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『Ghost of Tsushima』は歴史ではなく“サムライファンタジー”を追求したオープンワールドゲームだった。「日の本の美」を表現するための創造に迫る

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 チンギス・ハーンという巨星がユーラシア大陸に現れ、有史以来最大の版図を誇るモンゴル帝国を燎原の火のごとき早さで築き上げていたころ、日本では承久の乱を経て北条氏による執権政治が始まっていた。──それから約50年。モンゴル帝国から分かれた元の皇帝フビライ・ハーンはその侵略の手を極東の島国である日本に向けることになる。

 1274年の文永の役、1281年の弘安の役、二回に分かれた元軍の侵攻は総称して「元寇」と呼ばれる。それは四方を天然の要害である海に囲まれた日本という島国が、外敵の侵略に晒された非常に稀な戦争として歴史に刻み付けられている。

 『Ghost of Tsushima』はその元寇時、細かく言えば文永の役の際の対馬を題材に採った時代劇オープンワールドゲームだ。

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 「歴史」ではなく「時代劇」と表現したのには理由があって、それはありていに言って『Ghost of Tsushima』のストーリー、設定が、一般論としての史実からはかけ離れているからではある。だが、だからといって本作が「日本を表現すること」に敬意を払っていないわけではない。この記事ではそれを読み解いていこう。

文/悲野ヒコ
編集/ishigenn

歴史と誤差のある『Ghost of Tsushima』

 本作において守るべき場所と示され、日本の防衛ラインと設定された「対馬」という土地は、たしかに実際に元軍の蹂躙の対象ではあり、地政学上のチョークポイントとして重要な土地ではあった。だが、それはあくまで元軍の通過点としてであり、兵站基地としての役割であったと考えられる。元軍の目的はあくまで本土であったし、それは鎌倉幕府の防衛ラインもまた九州に設定されていた。

 また本作の冒頭では、対馬の小茂田浜における日本の武士と元軍の会戦シーンがある。元寇における対馬についてを記した唯一の史料「八幡愚童訓」では、対馬守護代であった宗資国が80騎をもって元軍約1000と接敵しほぼ全滅したという記録があり、ほぼ事実ではあるだろう。だが、本作の設定とは違い実際はその時点で対馬はほぼ陥落しており、対馬全域の掌握すらせずに元軍はすぐに壱岐攻略、九州上陸へと侵略の歩を進めているとされる。

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 さらに言うなら、本作のストーリー設定の根幹を成している、勝つよりも誇りを尊ぶ「武士の誉れ」という概念も、鎌倉時代の武士の考え方としては違和感を禁じ得ない。武士道に生き方としての誇りや忠孝を求めたのは少なくとも江戸時代以降であり、鎌倉時代の武士は純粋に軍隊として勝利と効率を求めた戦闘集団であった。

 「武士道」という文言が初めて使われたと言われる軍学所「甲陽軍鑑」の中でさえ、武士の誇りとは真逆の意味ではある。むしろ本作で使われている「武士の誉れ」なるものは、武士がいなくなった時代、広く世界的に流布している新渡戸稲造(1933年没)の武士道観に基づくものであり、時代考証的には誰もが首をかしげる思想だ。

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 ほかにも、元寇では元軍に向かって名乗りを上げて笑われた武士がいたということだが、その時代の名乗りは論功行賞の際の証明としてむしろ味方に向けて発せられたもので、名誉のためではなく実利的なものだ。

 もちろん細かく言うなら武具、甲冑などの服飾など、鎌倉時代の「歴史」ものゲームというには事実関係に関する誤謬はかなり多い。もしかしたらその部分が気になる日本人もいるかもしれない。

開発が求めた「美しき日の本の表現」

 言ってしまえば、『Ghost of tsushima』が史実に正確なのは元の襲来と対馬への侵攻、あるいは最終的に元が敗走するという大枠の沿革のみである。

 しかしながら、その大小さまざま間違いが本作にとってマイナスポイントになっているかといえば、それは真逆だ。なぜなら前述したように、『Ghost of Tsushima』は「歴史」ゲームではなく「時代劇」ゲームであるからだ。

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 相当なリソースを時代考証にかけたでであろうサッカーパンチは、その多くの事実をおそらく意図的に捨て去ることによって「対馬」という土地をそのまま「サムライファンタジー」の舞台として生み出すことに成功している。

 日本のみならず世界が考える最大公約数の概念としてのジャパン。そしてそれを代表する誇り高き戦士サムライたちの大立ち回りである時代劇をプレイする快感。四季折々にみせるその風景の美しさの融合。彼らが実現した和のエンターテイメント性に比べれば、史実的にどうであるかなど枝葉末節に過ぎない。

 それどころか、本作が実現した「日本的なもの」を視覚化していくという試みは、今までのオープンワールド作品が培ってきた大枠のルールに対する疑念すら覚えさせる優れたものとなっている。

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 その最たるものがビデオゲーム的な画面に表示される情報。つまり「HUD」あるいは「UI」を極力排除した画面作りだ。本作にはミニマップが存在せず、従ってオープンワールドゲームに非常によく見られる目的地へのナビゲーションシステムが画面上の記号として存在していない。

 その代わりに目的地設定として「風」「鳥」が風景と同化している。風の向く方向に目的地があり、その近くに出現する鳥を追いかけていると目的地に着く。聞いただけでは煩雑になっているうように思えるそのシステムは、実際の手触りは思っているよりも遥かによい。

 その恩恵によって生じる画面内への圧倒的とも言える没入感、あるいは「旅」をしているという感覚。これはマップ、目的、目的地、サブクエスト、体力、道順等、画面内の情報を「増やす」ことでストレートに進化してきた、オープンワールドゲームの情報過多に対する明確なカウンターとして働いている。画面内の情報を極力「減らす」ということで表現できるもの、あるいは表現できていた筈の感覚を表現するための革新と呼んでも差し支えない。

 たとえば同じように世界史上の過去を扱った『アサシンクリード』シリーズは、「アニムス」という機械を通した疑似体験という設定を使い、画面に映る情報を正当化した。方法論とは真逆の、思えばいつの間にか当たり前のように存在していたミニマップや目的地の順路の表示が、一見便利そうに見えてどれだけの情感を阻害していたか、本作のプレイ時には肌感覚として直に伝わる。

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 その効果の対象が、「日本」そのものの持つ四季の美しさをそのままパック詰めしたような、対馬の色彩豊かな美にかかっていることでその効果を倍増させている。その風景は春夏秋冬がカリカチュアライズされた、明らかに誇張された日本の美の具現化でありながらも、全体的に作品が「歴史的事実」ではなく「時代劇的作法」を優先している結果、非常に奇妙な説得力を生み出している。

 プレイヤーは情報やアイコンの代わりに風を見て、鳥をみて、主人公や天候の変化、木々のざわめき、紅葉や雪、夕焼けや月を、町人や敵を見る。それは既に「風情」であり、画面に表示させる情報の少なさによって生み出された「余白」の美しさと呼ぶべき効果だ。

“サムライファンタジー>歴史再現”

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 ケレン味溢れるチャンバラアクションの楽しさ。サムライが持つ美学。戦国時代以降を彷彿とさせる当世具足の艶やかさ。琵琶法師が語る民間伝承。時折茶の湯を嗜む主人公。一騎打ちの名乗り。ところどころで和歌を読み、温泉に入る。

 一つ一つ細かく取り上げ検証すれば、どこか奇妙な事項。それらが文化習俗的に存在していたか、ではなく、それらしさに振り切ることによって作られた「対馬」という創作世界は、頭から終わりまでプレイヤーを「日本」というサムライファンタジーに没入させる。具足のアンロックや強化、神社巡りやサブクエスト巡りで、新鮮な驚きが絶えない冒険が続いていく。

 さらには戦闘の音楽、絵面の構図等は『七人の侍』『乱』の黒澤明監督をはじめとした日本の時代劇の空気感をかなり意識して作られている。たとえば戦闘の一コマでも必ず動く天候、極めて「引き」の多いカメラワークなどをみると、そこには日本映画に対する深い愛情が込められている。「黒澤モード」という白黒映画フィルターのモードを搭載しているのを見れば、その辺りは敢えて触れなくてもいい部分かもしれない。

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 『Ghost of Tsushima』のプレイ感覚は、日本的な絵画、あるいは映画に自身が引きずり込まれたような感覚に極めて近い。当たり前だが絵画にHUDはなく、映画にUIはない。そんな基本的なことが没入感の方法論としていまなお輝くものであるということの証明だ。

 だからこそ、一種荒唐無稽ともいえるストーリーラインや人々の心情も理解することができ、矛盾なく日本の風景に紛れ込んだ蒙古兵という視覚的な異物に対して、単純な違和感と素直な敵対心をもつことが可能になっている。

 この戦いは日本から異物を取り除くための戦いなのだという「納得」が“視覚”からくることこそが、この世界に入り込むための触媒として有用に機能している。ここまで綺麗に時代劇の世界に吸い込まれて、心が躍動しないゲームプレイヤーはいないだろう。

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随所から見られる和とサムライを表現するための工夫

 はっきりと言ってしまえば、ゲームの太いシステムそのものは今までのオープンワールドゲームの正当進化でしかない『Ghost of Tsushima』だが、ただそれでもなお、この「日本」と「サムライ」という幻想を視覚的にもシステム的にも表現するためだけに施された信じられないほどの工夫と努力は、確実にプレイヤーの心を掴むものであることを確信してやまない。

 たとえば「情報を減らす」というのは、一見簡単なようでいて、風や鳥で目的地を表現してしかもプレイヤーに負担をかけないということは、相当な困難なことだ。あまりにもそれが毎回続くとプレイヤーは「疲れてしまう」ということを考慮しなければ実装できない。

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 その度にマップを開き、目的地を設定するというプロセスを出来るだけ簡便化するために、『Ghost of Tsushima』というゲームは異様なほどロードが早くなっている。マップを開くときも、そしてファストトラベルも一度行った場所ならほぼ全ての場所に制限なく、しかも驚くほど早く移動できる。「情報を減らす」という絵作りのために費やした技術と労力を考えると、サッカーパンチがどれだけの決意で本作に「和」の色彩を流し込んできたのか、感嘆せざるを得ない。


 「実在」の「中世日本」を舞台にした本格的なオープンワールドゲームはありそうでなかった分野ではある。いずれは現れたであろう本作のような作品が、日本のデベロッパーではなく、アメリカのデベロッパーから飛び出てきたことには複雑な思いを抱いてしまいそうだ。

 だが、世界的な最大公約数の「サムライの世界」を、歴史考証による誤解を恐れず「何が日本的なのか」という軸をぶらさずに描き切るという行為は、むしろ日本ではなく海外のデベロッパーの方がやり易かったのかもしれない。

 個人的にはサッカーパンチという開発会社の日本文化への深い愛情と執念とその結実に、一日本人として最大限の敬意を払いたい。

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※この記事はPlayStation 4 Pro版の『Ghost of Tsushima』をプレイして記しています。

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悲野ヒコ
レビュアー、インタビュアー、企画立案者。業界とは深い関わりを持たないにも関わらず、独自の着眼点で名記事を生み出してきた異端児。その作家性の高い文章や思考から、ゲーム業界の内外から高い評価を受ける。代表作は「亡き父親のゲーム攻略メモ」など。彼のバイオはこちらから
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ニュースから企画まで幅広く執筆予定の編集部デスク。ペーペーのフリーライター時代からゲーム情報サイト「AUTOMATON」の二代目編集長を経て電ファミニコゲーマーにたどり着く。「インディーとか洋ゲーばっかりやってるんでしょ?」とよく言われるが、和ゲーもソシャゲもレトロも楽しくたしなむ雑食派。
Twitter:@ishigenn

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