1990年代から2000年代にかけて、「美少女ゲーム」というジャンルはオタク文化において「ひとつの時代」を築いていた。青春であり、奇跡であり、芸術であり、人生だった。
魅力的な美少女キャラクター、泣けるストーリーは多くのユーザーを夢中にさせ、「泣きゲー」というジャンルが社会現象になるほど。メディアミックスも盛んに行われ、「18禁ゲーム」の枠を飛び越えて熱狂が広がっていった。
そのムーブメントの中心を担っていた存在として美少女ゲームブランドの「Leaf」、そして「Key」の名をあげて、異論のある方はいないだろう。

両ブランドは、熱狂的なユーザーの中では「葉鍵」と呼ばれ、コミケでも「Leaf&Key」がいちジャンルとして取り扱われた歴史がある。
『ToHeart』、『WHITE ALBUM』、『うたわれるもの』
『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』
当時、「Leaf」、「Key」が世に送り出した美少女ゲームは、今もなお語り継がれる名作ばかりだ。「Leaf」設立から今年(2025年)で30年を迎えるものの、その輝きは色あせない。
そして、多くの美少女ゲームブランドが立ち上がったのもこの時代だった。Leafの髙橋龍也氏、Keyの麻枝 准氏、TYPE-MOONの奈須きのこ氏、ニトロプラスの虚淵玄氏など、現在でも活躍を続けるクリエイターたちが美少女ゲーム業界に集っていたように思う。
まさに「黄金時代」と言える「この時代の美少女ゲーム業界が起こした熱狂」とはなんだったのか。
美少女ゲームが築いた「ひとつの時代」に迫るべく、今回はその時代の最前線を駆け抜けたふたりのクリエイターをお迎えした。
ひとり目は、1995年に美少女ゲームブランド「Leaf」を設立し、『ToHeart』や『WHITE ALBUM』、『うたわれるもの』シリーズなど数々のヒット作を手がけてきた下川直哉氏。現在は株式会社アクアプラスのエグゼクティブプロデューサーである。
もう一方は、下川氏とともに「Leaf」立ち上げに参加し、のちにビジュアルアーツにて美少女ゲームブランド「Key」立ち上げメンバーとして参画、『鳥の詩』や『Alicemagic』などヒット曲を世に送りだしてきた折戸伸治氏である。

本対談では、「Leaf」設立当時にどのようにゲームを作っていたのか。なぜ「Leaf」、「Key」の両ブランドがここまで音楽に注力したのか。そして、時代を経るごとになにが変わっていったのか。
また、『ToHeart』主題歌の『Brand-New Heart』、『AIR』主題歌の『鳥の詩』が作られた当時の制作エピソードはもちろん、高校時代に音楽仲間だったふたりの創作活動や私生活についてもお聞きしている。
当時の美少女ゲーム業界における生き証人のようなふたりの対談をぜひ楽しんでいただきたい。
また、本記事内では、おふたりが携わった作品の楽曲をSpotifyのシェア機能を使って挿入している。音楽に耳を傾けながら読み進めていただくのも一興だろう。
聞き手/TAITAI・川野優希
編集/竹中プレジデント
撮影/鶴身健
美少女ゲームが築いた「ひとつの時代」をLeaf、Key創設メンバーとともに振り返る
──今回の対談では、2000年代前後の美少女ゲーム業界の熱狂について、当事者であったおふたりの目からどのように見えていたのか。Leafの立ち上げ時から、『ToHeart』が起こした「ボーカル入り主題歌」の衝撃や『鳥の詩』の大ヒット、「泣きゲー」が起こしたムーブメントなど、お聞きしていければと思っています。
折戸氏:
いやぁ……当時はゲームの曲を作れることが幸せで、なにも考えていなかった気がしますね(笑)。
下川氏:
ゲーム作りが楽しかったよね。仕事をしている意識はなかったと思う。
折戸氏:
そうそう。他にすることがなくて、ゲーム作りしかしてなかった。仕事場に行ったら誰かしらがそこにいるから、雑談しながら仕事をする……みたいな環境だったよね。
僕なんかは、オフィスの上の階に自分の部屋を借りていたので、起きてから寝る直前まで仕事をしていました。
──当時、美少女ゲーム業界では次々とヒット作が生まれていましたが、業界全体における変化についてはなにか感じられていましたか?
下川氏:
あくまで個人的な感覚ですが、美少女ゲーム業界に光が当たりだすひとつのきっかけにうち(Leaf)があって、決定的なものにしたのがKeyの「泣きゲー」だったような気はしているんですよね。
それまでの美少女ゲームは「アダルト要素」がメインだったのだが、「エロゲーだけど感動するし、おもしろい」といえる作品が受け入れられる世界観ができたあと、それを最大限に活かして昇華させたのがKeyで。そこからTYPE-MOONの奈須さんやニトロプラスの虚淵さんのような方々に繋がっていったんじゃないかなと。
折戸氏:
僕は『ToHeart』にボーカル入りの主題歌がついていたのが衝撃的でしたね。正直、あの主題歌を聞いたときは「めっちゃ嫌な流れになりそうやな」と思っていました(笑)。
下川氏:
嫌なんかい(笑)。
──それってどういうことですか?(笑)
折戸氏:
自分は、作曲で「打ち込み」しかやってきてない人間だったので、歌のレコーディングは経験したことがなくて、すごく敷居の高さを感じていたんです。
なので、『ToHeart』を皮切りに「美少女ゲームには歌がつきもの」というのが主流になったら困るなと。
下川氏:
いやいや、僕だって『鳥の詩』が出たときは「腹立つわ~」って思ってたからね(笑)。うちから出て行ったあとに当てとるな~って。
折戸氏:
あれはほんと、タイミングやね(笑)。
下川氏:
でも本当にいい曲でした。曲が流れて数秒で心が掴まれる。キャッチーだけど、どこかに憂いがあって、切なさを感じさせるメロディーが頭から入ってくる。グッとくるんですよ。いい曲すぎて悔しかったですね。
──下川さんと折戸さんは高校時代からの音楽仲間で、アクアプラスの前身となるユーオフィスの立ち上げメンバーでもありました。その後、折戸さんがその会社を辞めて、それぞれ別の道を進んでいくことになるわけですよね。
折戸氏:
そうですね。当時は給料が10万円もいかないくらいだったので毎月赤字続きで、高校時代にバイトをして買った機材を売って生活費を捻出していたんです。1年ほどそういった生活が続いて「もう無理だな」と。
実際にバイトを始めたら、給料が倍以上になって「これは……!?」と驚いたことは今でも記憶に残っています。
下川氏:
『DR2ナイト雀鬼』から始まって『Filsnown』、『雫』、『痕』と作っていったんですが、折戸は『雫』まで一緒でした。正直、『雫』までは生活的にかなり苦しかったですね。
──ヒット作を生み出す裏側にそんな苦労があったとは……。本日は当時のおふたりがどのように生活していたのかも含めて、お話をうかがわせてください。
下川氏、折戸氏は高校時代からの「DTM好きの音楽仲間」だった
──下川さんと折戸さんは、一緒にゲームを作る前からお知り合いだったとのことですが、おふたりが出会ったのはいつごろなのでしょうか。
下川氏:
初めて会ったのは高校時代ですね。僕と折戸、あと今でもうちで音楽を担当している石川(真也)と中上(和英)で、DTM好きの集まりのようなものがあったんです。
折戸氏:
当時、下川が「パソコン通信」【※1】で音楽系のBBSを立ち上げていて、そこにアクセスしてきた音楽好きの人たちと交流が深まっていった……というのが最初のきっかけですね。
※1……インターネットが普及する以前に使用されていたネットワーク。電話回線を使って接続されていた。
──「DTM好きの音楽仲間」が原点にあるんですね。
下川氏:
みんなゲームも好きで、「ゲームミュージック好き仲間」でもありました。古代祐三さんが作った『ミスティ・ブルー』や『ザ・スキーム』、『イース』、『ソーサリアン』などの曲が群を抜いて人気だったと思います。
折戸氏:
耳コピした曲を自分流にアレンジしてみたりとかね。
下川氏:
そうそう。週末に僕や中上の家に集まって、曲をアレンジしたり、曲を書いたりして遊んでた。作ると言っても、本当に子供だましみたいな曲でしたけどね。
──おふたりの高校時代というと、1990年前後ですよね。当時におけるパソコンでの音楽編集環境はどのようなものがあったのでしょうか。
折戸氏:
「MML(ミュージック・マクロ・ランゲージ)」というプログラミング言語のようなものがありました。「ド」なら「C」、「ラ」なら「A」と文字を打ち込むことで音楽を作っていくんです。
「レコンポーザ」という、MS-DOSで動く音楽制作ソフトがあって、みんなそのソフトを使っていたので、ファイルを持ち寄って交換して聞いていましたね。
──当時、プログラミングの分野ですと、雑誌の「I/O」のように自作プログラミングを投稿するような場があり、コミュニティが掲載されていましたよね。DTMの分野でそういった実績を積んでいくような場所ってあったんでしょうか。
折戸氏:
そういった雑誌もあったとは思うんですが、自分たちのコミュニティでは投稿しようという動きはとくにありませんでしたね。
下川氏:
恐らくですが、そういった雑誌はプロの音楽家向けのもので、ゲーム寄りのものじゃなかったと思うんですよ。
僕としては「ゲームの会社に入って、ゲームの音楽を作りたい」というモチベーションだったので、そういった雑誌に投稿するというのは考えなかったですね。折戸はそもそもゲーム音楽を作って食っていこうとは思ってなかったよね?
折戸氏:
そうだね。興味はあったけど、それで食べていけるとは思ってなかったかなぁ。
──そんなおふたりは、高校を卒業したあとはどのような進路を歩まれたのでしょう。
下川氏:
僕はプログラミングを勉強するために専門学校に進学しました。勉強はせずに音楽ばかりやっていたんですが……(笑)。折戸はなにをしてたんだっけ?
折戸氏:
銀行系の会社に入ってプログラマーをしていました。
──それぞれ進学や就職をされていったと。高校時代のコミュニティはそのあとも続いていったんですか?
折戸氏:
続いてはいましたが、学生時代ほど頻繁に集まることはなくなったと思います。
下川氏:
仕事をしだすと、なかなか学生のようにはいかなくなりますよね。
ゲーム音楽好きな仲間が集まって「Leaf」が立ち上がった
──それぞれ環境も変わって、高校時代ほどの交流はなくなっていったと。でも、そこからおふたりは「Leaf」を立ち上げて、ゲームを作っていくわけですよね。
下川氏:
僕はその後、「TGL」【※2】に在籍して「TGL」や「戯画」【※3】などの作品のサウンドを担当していました。ただ、1年足らずで辞めて、音楽制作の会社を立ち上げることになるんですが、そのときに「一緒に会社をやろうよ」と折戸に声をかけたんです。そのときに設立したのが「有限会社ユーオフィス」でした。
※2……日本のゲームデベロッパーで、現在の「株式会社エンターグラム」の前身。
※3……「株式会社エンターグラム」が擁していた美少女ゲームブランド。
折戸氏:
そうそう。当時はまだ20歳くらいで若かったのもあって、なにも考えてなくて。サンプル音源すら持たずに、身体ひとつで乗り込んで「飛び込み営業」のようなことをしていました。
──えっ、サンプル音源なしで飛び込み営業ですか!?
下川氏:
ええ。「僕たち音楽作れるんですよ、仕事くれませんか」と、営業のようなことをしていました。
でも、世の中すごいのは、20歳の若者が何も持たずに「仕事をください」という営業に対して、仕事をくれる人がいるんですよ。一応「TGL」での実績はあったので、その影響もあったかもしれませんけどね。
ソフマップさんから仕事をもらっていたんですが、MIDIの機材に付属するMIDIを勉強するためのサンプル曲の打ち込みデータを作っていました。Mr.Childrenの『innocent world』や篠原涼子さんの『恋しさと せつなさと 心強さと』などが記憶に残っています。
──当時、折戸さんは銀行系の会社に在籍していたわけですよね。下川さんからの誘いには悩んだりしなかったんでしょうか。
折戸氏:
下川から誘われたときには、もうその会社は辞めていたんですよ。フランチャイズ系のゲームショップでアルバイトをしていました。ですので、身軽だったこともあり「おもしろそうだからやってみよう」といった感じで、迷いはなかったですね。
──飛び込み営業をして、音楽の仕事をもらっていた状態から、ゲーム会社としてゲームを作っていくようになった流れというのはどういったものだったんでしょうか?
下川氏:
じつは、会社を立ち上げた当初から「ゲームを作る」という目的はありました。僕たちは「音楽家」というより「ゲームミュージック大好き人間」だったので、はじめからゲームを作る前提で人集めをしていました。
声をかけた人たちが集まるまでタイムラグがあったので、その間は営業をして外注の仕事を受けていたわけです。それに、外注で音楽を作っても1曲数千円や1万円なので、それでは食っていけない。だから外注で音楽を作っているときも、ゲーム制作に向けて人集めをしていましたよ。
──スタッフはどのように集めていったんでしょう。
下川氏:
ほとんどが知り合いの紹介ですね。サウンドは高校時代の仲間でしたし、『WHITE ALUM』でイラスト担当したカワタ(ヒサシ)、『Filsnown』でイラスト担当した水無月(徹)は前職場の同僚で、その水無月が「良いやつがいる」と紹介してくれたのが『雫』の脚本を担当した髙橋(龍也)でした。
募集をかけて人を集めるようなことをしたのは、『ToHeart』以降だと思います。それまでは知り合いの人たちに「こんな人がいるんだけど」と紹介されて、声をかけてみるといった形でした。
折戸氏:
高校時代にパソコン通信の「草の根BBS」【※4】に集まってきていたメンバーみたいな感じでしたね。
※4……パソコン通信において、個人やグループが運営していた小規模のものを指す。
──当時は「草の根BBS」にたどり着くまでに相当なハードルがありましたよね。そういった意味でも「濃いメンバー」が集まっていたことは想像できます。
下川氏:
いま振り返って考えてみると、そうだったのかもしれません。僕のクラスだと40人中ふたりしかやっていませんでしたし、その中で趣味のあうメンバーとなるとさらに限られてきます。
でも、当時の自分たちはおもしろいから集まっていただけでした。将来、自分たちがゲーム業界で働けることも、音楽マンとして食べていけることもまったく想像していませんでしたね。
でも、それを振り返ってみると、当時集まっていた人たちが今でもこの業界で働いているパターンは多いですね。あのころの同人サークルはみんなすごかったんだと今になってあらためてそう思います。
折戸氏:
たしかに。
下川氏:
ナムコにいた細江慎治さんやPC版『サイレントメビウス』のBGMを担当した梶原正裕さんも同人CDを出されていました。そういった熱量のある人たちのところにコミュニティがありましたね。僕たちはその中で一番無名の下っ端集団みたいな感じでした(笑)。
折戸氏:
そうそう。新参者だったもんね。