2019年1月21日、『大乱闘スマッシュブラザーズ』(以下、『スマブラ』)シリーズは発売20周年を迎えた。
先日に電ファミでも『スマブラ』の20年の歴史を振り返る記事を公開したが、この節目を迎えて『スマブラ』にまつわる思い出が各所で語られている。
初代『スマブラ』が2019年1月21日で20周年。その原点を振り返る
この流れに便乗し、僭越ながら筆者の『スマブラ』の思い出を語らせていただければと思う。
以下にお伝えするのは、ほんのちょっとしたエピソードにすぎないのだが、それでも私にとっては『スマブラ』というゲームに救われた、という話だ。
文/実存
2012年の夏、私はカリフォルニアにいた。
英語は覚束ない。憧れの海外に来たものの、ピザを注文するにも「OK」としか喋ることができなかった。右も左もわからず、とりあえず留学先の大学に向かうためにタクシーを使ってしまい、300ドルも払うはめになった。
そんな私がロサンゼルス空港からどうにか留学先の寮にたどり着いたものの、そこにはさらなる絶望が待っていた。
「日本人がひとりもいない!」
英語を読むのが面倒で適当に申請書類を作ってしまったため、本来なら留学生用の寮に入るはずが、現地人用の寮に入ってしまったのだった。
泣きそうになりながら部屋に荷物を運び、ふたりのルームメイトに挨拶をする。彼らは陽気だったが、私は陰気に包まれていた。
絶望的な気分で手続きや説明会を終え、寮に戻ってみると、ロビーでなにやら集まってゲームをしているのが見えた。
そこに見えたゲーム機は、ニンテンドウ64。そして彼らがプレイしているゲームは、まぎれもなく初代の『スマブラ』だった。
小学生のころ、私は “地元で最強”の『スマブラ』プレイヤーだった。なぜなら私だけが『スマブラ拳!!』を読んでいたからだ。
使用ファイターはサムス。ジャンプから空中下A攻撃で相手を浮かせ、空中後A攻撃でふっ飛ばすのが得意技だった。
高校生のときに出会った友人のK君に叩きのめされるまで、もっとも腕に自信があるゲームと言えば、初代の『スマブラ』だった。
私はそのころの記憶を思い出した。そういえば、あんなに楽しかった『スマブラ』に、大学に入ってからは一度も触れていなかった。
私は『スマブラ』をプレイする外国人たちの後ろに立って、画面を食い入るように見つめた。
すると、その中のひとりが私に声をかけてきた。
「Wanna play Smash?」
「OK!!」
私が選んだファイターはもちろんサムス。いちばん使い慣れたファイターだ。
相手の攻撃をひらりとかわし、空中後A攻撃「ソバット」でふっ飛ばしたとき、小さな歓声が上がった。
「Oh, you nice!」
そうして、私は彼らと友人になった。
その後もその友人たちと『スマブラ』をプレイしていくうちに、「『スマブラ』が上手い日本人がいるぞ!」と寮の中で話題となり、さらに多くの外国人たちと友人になることができた。
依然として英語は覚束なかったが、それでも一緒に『スマブラ』をしていればコミュニケーションをとることに問題はなかったのである。
『スマブラ』は言語の壁を超える。20周年を記念して、改めて『スマブラ』に心からの感謝を伝えたい。
余談だが、日本と同じように海外にも“スマブラが強いヤツ”が存在した。彼の名はSteven。ピカチュウの使い手で、偶然にも私に「スマブラやんない?」と初めて声をかけてくれた人物だ。
私とStevenは毎日タイマンで勝負し、寮内最強を争う闘いに発展していくのだが、それはまた別のお話。
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