日ごろ見かける「アクションゲーム」や「シューティングゲーム」などのジャンル分け はいつ始まり、どう確定されていったのか。その変遷を探る のが今回の記事の主旨だ。
だが調査を進めると、その意味合いも少しずつ変化をしていったようで……『人生ゲーム』がアクションゲームだったり、歴史の転換点となったのが、なんと「ガンダム」 ってホントなの!?
そんな興味深い記事をナビゲートしてくれるのは、ニコニコ界隈で活躍するタイニーP(@Kenzoo6601 )。日本のホビーパソコンの歴史について詳しく、PC-6601の合成音声に初音ミクやPerfumeの楽曲を唄わせたりなど ……その筋には名高い人物だ。そのタイニーPに、今回もゲーム用語の語られなかった歴史を、やる夫とやらない夫を通じて解説していただこう。
中の人/タイニーP
目次
『人生ゲーム』はアクションゲームだった!? 今回のテーマは、「アクションゲーム」と「シューティングゲーム」 だ。
ゲームのジャンルの中じゃ、古典中の古典って感じだお。
これらは古典とされるだけあって、ゲームセンターに置かれるアーケード用のビデオゲームの中でも、独特の存在感を放っている と言えるだろ。また1980年代中盤に盛り上がったファミコンブームも、当初はこのふたつのジャンルに含まれるゲームが支えていたところが大きい。
これまでの回でも話が出てるけど、ファミコンにRPG系のゲームが増え始めたのが1986年ごろだったお。
1985年末までに発売されたファミコン用ゲームソフトは100本近くあるが、そのうちアドベンチャーゲームの『ポートピア連続殺人事件』【※1】 や、レースゲームを含むスポーツのゲーム、麻雀・将棋・パチンコなどが題材のゲームをぜんぶ合わせても20本ほどだ。 アクション要素のないパズルゲームやRPGはまだなかったから、『ポパイの英語遊び』【※2】 などの学習要素のあるゲームや、ロボット【※3】 を使うものを除いたとしても、7割がたはアクションやシューティングの範疇に入るものだったわけだ。
※1ポートピア連続殺人事件……1983年にエニックスよりリリースされた、PC用アドベンチャーゲーム。堀井雄二がデザイン。プレイヤーは刑事となり、部下のヤスとともに神戸・淡路界隈で連続して発生した殺人事件の謎を追う。1985年にファミリーコンピュータに移植される際に、「名詞+動詞命令形」のテキスト入力式からコマンド選択式となった。画像はファミコン版のパッケージ。 (画像はAmazon より)※2 ポパイの英語遊び 1983年に任天堂から発売された、アクション要素を含む教育用ファミコンソフト。ステージはすでにアーケードやファミコンで発売されていた『ポパイ』を流用。表示された日本語に沿った英単語に必要な文字を、ポパイを操作して集める(モードによっては日本語の表示がない)。文字さえ集めれば、綴りで使われる順番は気にせずともオーケーだが、なかには「シケンカン」、「セミ」などという難しいシロモノも。対戦も可能。
※3 ロボット 正しくは、ファミリーコンピュータ ロボット。1985年に任天堂より発売。併売された『ブロックセット』か『ジャイロセット』と組み合わせて使用。ゲーム画面から放たれる光の信号を受信してブロックの移動などのアクションをする。
1986年以降にしたってぜんぶがぜんぶRPGになったってことじゃないし、アクションとかシューティングが相当な割合を占めてたのには変わりなさそうだお。
さて、これらの言葉の一般への広まり具合を知るために、『広辞苑』、『大辞林』、『大辞泉』を見てみよう。2017年現在では以下の通りだ。
・『大辞林』には「アクションゲーム」はあるものの「シューティングゲーム」はない。 ・『大辞泉』には「アクションゲーム」がなくて「シューティングゲーム」はある。 ・『広辞苑』では、1998年発行の第五版から「アクションゲーム」と「シューティングゲーム」の両方が収録 されている。
収録のされ方にムラがあるあたり、
「裏技」 なんかよりはまだちょっと専門用語っぽい感じだお。 それでもまあ、わりと広まってる言葉なわけだお。
その意味については、たとえば『広辞苑』第六版では、それぞれ以下のように説明されている。
・アクションゲーム 「テレビ-ゲームの一種。画面上のプレーヤー自身のキャラクターを操作して敵と戦ったり障害物を避けたりする。反射神経がゲーム攻略の重要な要素。」
・シューティングゲーム 「コンピューター-ゲームの一種。レーザー光線などを発射して敵を倒すゲーム。」
なんかもどかしい感じもしなくもないけど、そんなにおかしな説明じゃないお。
『大辞林』や『大辞泉』を見ても、これらはビデオゲームに関する言葉という前提を込めて説明されている。しかしじつは、「アクションゲーム」という言葉は、遅くとも1970年代初頭には、玩具業界で使われているものだ。
1970年代の頭だと、テレビゲーム機はまだ売られてない時期 じゃないかお。そのころの「アクションゲーム」って、いったい何なんだお。
おもに室内向けのゲーム玩具のうち、盤面に動きがあるもの、あるいはビー玉くらいまでの大きさの球を派手に動かしたり、弾いたりするもの などを指したようだ。野球盤【※1】 はその典型と言えるだろ。
『生き残りゲーム』【※2】 とか『魚雷戦ゲーム』【※3】 とか、ああいうのもアクションゲームってわけかお。
※1 野球盤……球場を模した数十センチ四方のフィールド上で、パチンコ玉大のスチール球をボールに見立て、対戦して遊ぶアクション要素の強いボードゲーム。原型は戦前からあると言われるが、とりわけ有名なのはエポック社によるもので、長嶋茂雄のプロデビューと同年の1958年に発売。1972年にはテレビアニメも大人気となったマンガ『巨人の星』の影響を受けた「消える魔球」機構が付き、大ヒットに。以降も時流を踏まえたフィーチャーを取り込みつつ、現在に至る。画像は、エポック社の『オールスター野球盤B型』。 (画像はエポック社公式サイト より)※2 生き残りゲーム 1973年にタカトクトイス発売の4人対戦用ボードゲーム。7×7のマス上にプレイヤーに紐付いた4色の球を配置し、順に各列に備えられたレバーを引く。レバーには適宜穴が開けられており、縦横の穴が噛み合うと球が落下する仕組み。こうして他者の球を落とし、最後まで残っていた球の色のプレイヤーが勝ちとなる。後に「生き残り頭脳ゲーム」と改名し、8×8マスのデラックス版などのバリエーションが展開された。1984年に同社が倒産した後も、タカラ(当時)をはじめ数社が同名、または別名でたびたび発売している。
※3 魚雷戦ゲーム 1967年に初代が発売された、エポック社のボードゲーム。中空になった長方形フィールドの短辺に、それぞれ戦艦を模したコマを3つずつ配置。自陣の隅にある、左右に回転する発射台より魚雷(パチンコ球)を発射。敵戦艦の艦底に当たると、文字どおり艦は撃沈するので、これを交互に行い、手球がなくなったときに艦がより多く残っていたほうが勝利となる。
そういうことだ。なお英語圏の玩具業界では、「アクションゲーム」はさらに前から使われていたらしい。 なんと『人生ゲーム』【※】 こと『ザ・ゲーム・オブ・ライフ』ですら、そう名乗った時期があるという。
※『人生ゲーム』……1968年にタカラ(当時)が発売したボードゲーム。1960年にアメリカ・ミルトンブラッドレー社(当時)から発売されたボードゲーム「The Game of Life」をタカラが日本向けに移植。スゴロクの一種だが、サイコロの代わりにルーレットを回し、自駒は自動車を模したもので、結婚・出産など人生のイベントに応じて人を表すピンを増やしていく。現在に至るまで末永く人気を博しているゲームだが、時期によってイベントが改修されており、世代を超えたプレイヤーどうしで語ると、微妙な齟齬が出ることも。平成以降は時事ネタを強くフィーチャーしたものやタイアップものが多い。画像は初代『人生ゲーム』。 (画像はタカラトミー公式サイト より)へ!? 『人生ゲーム』がアクションゲームって、常識的に考えてだいぶ違和感があるんじゃないかお?
お前に常識を問われるのも、ずいぶんな話だと思うがな。それはさておき、日本で『人生ゲーム』としてよく知られている、盤面に建物の模型やルーレットを据えつけたゲームがアメリカのミルトンブラッドレー社から発売されたのは、1960年のことだ。そのパッケージには当初、「A FULL 3-D ACTION GAME」 と書かれていた。
ははーん。盤面のルーレットを回すから「アクションゲーム」で、しかも建物とかの立体物がくっついてるから「3D」ってわけかお。理屈としてはわかるけど、なんかやっぱりだいぶ大げさだお。
そういう声が当時あったのかどうか、その後パッケージの表記は「A FAMILY GAME」に変わったようだがな。ともあれ玩具の「アクションゲーム」は、1970年代の朝日新聞の記事でも使われた例があった。 しかし国語辞典に収録されるレベルまで、業界用語の枠を超えて広まったとは言いがたいようだ。
ビデオゲームの「アクションゲーム」はどこから来たの? で、テレビゲームとかで言う「アクションゲーム」は、そのおもちゃの「アクションゲーム」から来てるんかお?
いや、調べてみると、どうもそうではないらしい。 玩具業界誌「トイジャーナル」では、新人向けの「これだけは知っておきたい業界基本用語集」という記事を定期的に載せていたが、1982年3月号掲載分の中の「アクションゲーム」の項目では、以下のように説明されている。
「さまざまなアクション、つまり動きに重点を置いたゲーム。駒や玉を使って、その動きでゲームを進行する。パチンコゲームなどが代表的。」
うーん。テレビゲームのことにはぜんぜん触れてないお。
1982年の春といえば、日本では、1980年夏ごろからブームが始まった任天堂の「ゲーム&ウオッチ」を筆頭に、小型電子ゲーム機が玩具業界を席巻していた時期だ。 にもかかわらず先の説明は、テレビゲームだけでなく、電子ゲームにも言及されていない。 つまり日本の玩具業界の感覚では、電子ゲームなどの画面の中で描かれる“動き”は、まだ駒や玉の実際の動きとは異質なものと見なされていたと考えられる。
※ゲーム&ウオッチ……1980年から任天堂が発売した、液晶(LCD)ゲーム機。機種ごとにゲーム内容は固定されていて、あとからソフトを追加するなどの変更はできない。1980年の『ボール』、『フラッグマン』、『バーミン』、『ファイア』、『ジャッジ』の発売時点では、大人の手のひらに隠れる名刺+αのサイズがコンセプトで、1センチほどの薄さの中に液晶時計の機能とゲーム機能を詰め込んでいた。その後アラーム機能が加わったものや、本体と画面を大型化した「ワイドスクリーン」、2画面の「マルチスクリーン」などが順次登場。とりわけ1982年の『ドンキーコング』は、十字ボタンを初めて搭載したゲーム機として知られている。国内では1985年ごろまでシリーズが発売され続けた。画像はゲーム&ウオッチのいろいろ。中央上部のオレンジ色のものが『ドンキーコング』。 (画像の撮影:電ファミ編集部)ビー玉とかパチンコ玉が転がるときの重量感みたいなのは、欠けてたって言われてもしかたないところかもしれないお。
当時の雑誌広告や業界誌をいくつか確認してみたが、電子ゲームの内容を「アクションゲーム」と説明したのは、タカラが1982年夏に発売した「システム・カード&アクション」シリーズ【※】 の紹介にあったくらいだ。これはスタンダードな電子ゲームが楽しめるほかに、2台以上をケーブルで接続すると、対戦型のトランプゲームが遊べるというユニークな機能を持っていた。
※「システム・カード&アクション」シリーズ……ゲーム&ウオッチの爆発的なブームに続くLCDゲームブームの中で、タカラ(当時)が1982年からシリーズ化したLCDゲームシリーズ。横長の液晶画面の左右に大きなボタン各1、下部に小さなボタン4つが配置されており、『ハンバーガー』、『バナナボート』、『ザ・ギャング』、『ダグラム』、『監獄ロック』などのシリーズが登場した。これらのゲーム内容はそれぞれ異なっているが、そのほかに共通したカードゲームの機能を備えており、付属のコードを使って4台までを連結し、対戦も楽しめた。画像は『ダグラム』のパッケージ。 (画像はAmazon より)つまり、電子ゲームの内容を、カードゲームともうひとつって形で説明しようとしたときに、ようやく「アクションゲーム」って言葉が出てきた わけだお。
一方、パソコンゲームの世界でも、これとほぼ同時期か、もう少し早くこの言葉が出てきている。こちらもやはり、別のタイプのゲームと区分する必要性が生じて、「アクションゲーム」という表現が使われるようになった と考えられる。
1982年ごろにパソコンに出てきた「別のタイプのゲーム」って、どういうやつだお。
もっともわかりやすいのは、アドベンチャーゲーム だな。パソコン雑誌「アスキー」の1982年4月号で発表された、『表参道アドベンチャー』【※1】 が日本製アドベンチャーゲームの草分けだ。 そしてほとんど間を置かずに、マイクロキャビン四日市【※2】 の『ミステリーハウス』【※3】 などの市販作品が続々と登場するようになった。またこれらに先がけて、戦争を題材にした、ウォーシミュレーションゲームのパソコン向けのものも市販され始めていた。やはり「アスキー」の1980年11月号で『フリートコマンダー』【※4】 が発表されたほか、1981年秋には光栄マイコンシステムが『川中島の合戦』を発売している。
※1 表参道アドベンチャー 月刊アスキー1982年4月号に掲載された、国産テキストアドベンチャーゲームの先駆となるゲーム。テキストもコマンドもすべて英語だが、内容は、マイコン誌の編集者となって、競合誌である月刊アスキーの編集部に潜入し、編集部の破壊工作を行うというシロモノ。PC-8001をはじめいくつかのマシンに対応しているが、のちに8001および8801版はカセットテープでも販売された。
※2 マイクロキャビン四日市 1981年創業のPCソフト開発会社。シエラオンライン社の同名作にインスピレーションを得たアドベンチャーゲーム『ミステリーハウス』を1982年にMZ-80B用に発売し、大人気を博した。その後、マイクロキャビンに改名し、80年代〜90年代にかけてPCを中心にゲーム開発に従事。AQインタラクティブの子会社を経て、2011年以降はフィールズの子会社となっている。
※3 ミステリーハウス 1982年にマイクロキャビンより発売。謎の館のなかに隠されたお宝を探し当てるアドベンチャーゲーム。
※4 フリートコマンダー 月刊アスキー1980年11月号に掲載された、海戦シミュレーションゲーム。作者は野田哲平氏。シンプルなグラフィックを伴い、戦艦や航空機などを駆って索敵し、戦闘する、本格的仕様。1988年にはアスキーからファミコン用タイトルとしてよりグラフィカルになった移植作品が発売されている。
そういうやつと、ゲームセンターに置かれるゲームの移植みたいなやつを、区別する言葉があったほうが、都合がよくなってきたわけだお。
アメリカの様子を見てみると、1977年にバリー社が発表した家庭用ゲーム機で、ソフトを「STRATEGY」 、「SPORTS」 、「EDUCATION」 そして「ACTION/SKILL」 とジャンル分けしていた。パソコンゲームの記事や広告でも、1980年ごろには「action game」という言葉が出てきている。日本で、ビデオゲームに対して「アクションゲーム」という表現が使われ始めたのは、これらの影響のようだ。北米とのあいだでパソコンゲームの輸出入を手がけていたスタークラフト社【※】 は、日本のパソコン雑誌に出した広告で、遅くとも1982年の前半ごろにはこの言葉を使っていた。
※スタークラフト社 1980年代から90年代半ばにかけて活躍した日本のゲーム制作会社。そもそもは1979年に開業したアップルII専門店で、アメリカからアップルII用ソフトを輸入するとともに、日本製のアップルII用ゲームソフトをアメリカに輸出していた。その後は日本製のパソコン向けに、海外のゲームのローカライズやオリジナル作品の開発を手がけた。『ミステリーハウス(シエラオンライン版)』(1983)、『アドベンチャーランド』(1984)、『闘氣王』(1987)、『マイト・アンド・マジック』(1987)などが代表作。
おもちゃ経由かパソコン経由かは違うけど、アメリカから入ってきたっぽい ところは同じなわけだお。
ただしアメリカでは、ゲームセンターでよく見るタイプのゲームは、パソコン向け、あるいは家庭用テレビゲーム機や玩具の類であっても、「アーケードゲーム」と呼ぶことのほうがむしろ多かった。先のバリー社のゲーム機も、一時は「バリー・プロフェッショナルアーケード」という商品名になっていたくらいだ。日本でも、海外のゲームの紹介や翻訳書を中心に、このような使いかたがされることが少なからずあり、日本で「アーケードゲーム」という言葉が業務用ゲーム機だけを指すようになるには、しばらく時間がかかった。
おんなじ言葉なのに、よくよく確認すると指してるものがちょっと違うってのは、話をややこしくする原因だお。
『ゼビウス』はシューティングゲームじゃなかった!? さて、スタークラフト社の扱うものなど、アメリカ製のパソコンゲームの最新情報を早くから積極的に取り上げたことで知られる雑誌が、1982年に件の「アスキー」の別冊として創刊された「ログイン」【※】 だ。「アクションゲーム」も含め、現在日本で使われている代表的なビデオゲームのジャンル分けを広めた のは、この「ログイン」の売りのひとつ、パソコンソフトのヒットチャート「ソフトログ」 だと考えていい。
※ログイン アスキー(当時・後にエンターブレイン)から刊行されていた、パソコンゲームをおもに扱ったパソコン/ゲーム雑誌。1982年に月刊アスキーの別冊として登場し、1983年から月刊誌となる。創刊当時に発売されていた一般的なパソコン誌は、技術者、マニア、あるいはビジネスパーソンをターゲットにしたものが主流であったが、同誌はゲームを軸として掲載。一般的な若者をターゲットとし、読者投稿ページをはじめ、独特の雑誌文化を築いていた。1988年に月2回刊化。1998年に月刊誌に戻り、2008年に休刊。
なーるほど、ヒットチャートの小さいスペースで、どういうゲームかを説明するには、ジャンル名があると便利だお。
「ログイン」が月刊化を果たした1983年4月号からは、「ソフトログ」のチャートに各作品のジャンルを示すシンボルマークを導入した。当初のマークは、ゲームについては、「アクションゲーム」、「シミュレーションゲーム」、「アドベンチャーゲーム」、「ロールプレイングゲーム」に、将棋・麻雀・トランプなどの伝統的なゲームを指す「テーブルゲーム」を加えた5種類だった。
いまとなっては、どれも当たり前に使ってるジャンル名だお。
「ソフトログ」では1984年ごろ、ゲームを「エンターテイメント」とひとまとめに呼んだり、マーク自体を廃止したりという時期もあった【※】 。しかし1985年には、「パズルゲーム」などを追加し、さらにひとつのソフトに複数のマークをつけられるように変更して、チャートでのマークの表示を復活させている。その後、追加分のマークの改廃は多少あったものの、先に挙げた最初の5種類のゲームジャンルのマークは、おおむね維持された。
※この期間も、チャート上位作品の詳細な紹介や新作発売予定表では、「アクション」・「アドベンチャー」・「シミュレーション」などのジャンルが記載されていた。
でもそういや、さっき挙がってた中には、「シューティングゲーム」がないんじゃないかお。
そのとおりだ。実際、1983年前半ごろの同誌の記事では、「シューティングゲーム」という言葉自体が見当たらない。月刊化2号目の1983年5月号では、ゲームセンターで大きな話題を呼んでいたナムコの『ゼビウス』【※】 を特集したが、その記事ではたとえば、以下のように述べられている。
「『XEVIOUS』(ゼビウス)の製作スタートに際して最初に立てられたテーマは、背景がスクロールするタイプの戦闘ゲームを作ることにあった。」
※ゼビウス 1983年にナムコ(当時)から発表されたアーケードゲーム。発売当時のキャッチコピーは「プレイするたびに謎が深まる! 〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」というものだった。それまで宇宙空間などの単色背景がほとんどだったビデオゲームの中に、目に鮮やかな緑の大地と硬質に輝く自機・敵キャラクターなど、異質な雰囲気をまとって登場。ゲーム内の「隠しキャラ」など謎の断片と相俟って、一大ブームを巻き起こした。謎についてはウラ技や真偽不明のうわさ話が飛び交い、プレイヤーたちを熱狂させ、攻略本の原型とも言える同人誌などが作られるようになった。
この「戦闘」には「アクション」というルビが振られている。つまり、いまで言うシューティングゲームは、アクションゲームに分類されていたわけだ。これは「ログイン」に限った話ではない。すがやみつる氏【※】 によるパソコン入門マンガ『こんにちはマイコン』の2巻目が、小学館から1983年8月に発売されたが、その目次のページを使った人気パソコンゲームのジャンル別紹介でも、アクションゲームを「“スペースインベーダー”等の、反射神経を競うゲームだ。」 と説明している。
スペースインベーダー(タイトー・1978) (画像は編集部撮影)
※すがやみつる 1950年生まれのマンガ家。石森(石ノ森)章太郎に師事、1972年にテレビマガジンにて『仮面ライダー』でデビュー。小学館の雑誌「月刊コロコロコミック」で1979年に連載が始まった『ゲームセンターあらし』で爆発的な人気を博した。マイコンやパソコン通信などを扱ったマンガ家としても先駆的。
つっても、シューティングゲームが大まかにはアクションゲームのうちに入るっていう考えかた自体は、別におかしくないんじゃないかお。
もちろんそうだが、ここで注目したいのは、このころのほかのパソコン雑誌、あるいは電子ゲームやアーケードゲームに関わる記事を見ても、やはり「シューティングゲーム」という表現自体がほとんど見当たらないということだ。つまりこの言葉が広まったのは、「アクションゲーム」よりもさらに後と考えざるを得ない。
文化史に残るくらいの社会現象になった『スペースインベーダー』も、最初のうちは「シューティングゲーム」とは呼ばれてなかったわけだお。
『スペースインベーダー』の大ブームのピークは1979年前半だから、そのころは「アクションゲーム」という言葉すら、日本ではビデオゲームに使われていなかったということでもある。しかしその後もしばらく、この種のゲームがビデオゲームの花形のひとつであったことは間違いなく、それらをくくる言葉の必要性はあった。 ブームの最中に出たものに関しては、無許諾のコピー品から模倣品・類似品まで「インベーダーゲーム」【※1】 でまとめられていたようだな。
たしかにその言葉にも、聞き覚えがあるお。でも、
前回 も話に出した
『ギャラクシアン』【※2】 は、さすがに「インベーダーゲーム」とは呼ばれてなかったんじゃないかお。 ※2 ギャラクシアン……1979年、ナムコ(当時)がインベーダーブーム収束後にリリースしたアーケードゲーム。敵勢力を画面上方、自機を画面下方に配し、上方から旋回や宙返りをしながら降下する敵勢力を撃破する。ゲーム性もさることながら、キャラクターごとに細かな彩色がなされ、背景の星などとともにビジュアル面でのインパクトが大きかった。 (画像はバンダイナムコエンターテインメント公式サイト より)※1 インベーダーゲーム 1978年に登場した、タイトー(当時)によるアーケードゲーム『スペースインベーダー』とそのフォロワーゲーム群を指す。1978年から79年にかけて空前絶後の社会現象を巻き起こし、日本にコンピューターゲームを定着させる礎となった。タイトーによる純正品にはじまり、任天堂の『スペース・フィーバー』、セガの『スペース・アタック』、ユニバーサルの『コミックモンスター』、IPMの『IPMインベーダー』、データイーストの『ファントム』、ジャトレの『スペクター』など、許諾物、パチモノ合わせた「インベーダーゲーム」として一説に80種類以上、30万台(50万台とも)が出荷されたといわれる。
そうだな。『ギャラクシアン』の敵エイリアンの滑らかな曲線を描く動きは、見た目だけでなく技術的にも大きなインパクトがあり、他社はこぞってその技術を真似た。そんなわけで、その後に各社が投入した、画面上方から敵キャラクターがプレイヤー側に向かって飛んでくるゲームは、「ギャラクシアン型ゲーム」などと呼ばれることもあった。
まあ、大ヒットゲームの名前を借りて似たものをくくるってのは、最近だと「無双系」 とかもあるし、そんなにめずらしくはないけど、当時はそれだけでも十分用が足りてたわけだお。
一方ナムコ自身は、『ギャラクシアン』に、星を模した色とりどりの光点が瞬きながら上から下へ流れるという印象的な背景効果を導入したこともあってか、チラシで「スペース・ゲーム」と謳った。このフレーズは、1981年夏発表の続編『ギャラガ』【※】 でも受け継がれたし 、これに近い「宇宙もの」などといった表現もよく広まっていた。
※ギャラガ 1981年にナムコ(当時)から登場したアーケードゲーム。『ギャラクシアン』の続編にあたり、長らく人気を博した。敵ボスが飛来時に放つトラクタービームによって自機を捕獲されることがあるが、自機を伴っての再飛来時にボスのみを撃破すると、自機2機が横に連結するデュアルファイターと化した。
「宇宙もの」だけで、「敵を撃つゲーム」っていう認識になってたわけだお。しかしそしたら、「シューティングゲーム」って言葉が出てきたのは、いつぐらいなんだお。
「ログイン」については、1983年末ごろ のようだ。同年12月号の特集「痛快!壮快!!アクションゲーム」の中で、「スクロールゲーム」、「メイズゲーム」などと並び、「シューティングゲーム」としていくつかの作品が紹介されている。なおこの記事では、『ゼビウス』に触発されて森田和郎氏【※1】 が制作した『アルフォス』【※2】 などは、シューティングゲームではなくスクロールゲームの枠で紹介されている。
※1 森田和郎 1955年生まれのゲームクリエイター。1970年代からゲームプログラム作成を始め、1982年に開催されたエニックス(当時)主催のゲーム・ホビープログラムコンテストに『森田のバトルフィールド』を出品、最優秀プログラム賞を獲得している。その後株式会社ランダムハウスを設立。『アルフォス』(1983)、『森田和郎の将棋』(1985)などをつぎつぎ開発。『森田将棋』はプログラムが更新され続け、さまざまな機種でさまざまなバージョンが発売されている。ファミコンでは『ミネルバトンサーガ ラゴンの復活』(1987)、『ジャストブリード』(1992)などに携わった。2012年に逝去。
※2 アルフォス 1983年にエニックス(当時)からPC-8801用ならびに東芝のパソピア7用として発売された、『ゼビウス』風のゲーム。破壊不可能な灰色のくるくる回る板や浮遊要塞も登場する。PC-8801用はアーケード版『ゼビウス』の登場から半年ほどで発売されており、その際ナムコ(当時)の許諾を得ている。
いまは「スクロールゲーム」ってジャンル分けはあんまり聞かないお。画面がスクロールするっていうこと自体に、インパクトがあった時代なわけだお。
そういうことだな。また、「ログイン」のほかにはもう少し早い例がある。 パソコン雑誌「I/O」【※1】 の1983年3月号に掲載された、マイコン・シティー社【※2】 による自社ゲームソフトの広告で、「シューティングゲームの最高傑作!! 8つのパターンで攻めて来るUFOを撃墜せよ!! ギャラガを越えるか!!」 との説明つきで『UFOパニック』という作品が紹介されている。『スペースインベーダー』や『ギャラクシアン』の系譜にあるゲームを「シューティングゲーム」と称した雑誌記事や広告類としては、おそらくかなり早いものだと考えられる。
※1 I/O 1976年に刊行開始された、日本初のマイコン専門誌。発行元は日本マイクロコンピュータ連盟から、のちに工学社となり、現在も刊行が続いている。当初の編集人は西和彦氏で、郡司明郎氏、塚本慶一郎氏なども参加。このメンバーが1977年に独立し、アスキー出版を立ち上げ同年から月刊アスキーを刊行することとなる。
※2 マイコン・シティー社 横浜市にあったパソコン販売店、ならびに業務システムの開発企業。広告によれば、1983年初頭ごろゲームソフトの販売に乗り出した。NECのPC-8001やPC-6001、富士通のFM-7用には『デートアドベンチャー』、『忍者アドベンチャー』などのアドベンチャーゲームを、またシャープのMZ-80B・MZ-2000用には本文で触れた『UFOパニック』を含むリアルタイムのゲームを数点発売した。1年足らずでゲームソフトの販売から撤退した模様。
「シューティングゲーム」の由来って、もしかしてあのアニメ? さっきの話では、ビデオゲームの「アクションゲーム」はアメリカのゲーム機とかパソコンゲームから来たっぽいってことだったけど、「シューティングゲーム」のほうはどうなんだお。
アメリカのパソコン雑誌などを見ると、この類のゲームは、遅くとも1982年ごろには「shoot-‘em-up」、つまり「敵を全部撃つゲーム」と呼ばれるようになっていた。海外のパソコンゲームの動向を把握していたログイン編集部については、これをより日本人にわかりやすく言い換えて「シューティングゲーム」と呼び始めたと考えることもできるかもしれない。 しかし前述のマイコン・シティー社が、このような海外事情に明るかったかどうかは不明だ。
じゃあ、ゲーム業界とかでもっと前に使われてたってことはないんかお。
調べてみると、1970年代前半に登場した、クレー射撃を模した業務用の光線銃ゲームには「ビームシューティング」や「レイシューティング」といった商品名のものがあったし、「クレーシューティングゲーム」という言葉が新聞に出たこともある。ただ、このころの「シューティング」は、スポーツとしての「射撃」とほぼ同じだったようだ。
縁日とかにある射的だったら、ぎりぎりそこに入るかもって感じかお。
日本では、こうした業務用の射撃ゲーム機は、「ガンゲーム」との呼びかたでくくられることが多かった。そして1970年代末までのこれらのゲームは、「射撃回数が決まっているか、または時間制で何点取れるか」というルールのものばかりだった。つまり『スペースインベーダー』が確立した、「敵がどんどん弾を撃ってきて、プレイヤー側が何回かやられたら終わり」というルールのゲームとは、かなり異なるものと認識されていたようだろ。
いまは「ガンシューティングゲーム」って呼びかたがあるけど、それは関係ないんかお。
この分野は、タイトーが1987年に発売した『オペレーションウルフ』【※】 が欧米を中心に大ヒットしたことで復活を遂げたんだが、それが登場した際の雑誌記事をいくつか確認した範囲では、「ガンシューティング」との記述は見当たらない。一方でこの言葉は、アーケードゲーム雑誌「ゲーメスト」では1989年ごろにはよく見られるようになった。つまり「ガンシューティングゲーム」は、「シューティングゲーム」という言葉が確立してかなり経ってから、「ガンゲーム」と合体して出てきた表現と言えそうだ。
※オペレーションウルフ 1987年にタイトーよりリリースされたアーケードゲーム。アップライト筐体の操作パネル部にマシンガン状のコントローラが設置されており、オート連射の爽快感を前面に打ち出した(ただし、弾数の制限はある)。画面上に現れるアイテムを撃つことでそれを取得できるという仕組みや、敵を一掃するロケット弾を導入するなど、ガンゲームのスタイルを大きく変えた。
そうなんかお。じゃあもっと前の電子ゲームには、「シューティング」って名前はなかったんかお?
そちらでは、トミーが1980年夏に発表した、ガンマンや戦車の1対1の撃ち合いをテーマにした『スリムボーイ シューティング6』が数少ない例のひとつのようだ。またパソコンでは、主観視点のゲームではあるが、ハドソンが1980年初頭に発売した『スペースシューティング』や、「アスキー」の1980年8月号に掲載された『タンク・シューティング』がある。しかし、もしこれらが直接影響したなら、「シューティングゲーム」という言葉はもう少し早く使われるようになっていてもよかったはずだ。
『シューティング6』(トミー) (画像は駿河屋 より) うーん。どれも初めて聞いた名前だし、影響力があるほどヒットしたってわけでもなさそう だお。
残念ながら、そのとおりだ。若年層への影響力の大きさや、タイミングといった要素は無視できない。それらを考慮しつつ、1980年代序盤にあった出来事のうち、「シューティング」という言葉を強く印象づけたものを探していくと、1982年春のアニメ映画『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)』【※】 の公開に行き当たる。
※機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)……1979年から放映されたテレビアニメ『機動戦士ガンダム』が放送終了後から爆破的な人気を博したことを受け、1981年から翌82年にかけて松竹系で公開された劇場用アニメ三部作の3作目。テレビ本編の31話から43話、ジャブロー後からラストまでを再編集したもの。 (画像はAmazon より)うむ。テレビアニメ版の最終回で描かれた、大破したガンダムが頭上に最後の一撃を放つシーンが、『めぐりあい宇宙』の予告編では「GUNDAM LAST SHOOTING」とのテロップ入りで引用された。さらにこのシーンは宣伝用ポスターとしてもイラストが描き起こされ、やはり「Last Shooting!」のフレーズが添えられている。
影響力っていう点では、たしかにこれ以上のものはそうそうなさそうだけど、マイコン・シティー社の雑誌広告がこれの影響を受けてるっていう証拠はあるんかお。
正直なところ、はっきりわかる証拠があるわけではない。しかしそもそも日本では、パソコンはSFやアニメのファンとの親和性が高かった。 「アスキー」の創刊1周年にあたる1978年7月号は、8月公開の映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』【※1】 を表紙にし、同シリーズを題材にしたゲームのプログラムを掲載していた。「ガンダム」にしても、ハドソンが1981年夏ごろにMZ-80B用に発売した『テキサスエリア』【※2】 のように、ガンダムの名称を伏せたものも含め、さまざまな形でパソコンゲームが発表されている。
※1 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち……シリーズ劇場版2作目として1978年に東映系で公開。宇宙から届いた助けを求める謎のメッセージを追ってヤマトが出動。巨悪の存在を知り、立ち向かう物語。テレビシリーズとは緩やかな関係性のオリジナルストーリーとして公開され、主題歌『ヤマトより愛をこめて』を当時人気絶頂の沢田研二が歌ったことでも話題となった。 (画像はAmazon より)※2 雑誌「マイコン」には、『テキサスゾーン』の名称でプログラムが掲載された。
ふーむ。そういや、「ガンダム」の電子ゲームもいろいろ出てたと思うけど、そっちには「シューティング」って言葉はないんかお。
商品名や箱の表記などを調べてみた範囲では、ちょっと見当たらなかった。バンダイの電子ゲームでは、攻撃ボタンを基本的に「アタックボタン」あるいは「ファイヤーボタン」と呼んでいて、「シュート」、「シューティング」という言葉にはなじみがなかったようだ。
そうするとやっぱり、映画の宣伝からってのが有力なセンかお。 それにしても、「シューティングゲーム」がアニメから出てきた言葉だとしたら、なかなかおもしろい話だお。
それを十分ありうる話と感じさせるあたりが、さまざまな伝説を生んできた「ガンダム」のさすがの貫禄とも言えそうだな。今回は、ここまでとしよう。