3Dポリゴンの時代到来、セガが市場を独占
あー、アーケードの話もけっこう入るならアーケードの人をもっと呼べば良かったね!(笑)。今日はコンシューマー機の人たちを集めちゃった。
アーケードにおいて、『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』と、ハードの性能をどんどん上げながら次々とヒット作を生み出す鈴木裕さんという天才クリエイターが居まして。普通は「ハードの性能を上げる」っていうと、お金がかかるから会社は嫌がるんですけど、とにかく鈴木裕さんがヒット作を作り続けるものだから会社も鈴木裕さんの言うとおりどんどんハードの性能を上げるんですね。
で、それまでは鈴木裕さんは疑似3Dと言いますか、平面を3Dっぽく見せるゲームを作ってたのを、本当の3Dにしたのがこの『バーチャレーシング』ですね。鈴木さんがずっと求めてきたものにようやく技術が追いつき始めた時代がこの頃です。
『バーチャレーシング』を開発してた頃って、そばで見てました?
『アフターバーナー』とかは開発中に呼んで貰って「ちょっと遊んでみろ」みたいな事がありましたけど、『バーチャレーシング』はそういう記憶がないですね。
あと、「MODEL1」【※】がバーチャレーシングから稼働ですね。そして『バーチャファイター』(以下、バーチャ)が出る、と。
※MODEL1
セガが開発したアーケードゲーム基板。3D描画機能に優れておりバーチャレーシング、初代『バーチャ』などに使われた。当時はめっちゃ高かったらしい。
『バーチャ』は稼働前に、会社のロビーにテスト機が置いてあったよね?
置いてましたね。開発中のやつですけど。
で、僕もそれを初めて見て、なんていうか、「これまでに存在しないゲーム」だったんですよ。なんか綺麗でもない絵なんだけど、これが面白くてそのまま2時間ぐらいやってたんじゃないかな……。
仕事してください(笑)。
当時、対戦格闘って言ったら『スト2』とか『餓狼伝説』みたいに飛び道具があって対空技があって、っていうのが多かったですもんね。
そうそう。それなのに土俵があって、落ちたら負けだし、動きもめちゃくちゃリアルで。
94年ごろがたぶんピークなんですけど、「MODEL1」、「MODEL2」【※】というハードウェアがアーキテクチャ的に上昇しすぎて、同じ事が出来るハードウェアがセガとナムコ以外に持ってなかったんですよ。ナムコさんは『リッジレーサー』がありましたけど、他社でヒットしたのはたぶんそれぐらいで。だから、3Dゲームの時代が訪れると同時に、一瞬だけこの3Dゲーム市場をセガが独占してたんですよね。
※MODEL2シリーズ
MODEL1の後継アーケードゲーム基板。『デイトナUSA』、『バーチャ2』、『バーチャロン』など。
この辺でセガワールドっていうゲーセンもたくさん作ってますよね。ちょうどこれくらいの時期に僕の地元にもセガワールドが出来たんですよ。『デイトナUSA』なんて1ゲーム200円でめちゃくちゃ高かったけど(笑)
『バーチャ2』も最初は200円でしたね。
そうでしたっけ? 高いなー!
1ラウンド30秒なのにね(笑)。
そう! 『バーチャ』って1試合が短いからゴリゴリお金が減る!
『バーチャファイター』いのまたむつみ×永野護 対談──『ブレンパワード』に繋がる“バーチャに捧げた1年間”がいま明かされる
正直ね、あの時代は筐体の値段が受注直前に決まると聞いたことがある(笑)。
一同:
(笑)。
『バーチャ1』がヒットして、その続編が出るって言ったらどこのお店も欲しいじゃないですか。売り上げもすごいし、隣のゲーセンに『バーチャ2』があって自分の店に無いってなるとお店にとっても死活問題だから。展示会とかやっててまだ筐体の値段決まってないのに「〇台仕入れます」とかそういう時代で。まあ、都市伝説かもしれないけど。
なんかすげえでかい筐体ありましたよね。プロジェクターに投影するやつ。
メガロ50かな?
あれいくらするんですか?
まあ100万円以上はしますね。
それがバンバン売れるから、相当儲かってたことは間違いないです。
セガのブランド価値がNikeを超え、マイケルやスピルバーグが来社
まあ僕も当時、セガには散々貢ぎましたからね……。セガがめっちゃ調子こいてる時期であることは間違いない! で、ちょっとゲームの歴史とは離れるんですけど、1992年にマイケル・ジャクソンがセガに初来社!
【マイケル・ジャクソン没後10年】ゲーム『ムーンウォーカー』に魂を込めたキング・オブ・ポップと、彼を支えたセガスタッフの交流を振り返る
マイケル見ました?
見ました。
お忍びっていう感じで来るの? それとも堂々と?
お忍びなんですけど、そりゃあ噂は立つんですよ。「今日マイケル来るぜ」って。でも会社からは「集まっちゃダメ!」って言われてたから、窓から見てて「わー!来たー!」ってそれぐらい。
それからまた後の話なんですけど、鈴木裕さんの所にマイケルが遊びに来た事があって、僕がトイレ行った帰りに向こうからマイケルが歩いて来て会釈されて「俺、マイケル・ジャクソンに会釈されちゃった!」って(笑)。なんかね、いい匂いがしましたよ。
ソニックのヒットから90年代中盤くらいまで、セガがこの頃ブランド価値がNikeを超えたとかいう記事を見た記憶があります。そういうのもあってマイケル・ジャクソンに限らず色んな有名人が会社に来るっていう事はありましたね。
あ! スピルバーグがAM2研に来ましたよ!
そうそう。有名人が来ると社内報にドーンって載るの。
当時はAM2研に色んな人が来てましたね。
金城武さんとか。
金城武さんとかどういう感じで来るんですか?「金城武だけど遊びに行っていい?」みたいな?
金城武さんはね、広井王子さん経由だったかな……。金城さんもゲームが大好きなので、そういうツテをたどって来られてましたね。
セナは何年だっけ?
えっ、セナってアイルトン・セナ!?
そうそう。メガドラで『スーパーモナコGP2』が出た時だから92年かな?
F1が当時すごく流行ってたから、同僚の女の子でセナのファンが居て、「サインが欲しいけど恐れ多くて行けない!」って言うから「じゃあ、私が貰って来る!」ってサイン貰いに行きましたよ。私はプロストのファンだったからそこまで緊張しなかった(笑)。
なるほど、そんなこんながあって、94年にセガサターンですよ!
セガサターン、バーチャ、プリクラでセガ絶好調
この頃はね、まず『バーチャ』とか『デイトナ』とか、ゲーセンで大ヒット商品が出るでしょ。で、それをそのまま家庭用のサターンに移植して、「このゲームが出来るのはセガサターンだけ!」っていうサイクルがすごく上手く回ってたんですよ。
最初はサターンが優勢でしたもんね。この辺が絶頂って感じじゃないですか?
そうですね。94年~95年は絶好調でしたね。
95年に「プリント倶楽部」が出ますし、これも当たりましたね。
「プリント倶楽部」は先ほどの「UFOキャッチャー」と同じく、ゲームセンターをもっと健全化しようっていう大きな流れがあるんですよ。
あー、セガワールドも運営してるし。
そう。ゲームセンターって昔はちょっと怖い感じの人がたむろしてるっていうイメージが強かったから、もっと家族で遊びに来れるようにしよう、と。それで入口に華やかな「UFOキャッチャー」を置いて、だんだん普通の人たちも遊びに来てくれるようになったので、アトラスが企画を持ち込んでセガが商品化したのが「プリント倶楽部」ですね。
あー! 言われてみれば確かに昔のゲーセンって不良のたまり場って感じだった! 今そんなイメージぜんぜん無いですもんね。
「プリント倶楽部」は補充産業と言いますか、インクと用紙がどんどん売れるからビジネスとして良くできているんですよね。
プリクラって中身がメガドライブでしたっけ?
あ、そうそう。最初は中身がメガドライブ。
えっ、そうなの!?
メガドライブの基板で制御して、ビデオプリンターっていう画面をキャプチャする機械が入ってるんです。だから額縁なんかもメガドライブでしか描画出来ない額縁なんです。
だからこの時期はアーケードが『バーチャ』とプリクラでしょ、家庭用はサターンも売れてたし……。
ゲロ吐くぐらいに儲かった?
そう(笑)。だからゲロ吐くぐらいに新入社員も採ってました。
その頃に入ったのが僕なんですよ。
あ、あと「セガサターンエロゲ機説」についても触れて欲しいっていう人が居て。『スーパーリアル麻雀』とかありましたもんね。
これはですね、94年にセガサターンが発売された時にマルチメディア展開をしたんですね。サターンならビデオCDも見られるっていう。
あー、ビデオCDあった……!
でも、ビデオCDっていわゆるアダルト物も多かったので、会社としてこういうアダルト関連の商品をどう取り扱うかきっちり決めようって事になったんです。これが後のCERO【※】に繋がるんですけど。
※CERO
コンピュータエンターテイメントトレーディング機構。ゲームソフトの内容により対象年齢などを表示するレーティング制度を運用・実施する機関。このゲームは人がばんばん死ぬから対象年齢あげようぜ、とかそういうのを決める。
それで、段階を設けてこれは全年齢、これは12歳以上ってやってる内に、ビデオCDもあるから「X指定」ってカテゴリを作ったら「カテゴリがある以上アダルトも作っていいのか!」ってなって、PC向けにゲームを作ってたメーカーさんが「ウチもサターンで出していいんですか!?」って(笑)
なるほど。『スーチーパイ』とかやったな~~~!
「エネミーゼロ事件」と「FF7、プレイステーションで始動」
で、96年に『バーチャ3』、『ナイツ』、『サクラ大戦』、あと触れて欲しいってたくさん言われたのが「エネミー・ゼロ事件」ですね。
エネミー・ゼロ事件か……。
プレイステーションの発表会で、飯野賢治さん【※】が元々プレイステーションで出すって言ってた「エネミー・ゼロ」を「やっぱセガサターンで出します!」って言っちゃったっていう。
※飯野賢治
ゲームクリエイター。『Dの食卓』『エネミー・ゼロ』などを手がける。クリエイターとしての才能もさることながら、歯に衣着せぬ物言いで業界の風雲児と呼ばれた。95年通産大臣賞受賞。故人。
そう。よりによってソニーさん主催のプレイステーションだけのゲームショウの中で。
これ、プレイステーション側的には「飯野さんならしょうがないか……」みたいな感じなんですか?
いや、飯野さんだって「もうソニーとは一生会わない!」くらいの覚悟はあったでしょう。
『Dの食卓』をプレイステーションで出した時に、飯野さんは「これぐらいは売れるからこれぐらい作ってくれ」ってお願いしたのに作ってくれなくて、それなのに店舗だとどこも在庫切れになっちゃったからそれ以来不信感持っちゃった、みたいな話は聞きました。
飯野さんの逸話については面白いものがたくさんあるので是非探してみて欲しいです。
ご本人が語られてる書籍もたくさんありますしね。
東京ゲームショウで飯野さんのブースだけ、空き地にして盆踊りしたとかね。
まさに業界の風雲児でしたからね……。
そして、96年の出来事は『FF7』がプレイステーションで発売される事を発表、っていう。
サターンとプレイステーションが発売されたのが94年の11~12月で、そのあと1年間かけてどっちが先に100万台行くかって熾烈な争いをしてたんですけど、100万台も先に達成したし、95年の年末商戦でもサターンが勝ったんですよ。それで喜んでたら、年が明けて96年の1月7日に「ファイナルファンタジーVII、プレイステーションで始動」ってCMでバーンと。
そうそう。僕93年入社でしょ。その年に『バーチャ』が出て94年に『デイトナ』、サターンでしょ。それでね、95年の年末商戦でサターンが勝ったわけじゃないですか。「これはいい会社に入ったぞ! ボーナスすごいことになるぞ!」って喜んでたんですけど、「FFがプレイステーションで出ます!」ってなって「ああ、こりゃ下手したらボーナス貰えないぞ……」って落ち込みましたよ……。
大々的に発表されるまで誰も知らなかったんですか?
セガの人間は誰も知らないですね。
もちろん、ウチだって当時のスクウェアさんとお話はしてるわけですよ。「開発も最大限協力しますからサターンで『ファイナルファンタジー』出してください」って。でも、「じゃあサターンでやりましょう」ってなってないって事は、「ひょっとしたらもうあっちで進んでるのでは……?」っていう想像はしてるんです。想像はしてるんですけど、まだ決まってるとは思ってないし、まさかあのタイミング、発売まで1年もあるタイミングで発表するとは思ってなかったですね。
あー、本当に知らなかったんだ。
あのテレビのCMだってね、スクウェアさんの枠じゃなくてソニーさんの枠でしょ。ソニーさんがお金を出して、「ばーんとやりたまえ!」って。まあソニーさんからしたらチャンスだから当然ですけどね。
なるほど。まあ、ソニー陣営からすると最大限に活かそうとしますよね。
ドーンと落ち込んで、たしかに社員がみんなショックを受けてて、でもまだ96年ぐらいは「負けた」とは思ってないんですよ。『セガラリー』も出たし、これから『ナイツ』っていう中裕司さんの新作が出る。『サクラ大戦』も出る。だからまだまだ戦えるぞ、って思ってたんですよ。
そしたら8月に『トバルNo.1』が出たじゃないですか。あの3D対戦格闘って、要はスクウェアさんがセガの土俵にあがって来たわけです。鳥山明さんがキャラを描いてたとはいえ、それでもやっぱり『バーチャ』の方が圧倒的に強い自信があったんですけど、『トバルNo.1』がアホみたいに売れちゃった! 何故かって、『FF』の体験版がついてたから(笑)。
あーー、あったあった! 言っちゃあなんですけど、『トバルNo.1』そのものは僕も「うーん……」って感じだったし、友達もハマってる様子がなかったんですけど、でも『FF』の体験版は学校の中とかで出回ってましたね。みんなが貸して貸してって言うから。
だから、あの辺で「ああ……『FF』ってこんなに強いんだ……」ってちょっと暗雲が立ち込める感じがあって。
これはよく語られている話なんですけど、93年にプレイステーションの企画が持ち上がって、94年の前半くらいにソフトメーカーさんに「ウチでゲーム作ってください」って話を持って行く中で、最初は各メーカーがピンと来てなかったのに『バーチャ』がアーケードで大ヒットしてたから、「プレイステーションなら『バーチャ』みたいなゲームが作れます」って触れ回ったらみんな飛びついたっていう。
MODEL1、MODEL2が無いからそれまで3Dゲームは他の会社には作れなかったんだ。
そう。その一方でセガは3Dゲームを当ててるとは言え、まだまだ主流は2Dのゲームだろうと思っていて、2Dのゲームも作ってまして。そんな中で『バーチャ』を作ったスタッフがナムコに行って『鉄拳』を作る、さらにスクウェアに行って『トバルNo.1』を作るっていう流れがあって、セガが作った3Dゲームの市場がどんどん広がって、それがむしろプレイステーションにとって追い風になったっていう。
セガBBSは日本のBBS史上もっともグチャグチャだった
なるほど、その辺の読み違えはセガにしては珍しいですね……。あと、ちょっとまたゲームからは逸れるんですが、同じく96年にセガBBSがスタートします。
会社のホームページの中のBBSですね。まあ、日本のBBS史上もっともグチャグチャだったと言いますか。運営の仕方を考えずにいきなり大きなものを立ち上げるとこうなる、っていうひとつの良い事例だったように思います(笑)。ある意味ではセガらしいですけど(笑)。
2ちゃんねるの元祖、なんて言われてますね。セガは「これからはインターネットだ」って早い段階から考えてて、インターネット上のコミュニティを作ろう、と考えたんですね。それでゲームとまったく関係のない、家庭とかスポーツとか、そういうありとあらゆる話題の掲示板を用意して、自由に使ってください、っていう。
そんなに荒れてたんですか?
色んな人が色んな事を好きに書くので、そのうち論争が起こったりとか。「プレイステーション最高!」って書きまくる人が現れたり。
まあその辺は今とちっとも変わらないんですよね。意見では対立してないのに、言葉使いでケンカがはじまったりとか。
その言い方はなんだ!って。
そう、マウント取りに行くんですよね。今と変わらない(笑)
晩年に僕、削除人も少し手伝ってたのですけど、まあなんとなく雰囲気で「これは良くないぞ」って書き込みを削除してたんですよね。まだ人も少なかったので割とのどかな時代ではありましたけど。とは言えこれによってセガのHPのアクセス数がとんでもない事になってて、まあセガっていう会社を知って貰うにはこういうのも必要なんじゃないかっていう。
セガバンダイ騒動、セガ社員「やった!ガンダムのゲームが作れるぞ!」
なるほど。あとは97年にCMで「せがた三四郎」のシリーズがはじまるのと、セガバンダイ騒動【※】ですね。これは覚えてます?
※セガバンダイ騒動
97年1月23日にセガがバンダイの申し入れを受け、同年10月1日に両社が合併する事を突如発表。「セガバンダイの誕生か!」と業界がザワザワするも、5月27日の記者会見で合併を取り消す事が発表された。
でもこれ、自分も「セガとバンダイがくっつくよ」みたいな話を報道で知ったんですよ。でもその数か月後に「あれなくなりました」って。僕もなんだったのかよくわかってない(笑)
じゃあそういうのって皆さんも知らないんですね。
インサイダーになっちゃいますからね。
いわゆる取締役クラスと経営管理室とか法務、総務の幹部くらいしか知らないはずですよ。開発とか営業とかはそんなの一切聞いてない。
報道のあとに一応、会社から説明はありましたね。
あったあった。バンダイさんと一緒になりますので、って。そのあとハーモニーっていう社内報の表紙がたまごっちになってた記憶がありますね。それが突然なくなった、っていう。
なんか、たまごっちがめちゃくちゃ売れて経営が改善されたからなくなったっていう噂もありますけど。
ただ、社内は割と歓迎ムードでしたよ。開発の人とかは「やった! ガンダムのゲームが作れるぞ!」って(笑)
あー確かに!セガはガンダム好きな人多そうですもんね。『バーチャロン』をガンダムでやれるわけだし。
ちょうどその時、『千年帝国の興亡』という「大戦略」を作ったスタッフの開発が終わったところだったんで、そのゲームのユニットを全部ガンダムにして「ザクはこうで、ガンダムはこんな感じで……」って、試しに遊びで作ってみたりしてました。
だから、否定的な雰囲気は全然なかったですよ。あれが実現してたらどうなってたんだろうね。
で、あとは『ドラクエ』もプレイステーションで新作出すよって発表されます。
そう。『ドラクエ』も発表から実際の発売まではけっこうかかるんですけど、この辺は1年ぐらいでばーっと来た気がしますね。『FF』の発表、発売。『ドラクエ』の発表、発売。あとは『バイオハザード』なんかも出てプレイステーションに勢いがついたんです。この辺で差がついたかなって。
ドリームキャスト投入とTVCM「湯川専務」シリーズ放送開始
で、その劣勢を跳ね返すためにいよいよ98年にドリームキャストが投入されます。で、湯川専務シリーズも放送開始。
湯川専務シリーズは画期的と言いますか、「湯川専務は売れたけど、ドリームキャストは売れなかった」とか茶化されたりしましたよね。
まあ、秋元康さんですよね。大川会長が「プロモーションは秋元さんに任せるんやー!」って号令かけて、湯川専務シリーズがはじまった。
Twitterだと、秋元さん戦犯説みたいなのがあるんですよ。「チェキッ娘」とか自分の好きなようにセガのお金使いやがった!って。
でも、秋元さんからしたら「おニャン子クラブ」も「AKB48」も当ててるのに、セガの「チェキッ娘」が当たらなかったのはセガのせいだって思ってるかもしれない(笑)。だから誰のせいとかそういう問題ではないと思いますね。
それに、ドリームキャストはハードの製造面で最初上手くいかなかったんですよ。それで湯川専務が降格ってなるんですけど。
製作費70億の『シェンムー』はもともと『バーチャ』のRPG作品だった
あと、製作費70億と言われる『シェンムー』が99年に発売されてます。
先ほども名前が出ましたけど、とにかく新しいものに挑戦して、ハードを進化させてセガを引っ張って行った鈴木裕さんが初めて家庭用ゲームソフトをオリジナルで作るという形で、それについていってたのがここに居る……。
そうですね。僕ですね(笑)。最初、『シェンムー』って『バーチャ』のRPGだったんですよ。だから主人公はアキラで。それをシリーズ化してアキラ、サラ、パイ、ジャッキーって作るぞって計画だったんですけど、発表会の直前、ほんの2,3か月前に「バーチャやめる」って裕さんが言い出して。アフレコとかもはじまっててアキラの声とか入れてたのに「やめる!」って言って全部録り直したんですよ。
セガハードを展開する中で、『ドラクエ』も『FF』も無いからそれに対抗できるRPGを作ろうと。当時セガの一番人気は『バーチャ』だったので、『バーチャ』のRPG化をやろう、っていう。
ちょうどね、作ってる時に、裕さんの考えだと「“バーチャ”の名前をつけるとバーチャファンは買うだろうし、100万本は売れる。でも、俺はこのソフトを1000万本売りたいんだ。“バーチャ○○”って名前だと100万本で頭打ちになるから新しい主人公にする」って。
なるほど……。で、130億と言われる広告費や、70億と言われるシェンムーの製作費が経営を圧迫してだいぶきつくなってくる、と。ドリームキャストはネット接続もブラウジングも出来て、めっちゃ先進的で正しく進化してる気がするんですけどね。
とにかく、ドリームキャストは「毎日電源を入れてもらうために何をするべきか」っていうのを考えて作られてるハードなんですね。ネットだと毎日メールが来るから、そのメールを見るためにドリームキャストの電源を入れて、ついでにゲームもやるかっていう。
完全に戦略としては正しいんだよな~~~。その辺の先見の明は本当にすごい……。今の家庭用ゲーム機は全部その方向に進化してますもんね。
「とにかくインターネットを軸にこのハードは展開するんだ」っていう上からの号令があって、ブラウジング出来たり、プロバイダ料を全部セガが負担して無料にしたり【※】。とにかくインターネットに繋いでもらおう、っていう。そんな中でインターネットを利用した新しいゲームを、っていうので出来た割と大きいタイトルが『ファンタシースターオンライン』なんですね。『Diablo2』がヒットしてた時代なんでああいうのをドリームキャストでも作ろうって。
※プロバイダ料が無料
ドリームキャスト専用プロバイダとしてサービス開始した「セガプロバイダ」は2000年5月まで無料でドリームキャストユーザーに提供された
あと、『グランディア』【※】がプレイステーションで発売っていうのもあります。
※グランディア
ゲームアーツが1997年にセガサターンで発売したRPGの名作。制作会社であるゲームアーツは当時、セガ陣営の有力サードパーティとしてヒット作をたくさん生み出していた。
あー、ショックでしたよ!
そう、セガのユーザーとしてはショックでした! ゲームアーツさんはインタビューとかで「セガしか見てません!」みたいな事も言ってましたから、そういうメーカーがセガから離れるような行動を取ったっていうのはショックでしたね……。でも1年も経たないうちに『グランディア2』がドリームキャストでリリースされてるので、お客さんをドリームキャストに移行させるための手段だったかもしれませんね。