「これだけ面白いものは捨てられない」
「世の中に出さなくてはならない」
「(開発中止になったとしても)自分のお金でもいいから復活させたい」
『ダンガンロンパ』シリーズを代表作とし、近年は『超探偵事件簿 レインコード』(以下、『レインコード』)や『HUNDRED LINE -最終防衛学園-』(以下、『ハンドレッドライン』)、『終天教団』といったオリジナルコンテンツを手がけるトゥーキョーゲームス代表の小高和剛氏。
そんな小高氏がこれまでに手がけたオリジナルコンテンツの企画を実現させるにあたり、最も意識したのは「作り手の愛」、そして「どうしてもこれを世の中に出したい」という執念だった。
そういった小高氏のオリジナルコンテンツを生み出すに当たっての考え方についてのセッションが、2025年11月29日開催の「CEDEC+KYUSHU 2025」にて実施された。
セッションには小高氏のほか、株式会社サイバーコネクトツーの代表取締役社長である松山洋氏をモデレーターとして迎える形で進行。
自己紹介では最近、中国でインフルエンサーとして活動していることが語られた小高氏。その過程で現地に行った際に人が集まりすぎ、危うく逮捕されかけたことを松山氏よりツッコまれる一幕もあった。
小高氏がゲームクリエイターになったきっかけや、これまで手掛けたタイトルへの想いが語られた本セッションの詳細をレポートする。
小高氏がゲーム会社への就職を決断したのは、アルバイト先の大学生からの痛烈な反論が原因だった
セッションは小高氏のこれまでの歩みから始まり、直近の新作『ハンドレッドライン』と『終天教団』をテーマにしたオリジナルコンテンツ(以下、オリジナルIP)の作り方を紹介する構成で進められた。
最初のこれまでの歩みでは、学生時代とフリーター時代、そしてスパイク(現スパイク・チュンソフト)へ入社し、ゲームクリエイターとして歩み始めた「3つの時代」の遍歴を順を追って紹介。
小高氏には10歳以上年上の姉がおり、子供の頃から様々なアニメ・映画を見せられてはトラウマを植え付けられていたそうだ。
また、中高時代が男子校だった影響で“カルマ”が溜まりに溜まった話、映画好きの友人から聞いた「映画で勉強ができる」との話に惹かれて日本大学芸術学部へと進学した話が一部ピー音【※】交じりで取り上げられた。
※……タイムシフト視聴時限定。現地参加者は無しで聞けたとか、聞かなかったことにしようとしたとか。
そんな小高氏が初めてゲームに絡む仕事で関わったのが、2002年にカプコンより発売されたホラーアドベンチャーゲーム『クロックタワー3』(PlayStation 2)のモーションキャプチャー制作だった。
大学の教授よりその仕事を紹介された小高氏は、当時存在したカプコンの子会社「フラグシップ」【※】1に所属。制作現場の監督を務めた深作欣二氏【※】2の下で働く。
※1フラグシップ……シナリオ制作を専門とするカプコンの子会社。『クロックタワー3』以外では『バイオハザード2』『鬼武者』『ゼルダの伝説 ふしぎの木の実』といったカプコン開発タイトルの多くでシナリオを担当。後年にはゲームの企画・開発にも進出し、『星のカービィ 鏡の大迷宮』などのタイトルも手がけた。2007年、カプコンに吸収合併される形で解散。
※2深作欣二(ふかさく きんじ)……映画監督・脚本家。代表作に「仁義なき戦い」シリーズ、『トラ・トラ・トラ!』『柳生一族の陰謀』『バトル・ロワイアル』など多数。『クロックタワー3』では主にイベントCGムービーの監督を務めた。2003年逝去。
しかし、その現場があまりにも過酷すぎたことから、小高氏はフラグシップを1年ほどで辞め、「自分の作品を作りたい」との思いを秘めつつ、中古ゲームショップのアルバイトで糊口をしのぎながらインディー映画作りを開始する。
小高氏は最終的に2本の映画を作り、とある映画祭で入選するも、映画の仕事は大賞を獲ってはじめて仕事をもらえる例が大半だったのもあり、その道を断念。フリーターとしての日々を送ることになる。
そこからなぜ、スパイクに入社してゲームクリエイターになったのか? きっかけは当時、小高氏とともにアルバイト先で働いていた大学生からの反論だったという。
ある日、その大学生がミスをしたことに対し、小高氏は「そんなんじゃ社会でやっていけないぞ!」と叱ったところ、「小高さんは社会に出ていないじゃないですか!」と返され、がく然となったとのこと。
その反論を受け「ちゃんと生きなければならない」と就職を決意した小高氏は、当時フラグシップ時代に知り合った人物からゲームシナリオ制作を手伝う仕事も都度引き受けていた流れから、ゲーム会社への就職活動をおこない、最終的にスパイクへと入社した。
版権ゲームの制作を経て『ダンガンロンパ』を企画。「残酷すぎる」と社内で却下されつつも、社長に直談判して許可をもぎ取る執念が名作を生んだ
小高氏がスパイクを選んだ理由としては、同社が『喧嘩番長』『侍道』といった尖った作品を出していたことから、「ここならオリジナルの作品を作れるかもしれない」との可能性を感じたのが大きいとのこと。当時29歳だった小高氏にとって、素早く活躍できる環境が求められていたのも理由として大きかったという。
ただ、小高氏が入社後に担当したのは版権ゲームのシナリオ手直しとスクリプト作業。スパイクは版権ゲーム制作の仕事も請け負っており、オリジナルゲームの制作ではなくそちらのチームへの配属になったという。
そんな小高氏だったが、2009年発売の『名探偵コナン&金田一少年の事件簿 めぐりあう2人の名探偵』【※】で、自身の手がけたシナリオが社内で高く評価されたことから、スパイク内で「小高氏にオリジナルの企画をやらせてみよう」との話が出る。
※『名探偵コナン&金田一少年の事件簿 めぐりあう2人の名探偵』……バンダイナムコエンターテインメントより2009年2月に発売されたニンテンドーDS向け推理アドベンチャーゲーム。『名探偵コナン』と『金田一少年の事件簿』のクロスオーバー作品。
小高氏は既に次の版権ゲームのプロジェクトへの配属が決まっていたため、仕事が終わった後のサークル活動的な形ではあったものの、小高氏は当時、版権ゲームでUIデザイナーを担当していた小松崎類氏【※】と意気投合し、オリジナル作品の企画書の制作を開始。
※小松崎類(こまつざき るい)……『ダンガンロンパ』シリーズ、『レインコード』、『ハンドレッドライン』などを代表作とするイラストレーター兼キャラクターデザイナー。現トゥーキョーゲームス所属。
そこで「バトルロイヤルと推理要素を組み合わせた学園モノ」という、後の『ダンガンロンパ』の原型となるアイディアを電撃的に閃き、社内の評価会でマーケティングや営業、プロデューサーの前でプレゼンする。だが「いじめを助長する」「残酷すぎる」などの厳しい指摘が相次ぎ、却下されてしまう。
それでも諦めきれなかった小高氏は、当時のプロデューサーである寺澤善徳氏からのアドバイスを受け、背水の陣で社長に直談判。すると「いいんじゃね?」と即決され、『ダンガンロンパ』の本制作がスタートしたという。
なぜ即決されたのかは、社長に直接言いに来る人が珍しかったことから、その気概を買ってくれたのではと小高氏は語る。
開発期間1年、チームも10人未満という小規模チームで制作された『ダンガンロンパ』(ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生)は、2010年11月に携帯ゲーム機「PlayStation Portable」(PSP)向けに発売。

初週売上は3~5万本ほどと低調だったが、虚淵玄氏や奈須きのこ氏、武内崇氏といった著名なクリエイターたちがSNS、ブログなどで推薦するなど、口コミでジワジワと売り上げを伸ばしていった。最終的には続編を含め、シリーズ累計で800万本を達成する大ヒットコンテンツとなった。
『ダンガンロンパ』は続編2作とスピンオフ作品の制作のほかに、アニメに舞台化といったメディアミックスも実現。
そして発売当時、物議を醸した『ニューダンガンロンパV3』の制作完了後、小高氏は「新しいことに挑戦したい」との思いからスパイクこと当時のスパイク・チュンソフトを退社し、トゥーキョーゲームスを設立する。








