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出版社各社がなぜここに来て”ゲーム事業”に身を乗り出すのか?──KADOKAWAのゲーム事業が新体制になった背景には、異色の経歴を持つ女性プロデューサーの存在があった

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セガで動物園みたいな「情感デザイン研究室」に配属される

──ここで改めて、熊谷さんの経歴を聞かせください。セガには20年以上も所属されていたとお聞きしていますが、そもそもどういう経緯でセガに入社されたんですか?

熊谷氏:
 大学卒業後はアート系の小さなコンサルティング会社に入社したんですけど、バブルの崩壊ですぐに会社が潰れてしまったんです。倒産した会社のクライアントだったアオキインターナショナル(現:AOKIホールディングス)さんとご縁があり、入社が決まりました。紳士服のAOKIですね。経営企画室に配属され、1年半ほど紳士服の流通やロードサイド店舗の開発など「みんなで力を合わせてビジネスをしていく」ということを学びました。

 セガに入社したのはそのあとなんですけど、「紳士服ではなくもっと自分自身に身近な商材を扱うビジネスがしたい」と思うようになったんです。AOKIではロードサイド店舗の開発に携わっていたので、ロードサイド店舗の開発からゲームセンター店舗の開発ということでセガの面接を受けました。

 あとから聞いた話ですが、その面接で店舗開発の方々の判断は不採用だったそうなんです。でも、その面接にたまたま水口哲也さん【※】がいらっしゃって。水口さんが私のことを「変わった経歴でおもしろい」と採用してくださり、情感デザイン研究室に配属されました。

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※水口哲也氏
1965年生まれのゲームクリエイター。代表作に『セガラリー・チャンピオンシップ』(アーケードなど)、『スペースチャンネル5』(ドリームキャスト・PlayStation2)、『Rez』(ドリームキャスト・PlayStation2)など。

 情感デザイン研究室というのはCGの技術を使って新しいエンターテインメントを生み出す部署で、水口さんと一緒に大学に行ってデジタルアートの提案をすることもありました。
 バブルは崩壊したあとだったんですけど、デジタルブームの黎明期で勢いがあっておもしろかったです。情感デザイン研究室は本当にいろいろな業界から人が集まっていたので動物園のようでした(笑)。

──ちょうどマルチメディアブームの時代ですか?

熊谷氏:
 そう! まさにマルチメディアブームの90年代前半です。「マイケル・ジャクソンが来る」とか「アイルトン・セナが来る」みたいな。三菱自動車や東芝やパナソニックの方々と商談をしたり、セガの技術を世界にアピールしていた時期でした。

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マイケル・ジャクソンと熊谷氏

 いまにして思うと情感デザイン研究室は、水口さんを窓口に、新規事業や新しい研究などのビジネス開発を他社と提携して進めていく部署だったと思います。

──水口さんはデジタルアートに関心があって、ご自身がクリエイターでもありますが、情感デザイン研究室にはどんな人がいたんですか?

熊谷氏:
 当時はMayaが出る前のCG黎明期でした。自分でスクリプトやシェーダーを組んで動画を作る人が「CGアーティスト」と呼ばれていて、水口さんは情感デザイン研究室にそういう方たちを招き入れていたんです。

 大きなプロダクトとしてはアトラクション用の映像をCGで作っていました。「ジョイポリス」のコンセプトを社内で作り上げ、中身のコンテンツにCGを使っています。

 また、他社からセガにオファーがあると水口さんが相談所のような役割になっていたため、ビジネスの種を探しながら企画を進めていました。

 たとえばフジテレビの夏のイベント「LIVE UFO」で米米CLUBの「ミュージックライド」というアトラクションを一緒に開発したいというオファーがあったり。そこで企画やアイディアを水口さんが提案したところ、フジテレビのCGチームと共同で開発することになったんです。 私は水口さんの秘書のような形でアシスタント業務をやりながら、そのうち「ミュージックライド」のアシスタントプロデューサーという形でセガの仕事を本格的にスタートさせました。

AM3研でのプロデューサー業務は「なんでもやる係」

──水口さんについて回っている人は熊谷さん以外にもいたんですか?

熊谷氏:
 当時、情感デザイン研究室には20人くらいいたんですが、ひとりひとりが研究職という感じで、私以外はみんなアーティストとして活動をしていたんです。セガに入ったばかりのころは「とんでもないところに来てしまった」と思いました(笑)。

 私は右も左もわからない状態だったので、片っ端から資料などの書類を整理したり、水口さんが外出するときは一緒に行って、勝手に議事録をまとめたりしていたんです。そうしているうちに「こういうことをやっているんだ」と少しずつ業務内容が掴めてきて、自分でも動き方がわかってきました。

──そこから熊谷さん自身がゲーム開発そのものに携わっていくんですか?

熊谷氏:
 あるとき、情感デザイン研究室に「稼げ」とのお達しがきてしまい、水口さんが『セガラリーチャンピオンシップ』というアーケードゲームを作り始めたんです。私はそのチームには入れてもらえなかったので、情感デザイン研究室の母体である第3AM研究開発部【※】(以下、AM3研)部長の小口久雄さんに「もっと多くのお客さんを対象にゲームを作りたい」と仕事の相談をしました。そこでAM3研に異動させてもらったんです。

※当時のセガはアーケードゲームを扱う「AM1研・2研・3研」とコンシューマーゲームを扱う「CS1研・2研・3研」に分かれていた。

 AM3研へ配属後、私はアーケードゲーム用タイトルのプランナーとして活動を始めました。いちばん最初に企画として参加させてもらったのはパンチングマシンです。しかしそれは、企画の段階で潰れてしまったので世に出ることはありませんでした。

 世に出たものだと『レールチェイス2』です。ベンチシートがガタガタ揺れるアトラクション型のビデオゲームだったんですが、「AM3研でも3Dゲームを作ろう」ということで、私はアシスタントプロデューサーとして担当しました。
 そのころ、小口さんのチームが100人規模の組織になっていて、プロダクトを直接見ることが難しくなっていたため、小口さんの代理としてディレクターやプランナーの補助的な役割を担っていた感じです。

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(画像はセガ『レールチェイス』公式ページより)

──ということはプロデュースというよりゲームの仕様に絡むような業務ですか?

熊谷氏:
 当時はプロデューサーという肩書きがあるような世界ではなくて(笑)。職種はプランナーとプログラマーとデザイナーくらいでした。「新参者が途中からチームに入るためには肩書きがあったほうがいいだろう」みたいな感覚で、プロデューサーとして放り込まれたのだと思います。
 それゆえプロデューサーの仕事に境界線はなく、「進捗管理」「スケジュール管理」「ロケーションテストの結果を通じての課題整理」など、チームの中で溢れた仕事はすべて拾っていきました。

 そういった経験から、いまでも「プロデューサーはゲームを多くの人に遊んでもらうためにやれることはなんでもやる係」というスタンスで捉え続けています。

──実務的な部分がどのレベルだったのかを聞きたいんですけど、熊谷さんが仕様書も書いたりしていたんですか?

熊谷氏:
 当時のアーケードゲームの仕様書は最低限のものしかなく、アーケードゲームならではの、「コンティニューをどのように扱うか」といった特殊な仕様を書類に起こしてメインプログラマーに相談したりしていました。当時のディレクターは、仕様書に詳細を書くよりも口頭ベースで、「ドカーン」や「ガシャーン」みたいな擬音で伝えていたくらいです(笑)。

「あとはよろしく」とヒットメーカーの社長を命じられる

──熊谷さんがプロジェクトや企画を立ち上げたものもいくつかあるんですか?

熊谷氏:
 版権ものですが、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(以下、『ロスト・ワールド』)は私が起案しました。というのも『レールチェイス2』以降、2本目3本目を同時進行で担当しているときに、小口さんから「社員を食わせるために次を考えろ」と言われたんです。

 『ロスト・ワールド』はもともと前作があったところからの続編なので、「前作と別の形となる3Dでリリースしたら、さぞかし迫力が出るだろう」と立ち上がった企画です。じつは版権のオファーが事前にセガに来ていたようなんですが、どうやら断ってしまったあとだったらしく、私から「『ロスト・ワールド』をぜひ作らせてください」と、当時の中山隼雄社長に改めてお願いをしに行くという経緯もありました。

 小口さんは冗談を言いながらプレッシャーをかけるのが上手で。ただ、それに対して素直に受け止めてしまって、「行ってきます」と物怖じしなかったのが、いまふり返ってみるとよかったのかもしれません(笑)。

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スティーヴン・スピルバーグ監督と熊谷氏

──『ダービーオーナーズクラブ』や『アヴァロンの鍵』はどういう関わりなんですか?

熊谷氏:
 『ダービーオーナーズクラブ』は小口さんが立ち上げた競馬のゲームで「ゲームセンターを変えた」と言われているマシンなんですけど、小口さんがどんどん現場を離れていくなかで私があとを継いだ形です。

 そんななか、「なんでもかんでも人の面倒を見るのはもう嫌だ!」となったときに「好きなものを作ればいいじゃん」と言ってもらえたので、『アヴァロンの鍵』を企画しました。

 当時まだゲームセンターにネットワークはなかったものの、『ダービーオーナーズクラブ』が8人の席を繋いで遊ぶマシンだったため、「人が集まって遊ぶ文化」ができ始めていたんです。そこで、ファンタジーの世界やカードゲームの世界をデジタル化できたら、家族やグループもゲームセンターに呼べるのではないかと考えました。

 当時ゲームセンターには日課のように行っていましたが、「人は集まっているけどまだゲームセンターに呼べていないゲームファンはいる」と思っていたんです。

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(画像はセガ『ダービーオーナーズクラブ』公式ページより)

──話が前後してしまうかもしれませんが、ヒットメーカー(セガの開発子会社)の社長に就任されたのはどういう流れだったんですか? 当時、女性がゲーム会社の社長になることはめずらしかったと思います。

熊谷氏:
 青天の霹靂という感じでした。出張でサンフランシスコにいたとき「小口さんがセガの社長に就任した」と連絡があったんです。ヒットメーカーの社長がセガの社長になったわけですから「たいへんなことになったぞ」と思いながら帰国しました。
 帰国後すぐに小口さんに呼び出され、「あとはよろしく」とヒットメーカーの社長を命じられたのが経緯です。それだけ(笑)。

──(笑)。当時の熊谷さんはタイトル数でいうとどれくらい携わっていたんですか?

熊谷氏:
 当時はセガに入って10年くらいだったので、20本以上は携わっていたと思います。アーケードゲームとコンシューマーゲームのタイトルをそれぞれカウントしたら、セガ在籍時で50本くらい作っていました。

──50タイトル! そんなに多くのタイトルに関わったプロデューサーって、ほかにいないんじゃないですか?

熊谷氏:
 ここまで多産な人はあまりいなかったと思います。コンシューマーへの移植もカウントに入っていますが、移植は移植でやることがまったく違うのでたいへんなんです(笑)。

●熊谷氏がセガ在籍時に関わったタイトルリスト

1994
⽶⽶CLUB「ミュージックライド」(フジテレビ共同 お台場Live UFO出展)

1995
『レールチェイス2』アーケード プロデューサー

1996
『デカスリート』(CS) セガ・サターン プロデューサー/ディレクター

『デカスリート』アーケード プロデューサー
『GUNBLADE N.Y.』アーケード プロデューサー

1997
『ウインターヒート』 (CS) セガ・サターン プロデューサー
『ウインターヒート』アーケード プロデューサー
『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク for the Arcade』アーケード プロデューサー

1998
『マジカルトロッコアドベンチャー』アーケード プロデューサー/ディレクター

1999
『⽕星チャンネルMARS TV』アーケード プロデューサー

『パワースマッシュ/Virtua Tennis』アーケード プロデューサー
『トイファイター』アーケード プロデューサー

2000
『パワースマッシュ/Virtua Tennis』(CS) Dreacast プロデューサー

『Confidential Mission』アーケード プロデューサー/ディレクター

2001
『パワースマッシュ2/Virtua Tennis2』(CS) Dreacast プロデューサー
『Confidential Mission』(CS) Dreacast プロデューサー
『パワースマッシュ2/Virtua Tennis2』アーケード プロデューサー/ディレクター

2002
『パワースマッシュ2/Virtua Tennis2 』(CS) Playstation2 プロデューサー/ディレクター

2003
『ASTRO BOY鉄腕アトム ーアトムハートの秘密ー Gameboy Advance』プロデューサー

『電脳戦機バーチャロンMARZ』Playstation2 プロデューサー
『アヴァロンの鍵』アーケード プロデューサー

2004
『ダービーオーナーズクラブ ONLINE』PC プロデューサー(引き継ぎ)

『アヴァロンの鍵弐-秩序と戒律-』アーケード プロデューサー
『THE QUIZ SHOW』(東京ジョイポリス) アトラクション プロデューサー

2005
『アヴァロンの鍵弐 鍵聖戦』アーケード プロデューサー

2006
『レッツゴージャングル』アーケード シニアプロデユーサー

『パワースマッシュ3/Virtua Tennis3』アーケード プロデューサー
『パワースマッシュ World Tour/Virtua Tennis World Tour Playstation Portable』プロデューサー

2007
『パワースマッシュ3/Virtua Tennis3』(CS) Playstation3

2008
『ダービーオーナーズクラブ 2008 feel the rush』アーケード シニアプロデユーサー

2009
『アーケード』シニアプロデユーサー
『Virtua Tennis2009』

2010
『パワースマッシュ4/Virtua Tennis4』

2011
『Virtua Tennis4』(PSVitaローンチ) Playstation Vita プロデューサー

『タッチタッチトラベル』(「めくって︕ひつじ牧場 ほかカジュアルゲーム8本) iPhone プロデューサー

2012
『ダービーオーナーズクラブ Mobile』iPhone, Android プロデューサー

『Virtua Tennis Challenge』iPhone, Android,ほか プロデューサー

2013
『Border Break 疾⾵のガンフロント』iPhone, Android 共同プロデューサー

2015
『夢⾊キャスト』iPhone, Android プロデューサー

『スカッズ -最凶の絆-』iPhone, Android プロデューサー

2016
『フォルティシア』iPhone, Android プロデューサー(リリース前退職)

WORLD CLUB Champion Football シリーズ アーケード スタジオ⻑
電脳戦機バーチャロン シリーズ アーケード, CS スタジオ⻑
恐⻯キング シリーズ アーケード, CS スタジオ⻑
頭⽂字D シリーズ アーケード スタジオ⻑

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編集長
電ファミニコゲーマー編集長、およびニコニコニュース編集長。 元々は、ゲーム情報サイト「4Gamer.net」の副編集長として、ゲーム業界を中心にした記事の執筆や、同サイトの設計、企画立案などサイトの運営全般に携わる。4Gamer時代は、対談企画「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」などの人気コーナーを担当。本サイトの方でも、主に「ゲームの企画書」など、いわゆる読み物系やインタビューものを担当している。
Twitter:@TAITAI999
編集
幼少期からホラーゲームが好き。RPGは登場人物への感情移入が激しく的外れな考察をしがちで、レベル上げも怠るため終盤に苦しくなるタイプ。自著『デブからの脱却』(KADOKAWA)発売中
Twitter:@MarieYanamoto
デスク
電ファミニコゲーマーのデスク。主に企画記事を担当。 ローグライクやシミュレーションなど中毒性のあるゲーム、世界観の濃いゲームが好き。特に『風来のシレン2』と『Civlization IV』には1000時間超を費やしました。最も影響を受けたゲームは『夜明けの口笛吹き』。
Twitter:@ex1stent1a

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