ワシントンD.C.の中心部に広大な敷地を持つ、スミソニアン博物館。そこには、世界で最初に動力飛行を実現したライト兄弟の飛行機、アポロ16号が持ち帰った月の石、あるいは持ち主が不幸になることで知られる「呪いのダイヤモンド」 まで、実に様々な人類の「宝」たちが収蔵されている。
そこに1998年、日本人が開発した“とあるゲーム”が収蔵された。その名は――「バーチャファイター」。そして、この開発者こそが『アウトラン』や『スペースハリアー』などの「体感ゲーム」でセガを世界的企業に押し上げ、現在も欧米の開発者から高い評価を受ける、鈴木裕氏である。
この連載では、日本のゲーム業界黎明期のクリエイターを取材してきた。だが、鈴木裕氏はその巨大な業績に比して、今ではあまり語られなくなった人物だ。日本ではその名前は、ドリームキャストの「シェンムー」シリーズの続報が聞こえなくなった頃を境に、ゲームファンの間から消えていった。
――だが、海外ではどうか。例えば、『シェンムー』は現在世界を席巻するAAAタイトルで主流の、オープンワールドの元祖として、欧米では『グランド・セフト・オート』の開発者を始めとして、リスペクトの声がやまない。海外のイベントに氏が出席した際の、ゲームファンの熱狂ぶりもしばしば報道されてくるし、『シェンムーIII』のクラウドファンディングに至っては即日200万ドルを達成して、ギネス世界記録に認定された。
そして、日本でも鈴木裕氏へのリスペクトを常に口にしてきたのが、今回の鈴木裕氏との対談相手である、バンダイナムコエンターテインメントのゲームディレクター・原田勝弘氏だ。人気格闘ゲーム「鉄拳」や最近ではPS VRの『サマーレッスン』で有名な原田氏は、子供の頃に『アウトラン』や『スペースハリアー』などの「体感ゲーム」にハマり、「鉄拳」は長らく『バーチャファイター』を参考にしていたと語る。
そんな原田氏は最近になって、VRという新しいテクノロジーでのゲーム開発に携わって、ゲームが確立していない場所からテクノロジーごと開拓していった、鈴木裕氏の凄まじさをあらためて認識したそうだ。しかも、鈴木裕氏の「体感ゲーム」はVRを先取りしたものだった、という不思議なことまで言う。一体、どういうことなのか。
二人のクリエイターが世代を超えて、ゲームにおける「挑戦」を語り合った。
聞き手/稲葉ほたて、TAITAI
文/稲葉ほたて
カメラマン/佐々木秀二
ゲーム業界にたまたまいてくれた天才
――いきなりですが、原田さんは鈴木裕というクリエイターをどんな風に見ているんでしょうか?
原田勝弘氏(以下、原田氏):
そうですね……。僕、鈴木裕という人間ほど、「たまたまゲーム業界にいた人」っていないんだろうな、と思うんですよ(笑)。
一同:
(笑)
――確かに、堀井雄二【※1】や宮本茂【※2】のようなゲーム業界の様々な進化の系統樹があるとして、裕さんはどんな系譜の人なんだろうと不思議になるんですよ。
※1 堀井雄二
1954年生まれのゲームデザイナー・作家。アーマープロジェクト代表取締役。「ドラゴンクエスト」シリーズ生みの親であり、『ポートピア連続殺人事件』や『いただきストリート』などのゲームを手掛けた。
※2 宮本茂
1952年生まれのゲームクリエイター。任天堂代表取締役クリエイティブフェロー。「スーパーマリオ」「ゼルダの伝説」「ドンキーコング」シリーズの生みの親として知られている。
原田氏:
ご本人の前で言うのも妙な気分ですが、僕は「ゲーム業界にたまたまいてくれた天才」というふうに見てます。
鈴木裕氏(以下、鈴木氏):
そうなんだ(笑)。
――それは、どういう意味なのでしょうか?
原田氏:
例えば、宮本茂さんであれば、任天堂という研究費があれだけある場所で、徹底的に作品が良くなるまで叩いて作り上げるアーティストであり、作り込みを得意とするゲームの職人です。とても任天堂という場所にフィットした人だとも思います。
でも、裕さんは違う。様々な思いつきや体験の中で生まれたものが、たまたまゲームとしてアウトプットされているだけでしょう。
――鈴木裕さんがゲームをプレイされないのは、非常に有名なお話ですよね。クリエイターとして感心したゲームはないのでしょうか。
鈴木氏:
『モグラたたき』や『ワニワニパニック』は好きですよ。本当に楽しいし、家族を繋いでくれるでしょう。
原田氏:
おお、我々のグループの会長【※】の作品じゃないですか。
※石川祝男
1955生まれ。株式会社バンダイナムコホールディングスの会長。代表作に『ワニワニパニック』など。
――さっそくデジタルゲームではないものが挙がってきました(笑)。
鈴木氏:
あと、『トモダチコレクション』【※】はいいゲームだと思う。子供って、謝れない子が多いけれども、あのゲームで「ごめんなさい」に慣れちゃうと、きっと子供も言いやすくなる。そういうところがすごくいい。
※『トモダチコレクション』
2009年に任天堂より発売されたニンテンドーDS用ゲーム。プレイヤー自身や友人・知人のMiiを登録し、架空の島のマンションで生活するMiiたちの生活を観察したり、干渉して楽しむ。
原田氏:
……って、いきなり、めっちゃいい話になっちゃった!
まあ、僕は裕さんのゲームにハマりすぎて、親に泣かれましたけどね! 財布から100円を拝借して怒られ、古銭コレクションを売って『アウトラン【※】』につぎ込む毎日。いやあもう、家族の仲を引き裂かれましたから!
鈴木氏:
ええ、そうなんだ。ごめんよ(笑)。
原田氏:
だって、僕がゲームにはまったのは、『ハングオン【※1】』ですもん。
そして、『アウトラン』、『アフターバーナー【※2】』、『スペースハリアー【※3】』の3連発の衝撃ときたら。もう、僕はこれで完全に頭をやられました。学生時代の僕は無遅刻・無欠席・無早退で文武両道という非常に真面目な子供だったのに、生活指導の先生や親にはいつも怒られていたんです。「ゲームセンターに行くんじゃない」って。
※1『ハングオン』
1985年にセガ(後のセガ・インタラクティブ)から発売されたアーケードゲーム。セガの「体感ゲーム」第一弾で、GP500をモチーフにしたバイクに乗るレースゲームである。当時のレースゲームは敵車に接触すると爆発するものが主流だったのに対して、本作では敵車に接触してもバランスを崩し減速するのみで爆発はしない。
※2『アフターバーナー』
1987年に発売された、セガ(後のセガ・インタラクティブ)のアーケードゲーム。鈴木裕氏がデザインを担当した。
――それにしても、裕さんは、どういう経緯でゲームクリエイターを目指されたのでしょうか。セガに入社された1983年はやっとファミコンと『ゼビウス』が登場した年なので、世代的にゲームが原体験にないのは当然としても、ゲームをやらないのにセガに入社するのは珍しい気がします。
鈴木氏:
セガは、当時からゲーム好きが集まってる会社だったからね。僕も大学時代、『ウルティマ【※1】』や『ウィザードリィ【※2】』をみんながプレイしてるのを後ろで見てはいたんだけど。
でも実は、セガを選んだ理由は、週休二日で、一番給料が高い会社だったから。
※『ウルティマ』
1981年にオリジン社から発売されたコンピューターRPG。『ウィザードリィ』と並び、コンピューターRPGゲームの草分け的作品であり、2Dフィールド型RPGの始祖である。
※『ウィザードリィ』
1981年にSir-Tech社から発売されたコンピューターRPG。『ウルティマ』と並び、後世のRPGに多大な影響を与えた。3Dダンジョン型RPGの始祖と言われる。
原田氏:
きっちり休日は休みたかったんですね(笑)。
鈴木氏:
同窓会の恰好の酒の肴は、上司の文句ばかりだと聞いていたし、会社が楽しいところになる確率が低いと思っていたんですよ。それなら土日で自分は趣味に生きたいなと思ってた。それがセガに入ってみると、肉体労働が仕事と思っていたのに、座っているだけで給料が出るし、おまけに研修期間には仕事を教えてくれる。仕事も楽しいし、気が付いたらセガの残業記録を塗り替える勢いで、ゲーム作りに没頭してた。
――(笑)。とはいえ、あの時代にプログラマを目指すのは、少し選択肢としては早いですよね。
鈴木氏:
うーん……プログラマを目指した理由……。確か最初は学校の先生になりたかった。夏休みも冬休みもあるし(笑)。次に歯医者になりたかったのも、休日を自分の都合で取れそうだったから。
原田氏:
とにかく休みたかったんですね(笑)。
――最近の若者の就職観みたいですよね。
鈴木氏:
でも、歯医者も諦めた後は、ロックのギタリストになろうと思ったんだよ。でも、大学生のときに思ったより上達しなくて断念したの。その後、急きょ横文字の職業の中から将来性のありそうなものを探したら、プログラマが浮上してきて、それに決めたんです。
原田氏:
ちょっと、裕さん! 振れ幅がとんでもないことになってますよ(笑)!
鈴木氏:
ごめん、ごめん(笑)。まあ、音楽は好きだったんだ。ただ、どうしようかなと思って、ふと岩手のド田舎で、農協とか漁業みたいな職業しかない世界で、格好よく見えた「プログラマ」という言葉を思い出したんですね。そこで、建築学科のコンピュータグラフィックスの研究室の門を叩いてみたんです。
――うーむ、なかなか「遊び人」な、ふらふらした進路設計ですね(笑)。ただ、裕さんの場合も、ゲームに興味がなかったとは言え、やはりどこかでゲーム開発にモチベーションを高めた瞬間があったとは思うのですが……。
鈴木氏:
たぶん、最初の上司の人が素晴らしかったんですね。僕が職場で居眠りしてて目を開けたら、「裕ちゃん、寝てたでしょ?」って言ったり。怒るわけでもなく、いつもあたたかく見てくれて……。
原田氏:
仕事中に寝てたんですか!?
――だいぶ優しいですね……。
鈴木氏:
もうね、「こんな僕に、こんな風に接してくれる人には、絶対に恩返ししなきゃ」と思いました。僕よりデキるプログラマも何人かいたんですが、いつも気にかけてくれたんです。
しかも、その上司の人が「裕は面白いから、なんかやってみる?」と、当時はまだアーケードより規模が小さくて、失敗してもダメージが少なかったコンシューマーゲームを、SG-1000で任せてくれたんです。当時はプロジェクトリーダーなんて企画の人しかなれず、しかも7年くらい下積みをしないといけない時代だったから、思い切った抜擢だったと思います。
――コンシューマーと言っても、本当にまだ黎明期のお話ですよね。
原田氏:
当時は、まだゲーム業界が職人さんたちの世界だったんですよね。
鈴木氏:
それでSG-1000で『チャンピオンボクシング』【※】という初めてのゲームを作ったのですが、今となってはちょっと恥ずかしい(笑)。でも、チャンスをくれた上司の笑顔を見たい一心で、出来るだけの工夫をして作ったら、評判が良くて。それで今度はアーケードの筐体の中に入れてみたら、予想以上にインカムが良かった。その実績が認められて、『ハングオン』を作ることになりました。
――1985年に登場した、セガを世界的企業に押し上げていく「体感ゲーム」シリーズの第一作ですね。これは、会社からのオーダーだったんですか?
鈴木氏:
いや、違います。「トーションバー【※】でねじり剛性を使ったゲームを作れないか」と持ち込みがあったんです。
※トーションバー
棒をねじったときの反発力を利用するバネの一種。
原田氏:
もう、その入りかたがヤバいですね(笑)。いやあ、時代を感じるなあ……。
――『ハングオン』は持ち込み企画だったんですね。では、それにバイクの趣味を付け加えた感じですか?
鈴木氏:
「トーションバーを使って、バイクの筐体を作ったらどうか」というくらいのシンプルな企画でした。だから、ゲームの中身については僕の企画です。
ただ当初、トーションバーを使って試作機を作りましたが、バイクの傾きの中間を保つのが難しいので、断念し、押すタイプのスプリングに変更しました。使用するパーツも耐久性を考えて、最終的には実際のバイクのものを採用しました。
もちろん、バイクも好きでした。当時はケニー・ロバーツやワイン・ガードナー、あるいはランディ・マモラみたいなレーサーがいっぱいいたんです。僕のお気に入りは、やはりフレディ・スペンサー【※】ですね。オンロード界のスターだったスペンサーと同じ乗り方をしたら、一番速くなるようにしたかった。普通のドライビングテクニックが、そのまま使えるゲームを作りたかったんです。
※フレディ・スペンサー
1961年生まれの、元モーターサイクル・レーシングライダー。1983年にはWGP500ccで最年少チャンピオンとなる。バイクを長い手足の下で自在に操り、コーナー終盤の立ち上がり加速を重視するライディング・スタイルが特徴とされる。ファーストラップから驚異的なタイムでライバルを引き離し、2位以下に大差をつけての独走優勝というレース展開が多かった。
原田氏:
弊社の『リッジレーサー』【※】とは真逆の発想ですよね。その発想は実は凄くVRっぽいと思います。実際、昔のレースゲームは“障害物避けゲーム”みたいだったんです。本当に乗ってる感覚を味わえるゲームは『ハングオン』からでしたよね。
※『リッジレーサー』
1993年にナムコ(後のバンダイナムコゲームズ)からアーケードゲームとして稼働したレースゲームで、後にコンシューマーゲームや携帯ゲームにも移植されていった。高速のままコーナーを速度をほとんど落とさず派手なドリフト走行で曲がり切ったり、高低差により大きくジャンプしたりと、挙動や運転感覚のリアルさを度外視した爽快感重視のゲーム性が特徴。
鈴木氏:
学生時代にゲームセンターに誘われるんですが、たまに行く僕みたいな人間が勝てるゲームがなかったんですよ。しかも、僕みたいな人間は比較対象が自分が持ってるクルマしかないから、「なんでこすっただけで爆発するんだろう……」って不思議で。
一同:
(笑)
原田氏:
当時はF1でも何でも、とにかくこすったら大爆発してましたからね。
鈴木氏:
僕も本物のクルマで何回もこすってるけど、爆発したことはないな。それってリカバリーが効くわけで、よくあるゲームのように、ワンミスで「ハイ、終わり」とならないものがいいなと思ってました。
――普段はバイクが好きな人間からすれば、ゲーセンでそういう理由で負けるのには違和感があるでしょうね。
クルマに乗る優越感に注目した『アウトラン』
――鈴木裕という名前は、実はほとんどのゲーマーには『シェンムー』や『バーチャファイター』【※】で知られていると思うんです。でも、そこに至るまでのキャリアの長い時間、実はアーケード業界で、この『ハングオン』に始まる「体感ゲーム」で世界的に成功されてきたんですよね。
※『バーチャファイター』
セガ(後のセガ・インタラクティブ)が1993年に稼動した対戦型格闘ゲームで、シリーズ第一作目にあたる。当時、3DCGにおいてはまだ人型のスムーズなアクションさえ珍しかった状況で、2体の人型が格闘をくり広げる映像はみた人々の度肝を抜いた。
原田氏:
そこは、裕さんを考える上で凄く大事なポイントだと思いますよ。
先駆者のクリエイターの中でも一人だけ全く発想が違う気がするのは、もちろん裕さんの「ゲーマーとは違う目線」だとか、理系と文系の感性が同居するような部分もあるとは思うんですが、やはりアーケードに出自を持つのが大きいと思います。
なにせ裕さんは「体感ゲーム」の世界で、「傾くバイク」というハードウェアのレベルからゲームをデザインしていたわけです。ましてや、あらかじめプラットフォームもツールもマーケットもある場所で、「さて、どこを狙おうか」と考える僕らの世代の開発者とは全く発想が違いますよね。
――あと、もう一つキーワードになるのが、「シミュレーション」ではないでしょうか。『バーチャ』も『シェンムー』もそうですし、「体感ゲーム」でも常に「本物っぽさ」が大事にされていますよね。
鈴木氏:
ただ、シミュレーションには説得力がある反面、現実と違うと逃げ場がなくなります。「普通のこと」を表現するのが一番難しかったりするんです。
――「普通のこと」の実現ですか。ただ、「シミュレーション=ゲーム」ということにはなりませんよね。いきなり核心に迫る質問なのかもしれませんが、裕さんは一体、ゲームをどう捉えているのでしょうか?
原田氏:
僕は、裕さんのそういう「本物っぽさ」へのこだわり方は、まさに現在のVR開発に繋がる発想だと思ってますよ。
鈴木氏:
それ、いつも聞かれてます(笑)。「あなたはシミュレーションを作ってるの? ゲームを作ってるの?」って。
でも、本当にシミュレーションしたのは『F355チャレンジ』【※】の一本だけですよ。他は全て真っ正面からゲームを作ってきました。僕のはシミュレーションに見せかけたゲームで、やっぱり純粋なシミュレーションではないんです。
※『F355チャレンジ』
1999年にセガ(後のセガ・インタラクティブ)が発売した、アーケード用の本格的なレーシングシミュレーター。2000年にはドリームキャスト版が発売された。なお、F355はプロデューサーを務めた鈴木裕自身の愛車でもある。
――……本当にそうなんですか?
鈴木氏:
うん。そう思ってくれるのは思惑通り。
だって、『ハングオン』の次に作った『アフターバーナー』なんて、敵機が正面から撃ってくるでしょ。でも、そもそも空vs.空で正面を向き合っているのなんて、本当は「最も安全な状態」です。ミサイルの相対速度を考えると、正面からミサイルを撃ちまくって、当たるわけない。
じゃあ、僕がどういう風にプログラムを組んだのかというと――敵機が出現してからプレイヤーにロックオンしてもらうまで、敵機は後ろ向きに飛んでるんです(笑)。
――なるほど……!
鈴木氏:
こんなのシミュレーションでも何でもない。まさに「ゲーム」です。
原田氏:
はっはっは。「当ててくれ!」みたいな感じですね。
――確かに、プログラムのレベルまで踏み込んで、そう解説されると納得感があります。
鈴木氏:
だいたい実際の戦闘では5機以上落としたらエースです。英雄ですね。『アフターバーナー』では軽く100機は撃墜しているし、無尽蔵にミサイルも出る(笑)。
原田氏:
弾数からしておかしいですよね(笑)。
裕さんのゲームの魅力に、確かに本物感のある作りはあるんです。でも、そこには実は「演出」があるんですよ。
――「演出」ですか。
原田氏:
とにかく、プレイしている人間が格好よく見える「演出」が上手です。今の『アフターバーナー』の話もそうだし、『ハングオン』だって、あの周囲から聞こえる声と臨場感がいいんです。そして、ぐるぐるとバイクを画面上で回してみせると、凄くカッコよく避けてるように見える。
だから、もう当時は近所のお兄ちゃんたちが、ゲーセンに自前のグローブをはめてきたんです。ブレーキのかけ方一つでもカチコチ格好よく握ってみせて、それに取り巻きのギャラリーが魅入るんですよ。
――確かに、そう聞くとゲームの面白さそのものですね。ドラクエで勇者になりきった気分でゲームをするように、もうバイクに跨がる瞬間からライダーになりきってしまうんですね。
原田氏:
ええ、裕さんのゲームは「ゲームをしている」という気分になるどころじゃないんです。音楽まで含めてあらゆる演出が「俺が操縦しているんだ」という気分にさせてくれて、むしろ「ゲームをしていることを忘れるようなゲーム」なんです。だからこそ、冷静に考えると弾数がおかしくても、ちっとも違和感を覚えないんですね。
クルマに乗る「優越感」とは?
――今おっしゃった「演出」の話で思い出したのですが、『アフターバーナー』の前に出した『アウトラン』について、裕さんが言っていた言葉が面白かったんですよ。このゲームは自動車の「優越感」を大事にしたかったと言われていますよね。
鈴木氏:
そうそう。
そう思った理由はあって……いきなり話が飛ぶんだけど、僕はお正月に箱根駅伝を見ると、ちょっと気持ちが滅入るの。
原田氏:
だいぶ飛びましたね!。
鈴木氏:
あれを見てると、走り終わって倒れちゃう人がいるでしょ。アレで死んだら、親は浮かばれないよね。みんなのために命を懸けるのが日本人は大好きだけど、あくまでも“スポーツの範囲”でやって欲しいなと思う。
だから、僕としては1等で倒れるくらいなら、余裕で2等を取ってヘラヘラしているやつの方が格好いい気がするんだ。このゲームの大元の発想は、ここにあるんです。
――なるほど(笑)。
原田氏:
すごく裕さんっぽいですよね。
鈴木氏:
まあ、でも一番格好いいのは、やっぱり余裕でヘラヘラしながら、ぶっちぎりの1位を取るやつなんだ。それで考えたのが、誰も買えないようなオープンカーの高級車に乗せること。そしてラジオをかけながら美人を横に乗っけて、片手運転をして余裕で1位を取るのが、もう最高に格好いいという感じで行くこと。
当時からレースゲームはストイックに戦術を重ねてギリギリで1位を取るゲームが多かったけど、僕はそんなふうに「クルマを通じて得られる優越感」そのものを表現したかった。
原田氏:
だって、もうその状況そのものが、走る前から勝ってますからね(笑)。
いや、こういう着想が凄いんです。裕さんの「冷静さ」と「なまけ癖」みたいな性格と、同時に最先端のコンピュータ開発の技術の視点があって、それが自然体で開発に繋がってるんだと思うんですよ。
――先ほどから聞いていると、ゲームばかりやってるクリエイターが思いつくような、既存のレースゲームにとらわれる発想とは全く違う場所から考えていますね。
原田氏:
やはり、裕さんの世代はゲームを入り口にして作ってないんだな、と痛感しますよね。その点、僕らの世代はもうゲームの企画となると、「ニーズはどこにあるんだ」「コンセプトを決めよう」みたいな話になりがちです。裕さんはもっと自然体でいろいろな要素が融合しながら開発を進めている気がします。
――こういう世代の違いでのゲームの捉え方は、やはり感じられますか?
原田氏:
そりゃもう、僕らは団塊ジュニア世代で、ゲームは大きな娯楽ジャンルですもん。どんなゲームを作ろうが、既存のゲームの影響を受けていないわけないんです。実際、裕さんみたいに「過去のゲームを見て作ったんじゃない。自分の体験から見つけたんだ」と言えたら最高に格好いいのに、と思ってる40代くらいの開発者は多いと思いますよ。
『鉄拳』【※】にしたって、『ストリートファイターII』(以下、『ストII』)と『バーチャ』があって、「さあ、自分たちはどこを目指そう?」という発想で作ってますからね。例えば、初期の『鉄拳』は『バーチャ』をメチャクチャ研究して作ったんですが、途中でこりゃ違うゲームで同じニーズを満たしても仕方ないじゃないか、と気付いたんですね。そこで、シリーズ開発途中で、駆け引きのポイントを『バーチャ』と比較して一気に減らしてみました。『バーチャ』は1回の勝負で10~15回は駆け引きの瞬間が来るんですが、僕らは当時2~3回程度、最高でも5回に減らしました。空中コンボの最中は駆け引きもない。それで『バーチャ』とは違う格ゲーの面白さを体験できる――そういう作品を目指したんです。
それって、つまりは『バーチャ』から“あえて離れて”別の路線を狙ってみたんですけど、何かそういう動き方自体がもう裕さんとは対照的じゃないですか。結局、僕の世代になると、もう「ゲームが好きだからゲーム業界に来た」という人が多くなってしまうということなんです。
鈴木氏:
ただ、僕はゲーマーじゃないけど、一応マーケットリサーチはやっていたんだよ。そもそもクルマ自体が、世界中の男の人共通のジャンルでしょ。僕のゲームが世界で受け入れられた理由は、テーマを世界共通のものにしていたからだと思う。好き勝手に作っているように見えるだろうけど、『ハングオン』だって、オフローダーの自分としてはパリ・ダカールラリー【※1】をやりたかったけど、人気があるオンロードのGP500【※2】で我慢したりね(笑)。
※パリ・ダカールラリー
1978年、ティエリー・サビーヌによって創始されたラリーレイド競技大会の一つで、「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている。コースによって名称が変化しており、現在は、日本語では「ダカール・ラリー」と呼ぶことが多い。
※GP500
ロードレース世界選手権(現在のMotoGP)の「500cc」クラスのこと。2001年までの53年間、バイクの世界選手権の最高峰を担った。
原田氏:
さすがです(笑)!
鈴木氏:
僕の世代でもセガはゲーム好きの集まりだったから、ゲームをしない僕は異質だったんですよ。料理人でも食べるのが好きな人と作るのが好きな人がいるように、僕はゲームを遊ぶのが好きな人ではなくて、作るのが好きな人なんだと思う。会社も、いろいろな人がいた方が面白いゲームが作れますね。
――そもそも、デジタルゲームを自分ではやらないだけで、裕さん自身はビリヤード、自動車、スキー、ワインなどの大人の遊びについては、超一級の遊び人であるのも有名ですよね。
鈴木氏:
僕はビリヤードやクルマの方が、デジタルゲームより面白いんですよ。ゲームが嫌いではないんだけど、ゲームより面白いことがあるとは思ってる。
――それはリアルの遊びほどの「深み」が、デジタルゲームでは感じられないということでしょうか……?
鈴木氏:
いや、そういう話ではないんです。それに作る側の視点で言うと、ゲームを深くするのは、簡単ですから。例えば、人間の記憶力には限界があるわけで、パラメーターを増やして8個くらいにすれば、すぐに「深み」なんて生まれちゃいます。
原田氏:
そうなんですよね! そういうゲームを作るのは、本当に簡単なんです。「深み」の誤解なんですよね。
鈴木氏:
『バーチャファイター3』のアンジュレーションなんて典型でしたね。僕らはあそこで斜めのステージを入れて、キャラクターの位置を高さで変えられるようにしたんですが、そうなると「真ん中に入るのは上かな」みたいに悩んで、普通のプレイヤーはもうその複雑さに判断が効かなくなっちゃう。
それの何がマズいかというと、「判断できずに負けた」ことになるから、負けたときの納得感がないんです。ゲームを作るときには、負けた理由をシンプルにして、ハッキリさせていくのが大事なんです。すると「次はこうすればいい」と学習効果が生まれて、やる気も起きて、リプレイに繋がっていくんです。
――なるほど。アーケードの開発者らしい視点というか……。
鈴木氏:
ゲームで本当に大切なのは「最高のバランス」にすることです。簡単すぎでもないし、難しすぎでもない、ちょうどいいバランス。これが難しいんですよ。
原田氏:
アンジュレーションは、僕らも『鉄拳4』で入れてみた、というか計画ミスで入ってしまったんですが、おっしゃる通りでした。僕らもそういう長い試行錯誤の果てに、色々と要素を入れて奥深さを出そうとするより、間引いてみた方が面白くなることがあると気づいたんです。
「スノボ」タイプのゲームが理想?
――でも、そう考えると裕さんの考える理想のゲームって、どんなものなんですか?
鈴木氏:
いつも、奥行き、リピート性、学習効果を考え、色々な努力をしてゲームを作るんです。でも、本当は「ただ触っているだけで楽しい」というゲームが作れたら、理想ですね。ずっとその楽しさだけで遊べてしまうような……。
――ゲーマーが好む「技の上達」での喜びみたいな部分とは、少し違いますよね。
鈴木氏:
「スキー」タイプと「スノボ」タイプと呼んでるんですよ。
僕は両方とも好きなんだけど、最近はスキーをやる人はあんまりいないのかな。スキーって、最初はボーゲンを覚えて、次はシュテムターンをやって、それが出来たらパラレルターン……というふうに、ステップがあるんですね。ボーゲンを覚えられなかったら、そこでおしまいなんです。
――ほとんどのデジタルゲームは、おそらく「スキー」タイプでしょうね。
鈴木氏:
こういうゲームでは、「学習効果」が重要なんです。各ステップでの目標を明確にして、どこで失敗したかが分かるように作る。で、「10ゲームもプレイすれば、この面はクリアできるはずだろう」と計算するんですね。これはゲーム開発のとても大事な考え方で、僕も結局はそうやって「スキー」タイプのゲームばかり作ってきました。
でも、これは僕の「理想」じゃないんです。本当はスノボみたいに、何回やっても「とにかく曲がってれば楽しいじゃん!」と思えるゲームを作りたいんですよ。スノボも「ターン」とか色々とあるんですけど、基本的にはスキーと違って次のステップに行かなくても、もうぐねぐね滑ってれば楽しい。サーフィンもそうですね。
原田氏:
僕にとって、裕さんの『アウトラン』や『スペースハリアー』や『アフターバーナー』は、まさにそうでしたよ。当時は、遊園地のアトラクションみたいだと思ってました。そんなに上手くなくて、必ず同じ場所でゲームオーバーになってたけど、いつも並んで100円玉を入れてしまった。
鈴木氏:
そうなんだ……。それでもやってくれたのは嬉しいねえ。
原田氏:
これだけ語っておいて告白しますが、僕は『ハングオン』を最後までクリアできてないんです。クリアできるお兄ちゃんは町中の憧れでしたけど、逆に言えば、僕以外のほとんどの人間も、やっぱり最後までクリアできなかったということなんです。それなのに、誰でも楽しめる。それが裕さんのゲームの、凄いところなんですよ。