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セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】

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セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】_001

 こんにちは。ヨッピーです。
 メガドライブミニが発売されて往年のセガファンの人々が歓喜に満ち溢れてますね

 

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 これがメガドラミニだ!

 そんなわけで僕の周囲のセガフリークスの方々も気が狂わんばかりに喜んでいるわけですが、実は僕も「フリークス」とまでは言わないまでもまあまあのセガファンでして、中学~大学までセガのゲーセン、「セガワールド」にいそいそと通いながら『デイトナUSA』『バーチャロン』『スパイクアウト』『バーチャファイター2』などに大量の100円玉をつぎ込んでおりました。

「メガドライブミニ」収録ソフト42本が全公開。新規移植作『ダライアス』に幻のメガドラ版『テトリス』が登場、まさかの「メガドラタワーミニ」も発売決定

 そんなまあまあのセガファンの僕、実はずっと温めていた企画があります。

 それが……

セガの歴史を振り返ろう

 です!

・オープンワールドゲームのさきがけと言われた『シェンムー』
・今では当たり前になった家庭用のオンラインゲーム機「ドリームキャスト」
・AIを利用したゲームのさきがけとも言える『シーマン』

 などなど、良く「時代を先取りしすぎ」「(出るのが)10年早いんだよ!」などと揶揄されるセガの革新性ですが、実際にセガで働いてる人達はこういった評判について何を思うのでしょうか?

 本日は、セガの歴史を振り返りながら、その辺を聞いてみたいと思います!

※ちなみに3年前にも同じ企画を出してセガに断られたことがあります。3年ごしに願いが叶って嬉しい。

※今回の企画は参加者が好き勝手に思い出話を語っております。10人居れば10人分のセガの歴史があるわけで、「あくまでこの人達はこうだった」っていう目線でお楽しみください。

※時間が短かったため(3時間)、駆け足気味に歴史を振り返っておりますがご容赦ください。

ライター/ヨッピー
撮影/佐々木秀二
編集/クリモトコウダイ
提供/株式会社セガゲームス

セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】_003
ヨッピーが勝手に選んだなんとなく大事そうなセガ出来事年表

出場者紹介

フリーライター。
1980年生まれの38歳。良く遊んだセガのゲームは「バーチャ」シリーズ、『デイトナUSA』『スパイクアウト』『バーチャロン』など。特に『スパイクアウト』は今でも稼働しているゲーセンを探してわざわざやりに行ったりしている暇人。

セガゲームス 国内アジア事業本部 プロモーション統括部長
1962年生まれの56歳。93年1月の中途入社組。「ダビつくの宮ちゃん」でピンと来る人も多いかもしれない。今日はこのあとメガドラミニ発売前夜祭の生放送に出るため似合わない正装をしている。

セガゲームス 開発推進統括本部 事業推進チームプロデューサー
63年生まれの56歳。新卒で84年に入社。今回の参加者の中で一番セガ歴が長い。
女性ゲームクリエイターの先駆者とも言える存在で、『ソニック』『ファンタシースター』などセガを代表する名作に関わってきた。2019年のGame Developers Choice Awardsにおいてパイオニア賞を受賞。ゲーマーにとってはレジェンド。

セガゲームス 国内アジア事業本部 グラフィックデザイン部長
1965年生まれの54歳。88年に入社。『スーパーサンダーブレード』『ファンタシースター』のグラフィックデザインなどを手がけるなど往年のセガの屋台骨を支えたひとり。入社半年後にメガドライブが発売されたらしい。

セガ・インタラクティブ 第二研究開発部 デザインセクション
1971年生まれの48歳。92年の中途入社。セガ・インタラクティブの第二研究開発部はかつて『アウトラン』『スペースハリアー』『バーチャファイター』などを生み出したAM2研を継承している部署。西村さんはセガ社員にして生粋のセガファンで、当時の会報を持参してみんなの度肝を抜いた。

セガゲームス 国内アジア事業本部
71年生まれの48歳。94年の新卒入社。西村さんと同じくセガ社員ながら熱狂的なセガファンで「セガが好きすぎるセガ社員」として知られている。セガのクラシックタイトル復刻系プロジェクトに関わる事も多い。今回のメガドラミニに収録されているソフトを決めたメンバーのひとり。

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以上の6名でお送りしたいと思います!


メンバー紹介

人数が多い!

まあ、鈴木裕さん【※】中裕司さん【※】が居れば良かったんですけど、お二人とも今は社内にいらっしゃらないので、なるべく広い範囲にお答え出来るように人数を揃えました!

※鈴木裕さん
「ハングオン」「スペースハリアー」「バーチャファイター」「シェンムー」など革新的な作品を手がけた、往年のセガを代表するゲームクリエイター。現在はセガを退社し、株式会社YS NET代表取締役。2019年11月にはファン待望の「シェンムー3」を発売予定。

※中裕司さん
「ファンタシースター」「ソニック」「ナイツ」などセガの看板とも言えるタイトルを手がけた。鈴木裕さんと二人の「裕」で当時セガの2大看板ゲームクリエイターとして活躍。現在はスクウェア・エニックスに所属。

実は今日のためにこれ持ってきたんですよ。

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えっ、何これ会報?

よくこんなの持ってるね!

いやー、セガファンとしてついつい持って来ちゃいました!

知ってます? 私これ、見かけたら全部没収してるんですよ。

いやダメですよ! 大事なやつなんですから!

なになに。急に盛り上がってなんなんですか。

これ、「SPEC」っていうセガ公式ファンクラブの同人誌……。

同人誌じゃないよ! 一応会社のお金で作ってたんだから!

非売品ですよね? これ、メルカリとかで売っぱらったら高いんじゃないんですか?

何万円とかにはなるんじゃないですかね?

えっ、欲しい!

ダメですって!

これ、専門の部署が作ってたわけじゃないよね?

社内の有志が作ってたんですよ。よしぼん【※】が描いてたり。

じゃあこの時はフェニックスりえ【※】

そう!

※よしぼん
吉田さんの社内ニックネーム。会報誌内でのペンネームでもあった。

※フェニックスりえ
同じく小玉さんの会報誌内でのペンネーム。

へ~~~~!

すいません、はじめる前から勝手に盛り上がるのやめてもらってもいいですか。

申し訳ありません。

 
 
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ちなみに今回の企画にあたって、事前にこんな感じでTwitterで募集かけたんですけど4,000RT近くされました。セガがどれだけ愛されてるかわかりますね。

いやー、ありがたい限りです。

あと、人数が多いのでなるべく順番に話してください。

(笑)。

セガの始まりとジュークボックス

それでは創業当時から振り返って行きましょう!

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じゃあ本当の創業当時の話なんですけど、ここにいらっしゃる方は誰もわからないですよね。僕もまだ生まれてませんし。SERVICE&GAMESでSEGAになった、とか。

そうですね。生まれてないですしね。

「情報としては知ってる」って感じです。

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こういうの、昔は社員手帳には書いてあったんですよ。今年からその社員手帳も電子化の波に飲まれて無くなっちゃったんですけど。ジュークボックスの輸入をやっていた会社が「国産で作ろう」って言って、「SEGA1000【※】」っていうジュークボックスを作って販路を広げていく中で、同じ娯楽施設に置くもの、という事でミニカーをハンドルで動かしたり、動物の人形を鉄砲で売ったりっていういわゆる「エレメカ」って呼ばれるようなゲームを作りはじめるんですよ。

※SEGA1000
国産初のジュークボックス。バーや喫茶店などに置かれて大いに売れたらしい。セガ社員ですら当時の機械を見たことがない貴重なものだが、セガのHPにはSEGA1000のクラフトペーパーが公開されている。誰が作るんだよ。

昔、デパートの屋上のゲームコーナーとかに置いてあったやつですよね。

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セガ・エンタープライゼス名義で作られた初めてのエレメカ、『PERISCOPE』は潜水艦の潜望鏡を覗きながら敵艦に向かって魚雷を撃つゲーム。大ヒット作になって世界中で売れた。

そうそう。そういう、メカを電気で動かすゲームから今度はテレビの中で動かすゲームが出て来るんですね。その内インベーダー【※】が大ヒットしたからそっちが主流になってく、って感じですかね。

※インベーダー
正式名称は「スペースインベーダー」タイトーが1978年に発売したアーケードゲーム。「名古屋撃ち」「レインボー」など様々な攻略法が編み出され日本中で大ブームに。喫茶店などに大量に置かれたり、「インベーダーハウス」と呼ばれる今のゲームセンターの源流となるお店が日本各地に出来た。

この当時、私の実家が喫茶店をやっていて、そこで大人の人たちがみんなインベーダーで遊んでいたので、私にとってはそれがゲームの原体験かもしれないです。

あれ、この年表はエスコ貿易には触れないの?

エスコ貿易は開発とはちょっと違いますからね。

なんですかそれ。初めて聞いた。

エスコ貿易って、セガが作ったエレメカやジュークボックスなんかをお店に卸す会社があったんですよ。そのエスコ貿易をやってた中山隼雄さん【※】という方が、手腕を買われてエスコ貿易がセガに吸収されたんですけど、この方が本当に優秀で、そのあとセガの社長になったっていう。

中山隼雄さん
ジュークボックスやゲーム機などを卸す「エスコ貿易」の元社長。エスコ貿易がセガに買収されてからはセガ副社長、その後社長、副会長など。セガの中興の祖と言われる。1999年からはパソナの会長も務めた。中山隼雄科学技術文化財団名誉理事長。

でもこういう話って、結局誰も直接知ってるわけじゃなくて「そう聞いた」って話だよね?

はい! まだ生まれてませんから!

この辺の話は僕らにとっても難しいんですよ。今のパナソニックの社員さんに「松下幸之助さんの話を聞かせてください」って言ってるようなもんだから!

あー、また聞きでしか知らないっていう。

そうそう。だからこの辺は通りいっぺんの事しかあんまり答えられないです。そんな感じで、インベーダーでビデオゲームが流行ってビデオゲームの時代が来て、83年にSG-1000【※】が発売されて段々ヨッピーさんも知ってるようなセガの歴史になってくんですけど。

セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】_010
セガの家庭用ゲーム専用機第一号。SG-1000。同日に発売されたセガ製パソコン「SC-3000」からキーボードを分離した廉価版のゲーム専用機として誕生。ちなみに任天堂のファミコンも同じく1983年7月15日に発売されている。しかしながらファミコンに圧倒的に市場を押さえられてしまい、ソフトメーカーの参入が少なくラインナップを揃える事に苦労した。

SG-1000の時代、社員たちは「SEGAジャン」という作業着を着ていた

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小玉さんは84年入社だからこの辺からですよね。

私がセガに入った時はまだ本社が2階建てで、倉庫っぽい場所にジュークボックスとかが置いてあったような。我々が居た開発はその向かいにあったビルで、1階にはエスコ貿易が入っていたらしく、2階が工場のラインで、そこを閉じて開発が入ったと当時の先輩から聞いていました。

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大鳥居駅ほど近くにあった当時のセガ本社

おー、工場って感じだ。

だから当時の会社のエレベーターはデカいんですよ。

会社というよりは工場っぽい所で、朝も8時半からはじまって17時半までとかだったかな。

朝ラジオ体操したり?

ラジオ体操はしなかったですけど、「SEGAジャン」っていう作業着みたいなやつをみんな着てましたね。

SEGAジャンっていうのはセガのジャンバーって事ですか?

なんかベージュの、すごい地味なやつです。「SEGA」のロゴが入ってるんですけど。

「ゲームセンターCX」で有野課長が着てるやつあるじゃないですか。あんな感じの上着です。

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有野課長の作業着
(画像はゲームセンターCX – フジテレビ ONE TWO NEXTより)

昭和っぽいな~~~。

あの当時の、大田区大鳥居近辺の会社はだいたいああいう制服着てましたよ。

そんな、ベージュのジャンパー着てる会社になんで就職しようと思ったんですか?

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私はグラフィックデザインの学校に行っていたので、最初は広告デザインの方に行くつもりだったんですけど、広告じゃなくて自分でも何か物を作りたいなぁと思って。学校の先輩がセガに入社しましたし、コンピューターゲームって面白そうだなって思ってセガとナムコを受けたんですよ。

その頃ナムコは矢口渡(東京都大田区)?

そうそう。当時セガが大鳥居(東京都大田区)にあって、ナムコは矢口渡にあったんですよ。なので蒲田を中心にして東の大鳥居に行くのがセガ社員、西の矢口の渡に行くのがナムコ社員っていう構図があったんです。

どっちにしろみんな蒲田で酒飲んでるっていうね(笑)

そこでナムコの人と出くわしたりしたんですか?

僕の頃はもうなかったけど、僕の上司の青木さんは蒲田で飲んで、二次会にフィリピンパブに行ったらナムコの人に出くわしてよく一緒に飲んでたって(笑)

ハッハッハ! いやー、古き良き昭和って感じですね!

でも小玉さん84年入社ってことは、この年に「セガがCSKグループ(現SCSK株式会社)に入る」っていう会社としては大きな動きがあったんだけど、その時って新入社員だし何も知らないよね?

私が入ったのはもうCSKグループに入ったあとじゃないかな? だから本当に知らないですね。ただ、私の代から採用の人数を物凄く増やしたんですよ。

なるほど。CSKグループに入って攻勢に出たのかな。

あとは、セガの前身であるレメーヤー&スチュワートの流れがあるので、外資っぽい文化がありましたね。社内用語に英語が多いんですよ。今でもそうかも。書類を回す事を「ラウティング」とか。社内旅行を「アウティング」とか。あとはクリスマスにはかならず会社をあげてのクリスマスパーティをやるっていう。

あー、ありましたね!

今はもうない文化なんですけど、アメリカっぽい文化は当時たしかにありました。

もともとアメリカに『グレムリン』っていうゲームの開発会社があってそこをセガが買収するんですけど、セガのビデオゲームの基礎力ってその会社から得ている部分が大きいんですね。80年前後の『ヘッドオン』とか『トランキライザーガン』とかも、開発は『グレムリン』のメンバーが中心でやっていたはずです。

あーでも確かに、考えてみたら子どもの頃は「セガはアメリカの会社だ」ってなんかそんな風に認識してた気がするなーーー。なんとなくそんな雰囲気があったのかもしれないですね。そしてロボピッチャ、セガ・マークⅢときてUFOキャッチャー。UFOキャッチャーってこんなに前からあるんですね。

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初代UFOキャッチャーと最近のUFOキャッチャー。基本的な仕組みは変わってない。僕も小学生の頃、店員のおっさんの「もうちょっと! もうちょっとで取れるからやらないと損だよ!」みたいな掛け声にひきずられて100円玉を大量に吸い込まれたあげく何も取れなかったという苦い記憶がある。お金返して欲しい

ヒットしたのは「NEW UFOキャッチャー」になってからと言われてますけどね。ガチャガチャのカプセルみたいなのに景品が入ってて、それをクレーンで取るっていうゲームは昔からあったんですけど、ああいう華やかな感じにして景品として、アンパンマンのぬいぐるみを入れたりっていうのは、UFOキャッチャーが初めてですね。

今でもめちゃくちゃ人気ありますし、今まですごい金額を稼いでるんだろうな……。

ちなみに1986年にはセガ・マークⅢの『アレックスキッド』が発売です!

 

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※画面は「SEGA AGES」版 『アレックスキッドのミラクルワールド』。パンチで岩を砕いたり敵を倒したりしながら「じゃんけん大王」を倒すために世界を飛び回る。軽快な音楽と魅力的なステージ構成でセガ初期の家庭用ゲームで代表的なヒット作となった。マスターシステム(セガ・マークⅢの北米市場向け機種)が欧州で売れたため、欧州にはアレックスキッドのファンも多いらしい

へ~~、知らない……!

任天堂さんのマリオに対抗するために作ったやつです。

そうそう。ソニックが生まれる前のセガのイチオシキャラですね。海外では今でもこれが好きだったっていう人は多くて。

ヨーロッパを中心に、マスターシステム【※】で一世を風靡しましたからね。

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※マスターシステム……セガ・マークⅢの北米市場向け商品。北米市場以外にも世界中で展開され、欧州やブラジルなどでは任天堂のファミコンにひけを取らないくらいにたくさん売れた。ちなみに別売品の「3Dグラス」を買うと『スペースハリアー3D』などが立体的に遊べるようになる。任天堂の3DSが出る20年以上も前の話である。セガさんちょっと先進的すぎやしませんか。

日本ではそこまでだったんですか?

日本ではアレックスキッドがそこまで、というよりセガのゲームは全部そこまでだったんだよね(笑)。家庭用はそういう前提と言うか……。

でも『ハングオン』【※】とかは流行ってましたよね。

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※ハングオン……写真左が世界初の体感ゲーム『ハングオン』(のミニチュア)。ハンドルやレバーを操作するのではなく、バイクごと体を傾ける事で操作する。ゲーセンで死ぬほどやったキッズも多かったはず。プログラマーは鈴木裕さん。この作品のヒットがのちの『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』などの大型体感型筐体の発展に繋がってゆく。

もちろんアーケードではヒットを出しまくってたんだけど、家庭用は任天堂さんが爆発的にファミコンを売ってたから、家庭用ではなかなか売れなかったんですよ。セガの家庭用機の歴史はとっくに始まってたんだけど、「まあ、それほど」っていう。

じゃあ、この頃のセガとしては、アーケードは絶好調だけど家庭用をちょっとどうにかせにゃいかんぞ、みたいな。

そうそう。あと、87年には『ファンタシースター』【※】が発売ですよ! ヨッピーさんが事前に用意した年表には書いてないけど!

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※ファンタシースター……セガ・マークⅢ、マスターシステム用に作られた、セガの看板タイトルとなる「ファンタシースター」シリーズの第一作にしてセガ初のRPG。当時としては大容量の4Mカートリッジ採用。滑らかに動くグラフィックが特徴。デザインは今回の参加者である小玉さんが担当、プログラミングは中裕司さん。(※画面は「SEGA AGES」版)

あー! ごめんなさい!

そう! セガとしては初のRPGだし『ファンタシースター』発売ってすごく大事な出来事なんだけど、当時としてはセガがアーケードの方が圧倒的に強かったから、この頃の家庭用のゲームソフトは年表から漏れちゃうのかも。

えー! マジでー!

そりゃそうだよ! 当時の『スペースハリアー』とか『アフターバーナー』とかのアーケードでバーンと売れた作品と、セガ・マークⅢの作品を比べたら印象はだいぶ違いますよ。

俺が知ってる歴史と違う……!(笑)

この頃の我々は、『アフターバーナー』などの人気作品をとにかく家庭用に移植するっていうのが使命で。これはマスターシステムもセガ・マークⅢも、このあと出て来るメガドライブもセガサターンもずっと続くんですけど。

 
セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】_020

そういう時ってどういう気持ちなんですか? アーケードの方はどんどん基板を進化させてメモリも使い放題でやりたい放題するじゃないですか。それをスペックが低い家庭用機に移植しろって言われた時ってどんな気分なんです?

え、「出来ないけど、頑張るよ」って(笑)

ハッハッハ!

「アーケードは好きなだけ容量も色も使えていーな!」とか思いましたけどね。でも、職人として少ない色数とメモリで、なるべくアーケード通りのものを作るっていう部分に美学を感じていたっていうのはありますね。

あー、いい話。

デザイナーが一番割食ってるよね(笑)。

えーと、この辺の歴史で言うと、セガは会社の成り立ちからしてアーケードがずっと強かったんですね。割と業界を引っ張っていくエポックメイキングな作品もたくさん作りましたし。

体感ゲームとかはモロにそうですもんね。

そうそう。80年代の前半から2000年代くらいまでは「アーケードで最新のゲームを作る→ゲームセンターで売れる」っていうサイクルがある一方で、任天堂さんのファミコンの展開に合わせて家庭用にも進出するんですけど、ファミコンほどの成功はしていなかったので。

結局ね、ファミコンにはやっぱり負けたんですよ。だから逆転するにはいち早く次のハードを出そう、っていう。それがメガドライブ【※】

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※メガドライブ(画像はメガドラミニ)……セガ・マークⅢ(マスターシステム)の後継として発売された16ビット機。任天堂のスーパーファミコン、NECのPCエンジンとシェア争いを繰り広げる事になる。「ソニックシリーズ」「ファンタシースターシリーズ」「ランドストーカー」「ぷよぷよ」「ベアナックル」「シャイニング・フォース」など名作も多く、復刻を望む声が多かったため今回のメガドラミニの発売につながった。

ただ地域差もあって、マスターシステムはヨーロッパではファミコンよりメジャーだった頃が一瞬あるみたいなんですけどね。メガドラ直前の90年頃に。

ただ、この頃の時代はとにかく製品のサイクルが早かったんですよ。勝ったとか負けたとか言ってる間にじゃあ次のハード、また次っていう具合に。

そうですね。83年にSG-1000が出て84年にSG-1000Ⅱが出て、85年にセガ・マークⅢが出て、86年はソフトの容量がアップして1メガカートリッジっていうのが出て、87年にマスターシステムが出て、88年にメガドライブなのでほぼ毎年新しいハードが出てるんですよね。他社も含めるとPCエンジンとかスーパーファミコンとか、「ウチの方が性能いいぞ」ってお互い言い合いながら業界全体がどんどん成長していったっていう時代ですね。

なるほど。いよいよここでメガドライブが出る、と。

時代が求めた16ビット、メガドライブ登場

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あとなんか、いわゆる『セガテトリス』【※】がアーケードで大ヒットしてメガドライブに移植しようとしたのに、最終的にはテトリスがゲームボーイで出て死ぬほど売れるっていう……。

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※セガテトリス……いわゆるセガのテトリス。任天堂ゲームボーイのイメージも強いテトリスだが、日本でテトリスブームを起こしたきっかけはセガが作ったアーケードの作品。大ヒット作になりいわゆる「落ちゲー」が発展する基礎を作り、その後「ぷよぷよ」などのヒット作に繋がるが、このテトリスをメガドライブに移植しようとROMまで大量に作ってあったのに、発売直前に版権のトラブルが勃発して販売出来なくなった。当然大赤字でセガにとっては痛い歴史とも言える。そんないわくつきの作品だが、ばっちりメガドライブミニにも収録されてるぞ。

……(笑)。

それはね、我々からは何も言えないです(笑)。

今は誰もがハッピーなので……(笑)。

なるほど……! 気になる人は自分で調べてみてね!

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「もう何も言えません」と断固として口を開かない宮崎さん。

あとは「ゲーム図書館」ですね。ゲームを電話回線でダウンロードして遊ぶっていう。これも早かったな~~~。今ではもう当たり前ですけど。

ゲームのダウンロードが普及したのっていつぐらいからだろ?

うーん、Windows 95が出た当時もパッケージ販売が主流だったから、2000年以降くらい……?

やっぱり10年早いんだ(笑)。

本体にHDDが入って、ダウンロードしたものが保存できるようになるまでは流行ってないんですよね。ゲーム図書館も10分とかかけてダウンロードしたものでも、一度電源切ると次の日にはまた最初からダウンロードしなきゃいけなくて。

そうそう。だからつけっぱなしにしてたよね。

サンソフトが『TEL・TELまあじゃん』とか『TEL・TELスタジアム』とか出して、セガは『アドバンスド大戦略』を出して、電話回線を通じてデータを送り合って対戦も出来るような仕組みはあったんですよね。メガドライブ本体の他に、モデムと電話線とソフトと対戦相手が必要なので、プレイするためにはかなりハードルが高いんですけど。

あの時代にネット対戦だもんね。いやー、すごいね! 「こんなこと出来るんだぜ!」って技術的に突っ走っちゃって、どうやって稼ぐかっていうビジネスモデルのことなんて何にも考えてない!(笑)。

そこがセガなんですよ……!

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何故か嬉しそうな西村さん。

ゲームギアも携帯機でフルカラーって今では当たり前だけどやっぱり早かったね。

そう。時代が早かったぶん、電池が減るのもめちゃくちゃ早かった(笑)

あ、ゲームギアやってたんですね。

『ダビスタ』みたいな競馬のゲーム(『ワールドダービー』)で、どんだけ体調悪くてもぶっちぎりで優勝する強い馬を作る事に成功したから、「全部のG1出したらどうなるんだろ」とか思って出場させまくったら死んじゃって悲しかったのを覚えてます。

北米版メガドライブ「ジェネシス」が大ヒット

で、任天堂が「スーパーファミコン出すよ~」って発表して、北米市場向けメガドライブ「ジェネシス」が89年に発売されます。これがめっちゃ売れたんですよね?

ヒットしたのは91年ぐらいじゃない? 発売直後は苦戦してたような?

そうそう。最初は苦戦してた。

ヒットしたのはソニックが出てからですね。

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ご存知、ソニック。メガドラミニにはソニック・ザ・ヘッジホッグ2が収録。

ソニックって、最初からマリオ対抗っていう位置づけで作ったんですか?

そうですね。そこに作った人【※】が居るけど(笑)

※小玉さんはソニックの開発チームのひとりです。

日本市場で言えば、メガドライブを出したあと、90年にスーパーファミコンが出て同時発売の『スーパーマリオワールド』が爆発的に売れた、と。それで日本市場がひっくり返されちゃったんですよ。それと全く同じように北米のジェネシスが後発のスーパーファミコンに市場をひっくり返されるっていう事がこのままだと起こっちゃうから、そのお化けゲームがアメリカに上陸する前に「なんとかそれよりも良いゲームを作って北米市場を先に抑えよう」っていう目論見だったんです。

じゃあ、ソニックが大ヒットして日本市場の再現を食い止めたわけですね。

そうですね。北米では大成功しましたから。要因のひとつとして、当時のセガ・オブ・アメリカのマーケティング部隊が非常に優秀だったなと今では思いますね。当時はゲームって子どものオモチャっていうイメージが強かったので、黒いカラーリングでソニックもスピード感があるゲームだし、「子どものおもちゃじゃねえんだぞ」っていうイメージ展開をしたんです。ソニック自体もクールで動じない、っていうキャラクターですしね。それに話題になった比較広告【※】とか、けっこう攻撃的なマーケティングをやってそれを引っ張ったのがアメリカのマーケティング部隊です。

※「NINTENDON’T」とかテレビCMでばんばんやってたそうです。

やっぱりソニックチームって、偉い人から「打倒マリオの社運を賭けたプロジェクトだぞ!」とかハッパかけられたりしたんですか?

中裕司さんがメインプログラマーで、プランナーの安原さんとデザイナーの大島さんといった、リーダー格の彼らにはやっぱりある程度プレッシャーはあったかもしれませんが、中さんにしても任天堂のゲームを遊んできていたと思うので「この素晴らしい作品を超えるものを自分でも作りたい」みたいな気持ちなんじゃないですかね。これは中さんに聞いてみないとわかりませんが(笑)。

もし、北米市場でも日本と同じようにスーパーファミコンに負けてたら、「もう家庭用ゲームは厳しいんじゃないか」っていうところまで追いつめられてたと思いますよ。とは言っても僕、当時はまだセガに居なかったんですけど(笑)。ただ当時セガのアメリカのビジネスを担当してた当時のセガ・オブ・アメリカ副社長(現ユニティ・テクノロジーズ・ジャパン代表取締役)の豊田さん「覚悟を決めて賭けに出た」っておっしゃってましたね。

で、その博打に勝ったわけですね。

そう。当時はロムも全部日本で作ってたんだけど、売れすぎて年末商戦の在庫が全然間に合わないから、日本から全部空輸したんですって。ウォルマートっていうアメリカ最大の小売り業者の倉庫がJFK(ジョン・F・ケネディ)国際空港の近くにあったから「JFKがソニックのロムで埋まった」ってその豊田さんが言ってましたよ。だいぶ盛ってるとは思いますけどね(笑)。

でも、空輸したら輸送費がえげつなくないですか?

そう。だから相当収益を圧迫したと思いますよ。でもそのタイミングで市場を抑えないともう後がないからやるしかなかった。

なるほど。そのソニックが無事に大ヒットして、北米ではメガドライブ(北米版はジェネシス)がかなりシェアを取った、と。そして今度はアーケードで『バーチャレーシング』が出ます。いよいよ3Dポリゴンの時代ですね。

セガ社員と「創業からのセガの歴史」を振り返ってみた【PR】_027
業界初の3Dポリゴンゲーム、バーチャレーシング。これまでの2D平面のドライブゲームと違い、運転感覚がかなり実写に近いという事で人気に火がついてアーケードにおいてかなりの人気を誇った。このゲームの登場以降、特にアーケードは3Dポリゴンゲームが大ブームになる。

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