2月25日、ついに『エルデンリング』が発売される。
おそらくは全世界の多くのゲームファンが発売されるその日を待ち望んでいることだろう。
一応は続編タイトルではなく、完全新規タイトルということになる『エルデンリング』がなぜそこまで待ち望まれているのか。
それは間違いなく本作が『デモンズソウル』や『ダークソウル』の流れを汲んだ、「ソウルライク」という言葉の発祥となった本家本元であるフロム・ソフトウェアによる最新作であると同時に、これまでとは一線を画すオープンワールドに踏み込んだタイトルでもあるからだ。
2009年に『デモンズソウル』が発売されて以降、15年にも満たない間に、ソウルライクというひとつのゲームカテゴリが生まれ、ゲームシーンの一角を占めるようになり、最早ソウルライクゲームはフロム・ソフトウェアだけのものではなくなっている。
もし今後フロム・ソフトウェアがソウルライクタイトルを作らなくなったとしても、ソウルライクというゲームカテゴリには今後もその系譜を受け継ぐタイトルが登場し続けるだろう。もっと言ってしまえば、フロム・ソフトウェアを凌ぐクオリティのソウルライクゲームを作る開発会社が現れたとすれば、我々の関心はそちらに移ってしまう可能性だってないとは言えない。
しかし、そんなことにはならなかった。
2019年に発売されたフロム・ソフトウェアによる『SEKIRO』は従来のダークファンタジー的な世界観とは一線を画す和風の世界観をベースにし、ソウル系の大きな特徴のひとつでもあった緩やかなオンライン要素を排除するなど、過去作に比べても要素を絞ったにも関わらず、その研ぎ澄まされたゲーム内容によって、本家本元としての地力の強さを見せつけ、その年のThe Game AwardのGame of the Yearを獲得するなど世界的に高い評価を受けた。
さらに去年開催された「ゴールデン・ジョイスティック・アワード」のゲーム史上もっとも偉大なタイトルを選ぶ「Ultimate Game of All Time」に『ドゥーム』や『ハーフライフ2』、『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド』といった強豪を押しのける形で『ダークソウル』が選出され、ゲームの歴史上においても確固たる地位を獲得している。
日本のゲームが世界的な快挙を達成! 『ダークソウル』が世界的に権威あるアワードで「史上最高のゲーム賞」に輝く。『マイクラ』や『スーパーマリオ64』など錚々たるメンツを抑え、この50年での「オールタイム・ベスト」に
そんなフロム・ソフトウェアが遂に世に送り出す最新作にして意欲作でもある『エルデンリング』を期待しないで待てという方が無理というものだろう。
というわけで、発売直前で待ちきれないことだし、改めてフロム・ソフトウェアによって確立されたソウルライクゲームがなぜ面白いのか、なぜ世界中のユーザーを虜にしてしまうのかについて改めて考えてみよう。
文/hamatsu
繰り返し「死ねる」ということ
『デモンズソウル』、『ダークソウル』に代表されるソウル系タイトル群を指し示す言葉として「死にゲー」という言葉がよく用いられる。
確かにこれらのゲームで遊んでいると本当によく「死ぬ」。
特に要所で待ち構えるボスの存在には、数多くのプレイヤーが絶望のどん底に叩き込まれてきた。
ここで重要なのは、これらのボスは確かに圧倒的な存在感を放ち、容赦なくプレイヤーを薙ぎ倒しにくるのだが、それらが繰り出してくる攻撃は、決して理不尽ではないということだ。
そしてプレイヤー側には盾による防御やローリングなど、攻撃を回避する手段もきっちり用意されている。にも関わらずあえなくボスの攻撃を受けて「死ぬ」ということは、こちらだって繰り出されることがわかっていたはずの攻撃をまんまと喰らってしまったということでもある。
大抵それは、「来るとわかっていた攻撃に対して適切な防御を怠った時」であり、大ダメージを与えようと欲張って必要以上に攻撃を繰り出してしまった時に起きる。
つまり、ソウル系のゲームで「死ぬ」時、それはこちら側に何らかの非があったということを「説得」される時なのである。
私なりの表現をするならば、『ダークソウル』や『SEKIRO』は難度が高いゲームというよりも、「死ぬことに対する説得力が高い」ゲームなのである。そうやってゲーム側に「死の説得」を受けて、それに対してこちら側も「納得」してしまうからこそ、簡単にはゲームを投げ出さずにもう一度挑んでしまうのだ。
さらに、「死ぬ」ことで失ってしまう経験値を、再挑戦の際にそこまで一度も死なずに戻れば再獲得可能な点も、細かい部分だがリプレイ性を高める上手い仕掛けだと思う。
つまりプレイヤーが最も投げ出しやすい離脱ポイントである「死」の瞬間に、失った経験値を取り戻そうとするモチベーションが生まれるようになっているのである。
だからソウル系タイトルを遊んでいて一番投げ出したくなる瞬間は一度死んでしまい、そこまで再度戻ろうと思った刹那に操作ミスで崖から転落した瞬間だったりもするのだが、そんな自分の軽率さを心から悔いた経験もまた振り返ってみれば良い思い出である。
ソウル系ゲームを語る上では欠かせない要素として、緩やかに繋がるオンライン要素というものもある。この要素は『SEKIRO』ではバッサリカットされており、ソウル系ゲームを形成する上で必ずしも必須の要素ではないものの、徹底して陰鬱でシリアスであり、基本的には孤独感の強いゲーム体験をいい意味で緩和してくれる要素になっている。
私が『ダークソウル』や『SEKIRO』を遊んでいて思うのは、一見地味なようにも思えるゲーム中のさまざまな仕掛けが遊べば遊ぶほどに、実に上手く機能しているということを実感させられる瞬間が多々あるということだ。それはつまりゲーム体験というものを徹底して理解し、適切な設計がなされているということなのだが、個人的に最も驚いた点について次に述べよう。
なぜ『ダークソウル』にはミニマップがないのか
私が初めてソウル系のゲームをプレイした時に印象的だった、というよりも面食らったのは広大かつシームレスなマップに対して「ミニマップが用意されていなかった」ということだ。
『ダークソウル』や『SEKIRO』といったタイトルにはミニマップが用意されていないどころか、世界全体を表示する全体マップすら用意されていない。まるで世界の構造を安易に把握することを拒否するかのように、これらのタイトルには便利なマップ機能がない。
マップ機能が必要ないほどにシンプルな世界だからなのか、と言えば全くそんなことはない。むしろ逆だ。なぜフロム・ソフトウェアのソウル系タイトルはマップ機能を排除しているのだろう。
画面隅に表示されるミニマップは確かに便利な機能だ。
だが、その利便性ゆえにプレイの際にミニマップに頼り過ぎてしまうと、結果として広大な3D空間のゲームを体験しているのではなく、極小のミニマップ上の2D空間を移動するという具合に、体験が矮小化されてしまう。それをフロム・ソフトウェアの開発者たちは忌避しようとしているのではないだろうか。
そんなことを考えつつ『ダークソウル』の世界を探索していると、高低差をふんだんに用いて作られたこの世界は、いわゆるコピペ的な似たような空間がふたつとして存在しないということに気付かされる。広大で複雑だが、そのひとつひとつがプレイヤーの記憶に刻まれ、他の空間と混同しないための配慮がなされているのである。
だから久しぶりに『ダークソウル』や『SEKIRO』を遊んでみると、思った以上に自分がその世界のことを覚えていることに驚くということが多々ある。頭ではすっかり忘れてしまったと思っていたことが、身体は覚えていたということに気付かされ、角を曲がった先で待ち構えている敵キャラにきっちり対応できてしまったりするのである。
このあえてプレイヤーを不便な状況に追い込んだとしても、その代償としてお釣りがくるほどの濃厚な体験としての質の高さを堅持しようとする、強い意志こそが、ソウル系タイトルが熱狂的に支持される一因になっているのではないかと私は考える。
とはいえ、従来作とは世界が桁違いの広さになるであろう『エルデンリング』においては、ミニマップこそこれまで通り存在しないものの、全体マップは用意しているようだ。流石にオープンワールドで全体マップすら用意しないのは無謀と判断したのだろう。
このことからも、開発者側が考えなしにマップ要素を排除しているのではなく、明確なコンセプトを持った上でマップという要素を捉えて取捨選択していることがわかる。
どこまでもプレイヤーを信頼し、プレイヤーもソウルを信頼する
ここまで簡単にではあるが、ソウル系タイトルの面白さの秘訣について振り返って考えてきた。
私なりにまとめるならば、フロム・ソフトウェアが一連のソウル系タイトルで成し遂げた功績とは、「ゲームの持っている根源的な面白さを現代的な形で再構成、再構築した」ということになるのではないかと思う。
何度も何度もやられながらも繰り返し挑戦した末にボスを倒す。そもそもマップ機能などないにも関わらず、その世界が手に取るようにわかるまでに没入する。それはいずれもかつてのゲームが持っていた魅力でもある。
そんな根源的とも言えるであろうゲームの魅力だが、それをそのまま現代に蘇らせたとしても受け入れられるとは限らない。難し過ぎるゲームは簡単に投げ出されてしまうし、大抵のユーザーはどこに行けば良いのかわかりにくくて、右も左もわからないような世界に長い時間留まってはくれない。
フロム・ソフトウェアのソウル系タイトルが優れているのは、そのような古典的なゲームの面白さをそのまま蘇らせるのではなく、現代的な形に蘇らせたからだ。
途中で死んだとしても全てを失うわけではなく、やられたポイントまでもう一度到達すれば失った経験値を取り戻せるシステム、圧倒的な攻撃を仕掛けてくるがそれが理不尽なわけではない優れたボスキャラクターデザイン、マップは存在しないが覚えづらいわけでなく、むしろ印象には残りやすいマップデザインなど、大小さまざまな部分で徹底したアップデートを施しているからこそ、古典的なゲームの面白さを安心して味わうことができるのだ。
それでもやっぱり『ダークソウル』や『SEKIRO』はゲームとして難しい。特にレベルの要素が存在しない『SEKIRO』のラスボスなどは私は永遠にクリアできないのではと思わされるほどに難しかった(数週間挑み続けてなんとか忍殺達成)。
それでもなぜ、フロム・ソフトウェアが難易度調整要素すら搭載せずにこのようなゲームをプレイヤーに突きつけてくるのかといえば、それはプレイヤーというものを信頼しているからではないかと思う。そしてそんなフロム・ソフトウェアをプレイヤーもまた信頼しているから何度投げ出しそうな難易度のボスに直面したとしても、ゲームをそう簡単には投げ出さないのではないだろうか。
当たり前過ぎることだが、ゲームというものは実際に発売され、遊んでみなければわからない。『エルデンリング』だって実際に発売されて遊んでみないことには、その内実はわからない。
それでも、私などは、もういい大人になっているにも関わらず、未だにゲームの発売日にワクワクできるという貴重な経験こそを大事にしたいとも思うし、その期待感、そして信頼感は、ユーザーの期待を裏切るどころか想像を超える成果を達成し続けたフロム・ソフトウェアという会社だからこそ醸成されるものだ。
2009年の『デモンズソウル』発売以降のフロム・ソフトウェアの快進撃は間違いなくゲームの歴史に残る偉業であり、それと共に歩めた我々にとっては幸福な時間だったのではないかと思う。そしてそんな歩みのひとつの到達点として『エルデンリング』は間もなくリリースされようとしている。
全世界が待ち望んでいる2月25日はもうすぐだ。