年間やって、韓国の作家さんを日本に連れてきて。コーディネートだけじゃなくて編集もやって、面白い漫画を作れたという自負もあって、単行本も売れたと。そこで「WEBTOONも漫画だから簡単にできる」と思ったんだね。
イ氏:
思いました。まだデッサンも狂ってるし、漫画もヘタクソだし、ストーリーの構成もおかしいし……。
鳥嶋氏:
それに対して、自分が関わったことでそれなりのレベルのものが作れた。でもダメだった。
イ氏:
はい。6カ月間、出す作品全部失敗して。非常に悔しかったですよね。周りの目線を見ると、「あいつ、なんだ?」って感じだし(笑)。
鳥嶋氏:
分かる分かる。
イ氏:
その時に、飛世(とびせ)さんっていう作家さんの担当になってくれと言われたんですね。それで作ったのが『坊ちゃんとメイド』という作品です。お坊ちゃまとメイドさんが恋心を持ってイチャイチャするという、要するに萌え系の作品ですよ。昔の僕だったら絶対に作らないタイプの作品なんです(笑)。
それまでに僕が作っていた作品は、『FRONT MISSION』は日本人の目線で戦争に対して真剣に考えるというものだったし、『黒神』もすごく真剣なバトルアクションだったし。
鳥嶋氏:
ハードな男性系の漫画を作っていた人に、いきなりお坊ちゃまとメイドの萌え系漫画を作れと。
イ氏:
私にとって難しい挑戦でしたが、これがcomicoの曜日ランキングで1位を取るんですね。僕はそれにショックを受けたんです。「えっ、これが!?」って。
鳥嶋氏:
「これが1位!?」っていう。分かる分かる。
イ氏:
その後にもう一個作品を作るんですけど、それは『くらすめいど』という作品で。未成年の作家さんだったんですけど、お母さんと一緒にお会いして「ぜひ作品を」とお願いしたんです。
この人は、絵はまだ拙いものの、表情だけは描けたんです。
鳥嶋氏:
ということは、そこに可能性を感じたわけだ。
イ氏:
そうです。それでやってみたら、スゴイ人気で。その時、僕は目からウロコだったし、泣きましたね。「自分がバカだった」って。
そこから「WEBTOONってなんだろう?」と勉強するようになりました。自分の今までの体験はいらない。全部捨てて、WEBTOONのことだけを考えてやってみる。韓国から作品を輸入して翻訳して出してみたり、スクエニから既存作品を提供してもらい、それを縦読み+カラーに再編集して出してみたり。
鳥嶋氏:
見開き漫画をね。
イ氏:
それも売れました。そこで他の漫画も縦読みにして出してみると売れなかったりして、この時にいろんな実験ができたんですね。「こういうものはWEBTOONで売れるし、こういうものは売れないんだ」っていう。
鳥嶋氏:
そういうところから「どういうものが読者に届くものなのか」っていう文法を、自分の身体で見つけていったんだね。
イ氏:
そうです。あとですね、出版漫画時代はヘンなプライドがあったんですよ。「作品さえちゃんと作っておけば、どうせ売れる」という。
鳥嶋氏:
あっ! ……なるほど。それは分かるし、耳の痛いところだねぇ。
イ氏:
でも、読者が見ている媒体に合わせて作品を作らない限り、いくら良いものを作っても売れませんよ。
鳥嶋氏:
その通り。「誰が読むのか、誰がお金を払うのか」だね。
イ氏:
それを実感できて、すごく良かったです。
そうやってcomicoでいろいろとやっている時に、韓国で人気があったのがWEB小説なんです。文字モノがすごく人気だと聞いて、「次は文字モノをやってみよう」と思って「DMM TELLER(現・テラーノベル)」というところに行って、タップ小説というのをやってみたんですけど、ここではちょっと上手くいかなかったんですね。
鳥嶋氏:
タップ小説?
イ氏:
タップするとセリフがひとつずつ出てきて、話が続いていくっていう形ですね。若い世代には人気があったんですけど、ここでは限界を感じたんです。
あとは昔からの知り合いに「イさんは漫画をやるべきだ」と怒られて。それで「自分でWEBTOONを作るか」と思って、エルセブン(現・レッドセブン)という会社を立ち上げました。それで作品を発表したら、『盗掘王』や『4000年ぶりに帰還した大魔導士』といった作品がヒットしてくれて、今に至っているという感じです。