私が「電ファミニコゲーマー」に記事を寄稿し始めてから随分と月日が経ったものだが、その中でも特に多かったのは「ソウルライク」ゲームに関する記事である。
以前にも書いたが、私は特段ゲームが上手いというわけではない。ソウルライクのような「死にゲー」はどちらかと言うと「苦手」の部類に入る。
しかし、今となってはすっかり「ソウルライクまあまあできますプレイヤー」になってしまった。慣れと上達というのは本当に恐ろしいもので、記事を書くためにさまざまなソウルライクに触れていくうちに、私はこのソウルライクシステムに段々順応し始めているのである。具体的に言うと、回避やステ振りのやり方に「やってるヤツ」感がにじみ出てきた気がするのだ。
なんでこんな自分語りを急に始めたかと言うと、今回インプレッションを書くことになったゲームもまたソウルライクだからである。ここまでソウルライクタイトルを任せていただけるとなると、いよいよ私も「ソウルライクライター」として編集部に認知され始めているのではと勘違いしてしまいかねない。
そこで、私は今回そんな自分を改めて「ソウルライクを遊ぶ」に足る人間か問い直すため、全力でこのゲームに臨ませていただくことにしたのである。
タイトルは『The Last Hero of Nostalgaia』という、インディーソウルライクである。どれほど難しかろうが関係はあるまい、私の成長をこのゲームで見せてやろうではないか!
・・・なんですか?これは。
文/植田亮平
世界初?の「ソウルライク」パロディ
私の目の前に現れたのは、10本の直線で表現されたキャラクターと呼ぶのもはばかられる「何か」であった。
いや、「何か」の正体は私だって分かっている。これは紛れもなく本作で私の分身となる主人公である。この画面レイアウトで右側に関係ない「何か」が存在していい訳がないのだから。
ちなみに補足しておくが、画面左側のスライダーをどれほど動かしても右側の「私」の見た目はなにも変化しない。この時点で私は全てを察した。
何はともあれ、なんの意味も持たないスライダーを動かし、出自(これは能力だからちゃんと反映されるよ)を選んで、いよいよゲームスタート。
ゲーム開始直後、巨大な城をバックに、ナレーションの厳かな語りで物語が始まる。
おお、これこれ。そうだよな、やっぱソウルライクってのはこうじゃないとね。
・・・。
すでに皆さんお気づきだろうと思うが、あえて説明させていただくとしよう。
そう、本作『The Last Hero of Nostalgaia』は、ソウルライクもとい、ソウルライクを題材にした「ソウルライクパロディ」ゲームだ。ソウルシリーズが大好きな開発者たちがソウルシリーズや様々なゲームの要素をパロディ化し、最高にFunnyなゲームとするべく制作したのが本作なのである。
ちなみに、冒頭の厳かなナレーションは束の間に過ぎず、「カット、カット!」という一声の後は、あらゆる場面で私をからかい中傷まがいの罵倒を浴びせてくる陰険な司会者へと変貌する。並々ならぬ想いで今回のプレイに臨もうとした私がなぜこのような仕打ちをうけねばならないのか。
とはいえ、私はこのようなパロディゲームが嫌いではない。むしろ好きである。「ビデオゲーム」そのものを作品テーマの根幹に置くビデオゲームというのは私の大好物だ。かつて『The Stanley Parable』を初見で遊んだ際、私はその面白さに腰を抜かし、しばらく椅子から立ち上がれないという経験をしたことがあるが、本作のナレーションの語り口はまさしく『The Stanley Parable』におけるナレーターのそれである。
チープさとおふざけたっぷりの世界観
さて、完璧な「掴み」で始まった本作であるが、実際のゲームプレイ画面は次のようなものである。
あまりにもチープ過ぎて一瞬目を疑うが、画面構成がしっかりソウルライクなのが腹立つ(※これは最大限の誉め言葉です)。
ひとつ付け加えておくが、本作の世界観は意外と凝っている。Steamのストアページに書かれたあらすじは次のようなものである。
「ビデオゲームの世界「Nostalgaia」(ノスタルガイア)は、謎のピクセル化現象によって「下位互換」してしまった、あらゆる粒子の忠実度がボンヤリおかしくなってしまったのだ。もはや大事な大事なゲームの思い出の数々までもが、忘却の時を待つのみとなった。だがしかし光が弱まり、炎が消えゆき、世界は破滅目前と思われた刹那、希望がその姿を現した。」
「希望」とはまさしく「主人公」のことである。ただ、画面中央にぼんやりと立っている主人公がここまで簡略化されているとなると、この「下位互換」の影響は並々ならぬ脅威であるに違いない。事実、このゲームのロケーションはその殆どが非常にチープで簡素なものになっており、まるでゲームエンジンを触り始めた初心者が作ったアクションゲームの如き様相を呈している。
ソウルライクと言えば基本的にハイクオリティなグラフィックが前提となっている節があるが、本作でその気配は見られない。どこにいってもハリボテのような建物とドット化したオブジェクトで埋め尽くされており、肩の力が抜けるような「のほほん」としたもので溢れかえっている。
しかしこのビジュアルを初心者が実際に作るのは至難の技であろう。少し目を凝らせば、この意図的な「チープさ」はむしろ初心者では決して出せない質感であることが分かる。
本作では「簡素化されていくゲーム世界を取り戻す」というストーリーの性質上、プレイヤーが篝火に触れると篝火の周囲が「ハリボテ」から美麗な3Dモデルに変化するという演出があるが、これは本作のビジュアルが「騙し絵」であることを強調するのに一役買っている。
「素人っぽさ」と「実際に素人である」ことが違うように、本作の見た目のバカバカしさはむしろ、本作のビジュアルが非常に優れたセンスを持って作られていることの証左でもあるのだ。
と、このメタ的ビジュアルのセンスについて褒めたが、それにしても、この「世界観」のふざけ倒しっぷりはいい意味で度を越えていると言わざるを得ない。それはあらゆる場面に登場するパロディ要素を見ればすぐに理解できるであろう。
まず、各ダンジョンには必ずNPCの「楽屋」がある。しかも楽屋にはプレイヤーが出入りできるものも多く、「鍵くらいかけろよ・・・」と思わず突っ込みたくなる防犯意識である。楽屋の中には必ず「NPC標語」があり、楽屋からダンジョンという舞台に上がるNPCへ向けた様々な心得が壁に書かれている。
こうした標語を胸に私と対峙することになるNPCの心痛を思うと本当にいたたまれない。こんなことなら楽屋になんて入らなければよかったと思うばかりである。何度も言うが、鍵くらいかけとけよ。
そして、特定のゲームを基にしたパロディも非常に多い。比率として最も多いのはソウルシリーズのパロディであろうが、悲しいかな、私はソウルシリーズについてあまり明るくない。しかしクリア後に各種サイトを覗いてみると確かにそれっぽいなと思えるシーンが散見されたので、とりわけソウルシリーズファンはこのゲームでニッコリできるかと思われる。
ソウルシリーズ以外では任〇堂関連のパロディが特に多かった。それもかなり露骨なパロディが多く、任〇堂法務部が少し力を込めればあっさりと逝ってしまうかと思われるようなかなり攻めたものが多い印象だった。
幸い本作はNintendo Switchにも展開されているので怒られる心配は全くないのだが、それにしてもこのようなギリギリの攻めは他では滅多に見られない。
これら以外にも様々なパロディ、おふざけ要素が溢れており、そしてそれ自体がこのゲームの世界観を基礎づけている。このようなおふざけ全開の世界観は、ゲーマー諸兄にとっては一見の価値ありだと言えるだろう。
個人的に面白かったのは、ゲーム上でナレーターが機関車を召喚してくるというトラップだ。私の予想ではこれは機関車トー〇スMODのパロディではないかと勘ぐっているが、その真相やいかに・・・。
ゲーム部分はあまりにも「ソウルライク」
ここまで見た目がおバカなら、ゲーム内容もショボいものになってんじゃないの?と訝しがる方もおられるだろうが、それは全くの誤解である。本作はその辺のソウルライクよりもずっと「ソウルライク」だと感じられる部分がある。
まず、基本的な操作体系は全てフロム系作品のものに準拠している(ダッシュだけはなぜかL3ボタンだが)。ややこしい戦闘システムはつけておらず、基本的にフロム作品を遊んだ人なら一発で理解ができる。
そしてここが驚いたポイントなのだが、本作はそのシステムの触感まで忠実に真似ようと試みている。どういうことかというと、例えば剣を振ってから攻撃が繰り出されるまでの微妙な遅れや、敵の遠距離攻撃をガードしたときの若干の仰け反り、装備を着込みすぎたときのローリングの遅さ等、あらゆる動作のリズムが『ELDEN RING』の「それ」と非常に近いと感じたのである。
また、各エリアに上手く接続されているショートカットを開通させる瞬間や、道中に残されたメッセージ等の要素は、まさしくソウルシリーズの正統フォロワー的な趣を感じた。
そもそも本作がソウルシリーズの明確なパロディであるという前提からして、制作チームはかなりの「ソウルシリーズオタク」なはずである。そして私はゲームプレイの「リズム」に、そのオタク的な「愛」を見出した。これは素人に出来るものではない、間違いなくシリーズを愛した人間の作品である、と。
ただ、触感が忠実であることとゲームプレイのクオリティはあくまで分けて考えたい。触感がフロムっぽいというだけでは素晴らしいソウルライクになれないのは当然であり、その点において本作はいくつかのピーキーなポイントを持っている。
まず、難易度自体がかなり低く設定されているという点。これは私が上手くなりすぎたのか!?と一瞬自惚れかけた部分だが、多分このゲームの難易度は客観的に見ても他のソウルライクより「ぬるい」だろう。「敵も結構ローポリな奴が多い」という事情があり、それ故複雑なアニメーションが少なくなり、結果的に攻撃が単調になってしまっているというのは本作の戦闘部分に常に伏流している特徴だ。
もっとも、本作はまず「パロディ部分を魅せる」ことが本義であるはずなので、難易度が高くないということ自体はそれほど問題でないように私は思う。面白おかしくネタゲーとして遊ぶという点で考えればむしろこの難易度の低さは長所と見るべきであろう。
そしてもう一つが「篝火から篝火に飛べない」点。基本的に道中は一本道であり、エリアを攻略する順番も完全に固定されているため、他のエリアに行きたい場面というのはそれほど多くないのだが、それでも正直いってこのシステムの仕様が本作の最もマイナスに映る部分だと私は思った。しかし聞いたところによるとこれは後々アップデートで解決されるらしいので、まあ許容範囲と言ったところだろう。
そしてここからは最も「オリジナル」な部分について話そう。本作において、武器は基本的に本来の力が封印された状態で手に入る。「レリック」と呼ばれる鍵がかかった状態である。
これを解くためには、武器ごとに定められた特定の場所に赴き、メニューから武器のメモリを取り戻す必要がある。メモリを取り戻した武器はビジュアルが簡素なドット絵から3Dモデルに変化し、新たな能力を獲得する。
また、それに伴い武器ごとのフレーバーテキストを読むことができるようになる。その武器の来歴が知れるというわけである。これはゲーム用語のメモリと武器の記憶(メモリー)をかけたものであろう、なかなか粋なことをしている。
おそらくこの武器のメモリを取り戻す要素が本作の「やりこみ」の肝のようだ。武器の種類はそこそこに多く、メモリを取り戻す作業量もそこそこに多い。その分それぞれのフレーバーテキストは面白く仕上がっているので、これを探すためのプレイも楽しそうである。
ギャグ半分、愛半分のソウルライク
かように、本作はギャグ全開のおバカなパロディゲーという基本的姿勢を貫きつつも、その内面にはソウルライクとしての確かな野望も秘めている。まさしく「ソウルシリーズへの倒錯した愛」とでもいうべきゲームである。
もっとも、最初のキャラクター作成画面から分かっていたことではあるが、本作は基本的に「出オチ」のゲームである(そう、この記事の構成と同じように)。そしてその「出オチ」は物語終盤までずっと続いていく。このブレない姿勢と徹底したパロディにまずは賛辞を贈りたい。そして「記事冒頭に意気込んだ私の気持ちを返してほしい」という恨み言を送りたい。これは結局、私自身もこのゲームへの倒錯した愛を持ってしまったということなのだろうか。
思えば、このゲームの冒頭から私にずっときつく当たり散らかしてきたナレーターも、物語が進むにつれてどんどんと私への語り口が変わり、己の心情を吐露し、そして・・・という展開になっていった。彼(ナレーター)もまた、私(プレイヤー)に対する倒錯した愛を持った人物なのかもしれない。人は誰しも皆、倒錯しているのだ・・・。
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