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20歳の若さでヒットを飛ばし独立するも、社長業に追われゲーム作りから離れてしまい、「一緒にゲームを作ろう」と志を共にした親友とも決別。ゲーム会社の社長なのに10年近くゲーム制作から逃げていたが、海外ファンからの熱いラブコールに押され、齢57にしてUnityもバリバリ使いこなし現場の第一線に復帰した開発者の話

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 本稿では『ワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド』の開発者、西澤龍一氏のインタビューをお届けする。

『ワンダーボーイ』西澤龍一インタビュー:「ゲームを作る才能」とは_001
西澤龍一氏

 ……といっても、『ワンダーボーイ』『モンスターワールド』といったタイトルと、その開発者である西澤氏の名前は、レトロゲームやセガハードのファンの間では広く知られているものの、年齢の若いゲーマーをはじめとする幅広い層には、少々解説が必要だろう。

 まずは、以下に西澤氏がこれまで手がけたゲームのリストを掲載したので、ぜひ見てほしい。

1981年 スイマー(AC)
1983年 NOVA2001(AC)
1984年 忍者くん 魔城の冒険(AC)
1985年 レイダース5(AC)
1986年 ワンダーボーイ(AC)
1987年 Jaws the Revenge (NES)
1987年 モンスターランド(AC)
1988年 モンスターレア(AC)
1989年 Wonder Boy III: The Dragon’s Trap(Master System)
1990年 オーライル(AC)
1992年 モンスターワールドII・ドラゴンの罠(GG)
1993年 時計じかけのアクワリオ(AC・未発売)
1994年 モンスターワールドIV(MD)
1995年 Dungeon Explorer(SEGA-CD)
1996年 ダークハーフ(SFC)
1997年 ウィリーウォンバット (SS)
1999年 ミラノのアルバイトこれくしょん(PS)
2016年 ユバの徽(しるし)(iOS/android/PC)
2017年 Wonderboy Dragons’Trap(Switch/PS4/XB1/Steam)
2018年 Wonderboy Returns (Steam)
2019年 Monsterboy(Switch/PS4/XB1/Steam/Stadia)
2019年 Wonderboy Returns Remix(Switch/PS4/Steam)
2021年 ワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド(Switch/PS4/Steam)

 西澤氏はファミコン登場以前の1980年代前半から、アーケードゲームのクリエイターとして活躍。『NOVA2001』『忍者くん 魔城の冒険』といった作品を世に送り出した。1985年には株式会社ウエストン(後に株式会社ウエストンビットエンタテインメントへと社名を変更)を起業し、アーケードからコンシューマまで幅広いゲームを制作した。その中でも特に高い人気を集めたのが、1986年のアーケードゲーム『ワンダーボーイ』から始まる一連のシリーズである。

 『ワンダーボーイ』の続編となるアーケードゲーム『ワンダーボーイ モンスターランド』が、セガ・マークIIIに移植された際に『スーパーワンダーボーイ モンスターワールド』と改題。その後はゲームギアやメガドライブで『モンスターワールド』シリーズとしてもナンバリングが行われたため、今ひとつシリーズの全貌がつかみづらくなっている。
 それでも愛らしいビジュアルが醸し出すコミカルな世界観と手応えのあるアクション、そして『モンスターランド』から導入されたアクションRPG要素など、どの作品をプレイしてもすぐにシリーズの魅力が伝わってくる。

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(画像はSEGA AGES ワンダーボーイ モンスターランド|SEGA AGES(セガエイジス)|セガアーカイブス|セガより)

 さらに、『ワンダーボーイ』がキャラクターを変更されて『高橋名人の冒険島』としてファミコンに移植されたほか、同様に世界観やキャラクターを変更した移植がシリーズを通じて行われているため、『ワンダーボーイ』シリーズと知らずにそのゲーム性に触れている人は、決して少なくないはずだ

 海外、特にヨーロッパでは『ワンダーボーイ』シリーズの評価が非常に高く、2010年代後半からはシリーズのリメイク作が現行ハードで相次いでリリースされている。そして2021年、シリーズの生みの親である西澤龍一氏が、自ら『モンスターワールドIV』リメイクしたのが『ワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド』だ。

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(画像はワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド ダウンロード版 | My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)より)

 ファミコン以前のアーケード時代から第一線で活躍を続けると同時に、黎明期からゲーム開発会社の経営者として業界を戦い抜いてきたゲーム開発者である西澤氏は、50歳を超えた現在もなおフリーランスのゲームクリエイターとして、自らUnityを用いてゲーム開発を行っている。そんな西澤氏の半生はある意味で、日本の独立系ゲームクリエイターの歴史を凝縮したものだと言えるだろう。

 今回のインタビューでは、西澤氏の40年に渡るゲームクリエイター人生の紆余曲折に注目しつつ、最新作である『ワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド』をどのような想いで手がけたのかを聞いてみた。

聞き手/TAITAI
文/伊藤誠之介
編集/実存


ゲームの黎明期を知る世代でありながら、今なお現役のディレクター

──今回の取材では、西澤さんの最新作である『ワンダーボーイ アーシャ・イン・モンスターワールド』にフォーカスしつつ、西澤さんがいったいどんなクリエイターで、これまでにどのような経歴を歩んでこられたかについて伺いたいと思います。
 じつは今回の取材にあたって西澤さんご自身からご提供いただいたプロフィールが、すごくすごく詳細なもので驚いたんです。こんなに詳しくご自身の経歴をまとめた資料を事前にいただいたのは、おそらく初めてなんじゃないかと。

西澤氏:
 (笑)。取材の依頼を伺った後に、電ファミの記事をいくつか読ませていただいたんですけど、本当のゲーム好きのために書かれている、日本でいちばん濃いゲームメディアだという印象を受けたんです。
 こんなに濃い記事を書くためには、それなりのネタを振っておかなきゃと思ったので、ちょっと濃いめのプロフィールを作ってみました。

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──資料を拝見してまず思ったのですが、西澤さんご自身は40年を超えるキャリアの中で、ずっとディレクターに近いポジションでお仕事をされてこられたのですか?

西澤氏:
 現場を離れてプロジェクトマネージャーという立ち位置で働いていた時期もありますけど、実際にゲーム開発に携わる際は、企画兼ディレクターというのが多いですね。

──プロデューサーではなくディレクターですか?

西澤氏:
 プロデューサーはやったことがないですね。プロジェクトマネージャーは随分やりましたけど。

 会社を経営していた時は、必然的に責任者としてプロジェクトマネジメント、つまりクライアントとの調整作業をやっていたんです。開発が滞りなく進むようにクライアントさんと調整して予算を取ってきたり、足りなかったら「予算をちょうだい」と言いに行ったり。キャリアの後半はそういう仕事が中心でした。

 今は企画兼ディレクターと言っていますけど、現場にいた当時はただの企画(プランナー)ですね。昔はディレクターなんて職種がなかったので。

──現在はどのような立場なのですか?

西澤氏:
 会社を畳んでフリーになってからは、ゲームの現場をずっとやっていきたいと考えるようになって。まず最初に、社長や会社経営は他の人に任せて、自分ではやらないと決めたんですよ。

 それで自分は現場で何をするかというと、企画とディレクションをやるのがいちばん妥当かなと。要は、このゲームをきちんと完成させて売れるものにする責任を背負う係をやっていくということですね。

 僕がペーペーの企画屋さんとして働くことも可能ですけど、それはみんなやりづらいだろうから(笑)。やっぱり指示を出す側にいて、いろんな人に協力してもらって完成品を仕上げるというポジションでやっていきたいなと思っています。

──西澤さんぐらいのキャリアと経験があって、今なおそういうディレクター的なことをされているのは、他に皆無と言わないまでも、すごく珍しいんじゃないかと思います。

西澤氏:
 そうですね。以前、電ファミで、40代クリエイターの方たちの対談を読ませていただいたんですが、あの記事は非常に面白くて。あの記事の冒頭で、ゲーム開発者を世代で分類していましたけど、それを読んで僕は初めて自分のポジションを自覚したんですよ。

ニーア、ペルソナ等の人気ゲーム開発者が激論! 国内ゲーム産業を支える40代クリエイターの苦悩とは【SIE外山圭一郎×アトラス橋野桂×スクエニ藤澤仁×ヨコオタロウ】

 まだゲームの作り方が定っていない頃からいて、アーケードを経験してからコンシューマに移って今に至る……という自分は、おそらく記事で書かれていたような第二世代には入らないんだろうなと、その記事を読んで分かりました。
 第二世代の人たちと何が違うんだろうなと考えたら、やっぱり「アーケードを経験している」ところが違うのかなと思いましたね。そういう人間がまた現場でやり始めているというのは、たしかに稀なケースだろうとは思います。

──西澤さんと同世代のゲームクリエイターで、今もディレクターをされている方はいらっしゃいます?

西澤氏:
 いないですね。いちばん近いのは元セガの鈴木裕さんとか、『ファイナルファンタジー』を作った坂口博信さんとか。坂口さんはついこの間も新作(『FANTASIAN』)をリリースされていましたよね。彼らの立ち位置がいちばん近いのかなと。このお二方に近いなんて恐れ多くてなかなか言えないですが(笑)。

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『FANTASIAN』
(画像はミストウォーカーコーポレーションより)

 そういう意味では、もう会社という枠ではあまり動かない人たち、サラリーマンという枠に留まっていない人たち。
 以前はサラリーマンをやっていたんだけど、会社を離れても変わらずゲームを作り続けている人たちのグループに、僕も入るのかなと思います。

ゲームセンターで遊んでいたら、ゲームを作る側にスカウトされた

──西澤さんがゲーム業界に入った経緯は、どういったものだったのですか?

西澤氏:
 もともと高校を卒業する前から、テーカン(後のテクモ)でアルバイトをしていたんです。そのまま新卒でテーカンに入社したという流れで、この業界に入りました。

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──テーカンでアルバイトをするようになったきっかけは?

西澤氏:
 きっかけはインベーダーゲームですね。中学3年の時にインベーダーゲームに夢中になって、そこからずっと、ゲームセンターに入り浸っていたんです。それで高校3年生の夏に、友人の石塚路志人さんと2人でいろいろなゲームを遊んでいたら、スカウトされたんですよ。
 「君たち、そんなにゲームが好きなら、ウチでアルバイトをしてみないか?」って。

──ゲーム業界の黎明期には、そんなことがあったんですね。

西澤氏:
 それで2人で、テーカンにアルバイトとして入りました。僕らを雇ってくれたのが、後にアトラスの会長になる原野直也さん【※】です。その時、原野さんはテーカンの販売部にいて、ちょうどロケテストしていたゲームをやっていた、僕と石塚さんに声をかけてくれたんです。

※原野直也
ユニバーサル(現・ユニバーサルエンターテインメント)を経て、1980年にテーカンへ入社。1986年に独立してアトラスを創業し、初代社長に就任した。2001年にはアトラスの取締役会長となり、2007年に退任している。

──テーカンにアルバイトとして入って、どういったお仕事を?

西澤氏:
 いちばん最初にやったのは、ドット絵で宇宙船の絵を描く仕事でした。それがどんな製品に使われるのかといった説明は、特になくて。とにかく「どんどんこっちに迫ってくる宇宙船を描いてくれ」と言われて、それを描きました。
 だんだん拡大してでっかくなっていく宇宙船の絵を方眼紙に描いて、それをドット絵に変換するという手順を、ひととおりやっていましたね。

──その時の西澤さんは、プログラミングなどを習っていたわけではないんですよね?

西澤氏:
 何にも技術は持っていなくて。ただのゲームが好きな少年でした(笑)。

 僕らがアルバイトで入った時は、まだ周りに開発のスタッフがいなくて。たぶん、テーカンの中にもまだ開発部がなくて、これから開発部を作ろうかという時に、いろいろと実験的なことをやっていたと思うんです。
 アーケードゲームの基板を販売していた会社が、基板が非常によく売れるので自社内に開発部を作り始めた、そんな頃に僕はゲーム業界に入ったんです。

──なるほど。

西澤氏:
 テーカンから最初に出たオリジナルゲームが、『プレアデス』というシューティングゲームなんですけど、これは外部の人が作ってテーカンに持ち込んで、それにテーカンの社長が要望を出して、修正を加えて完成させたそうなんです。その『プレアデス』が出た後ぐらいに、僕らがアルバイトで入っているんです。

 高校を卒業して、新入社員としてテーカンに入った時には、もう開発部がありました。そこにはプログラマーの方とかハードウェアの方とか、7~8人ぐらいいて。
 開発部という体裁は一応整っていたんですけど、絵を描く人とゲームを企画する人がいなかったんです。そこに僕と石塚が充てられたんですね。「何かゲームを考えて」と。

──今だとなかなか想像しづらいですね。それが1980年ぐらいのことですか?

西澤氏:
 1980年ですね。

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──テーカンでは石塚さんとコンビを組んでゲームを作っていたのですか?

西澤氏:
 いえ。テーカンに入った時はペーペーの下っ端で、雑用でもなんでもやらなきゃいけないポジションだったので、中心で動いているという感じではなかったですね。「ここの企画をやって」とか「ここの絵を描いて」とか「BGMがないから作って」とか、そうやって指示されて作っていたので、ディレクションみたいなことは一切やっていないです。

 ただ、ふだんからゲームを実際に遊んでいるのが僕と石塚さんだけだったので、なんでも僕らに聞いてくるんです。
 こっちも若かったから「この人たちは僕らがいないとゲームを作れないんだな」と思って(笑)。それでかなり増長して、悪いクセがつきましたね、その時は。

──周りにいた他の社員の方々は、どういう人たちだったのですか?

西澤氏:
 テーカンがどうやって開発部を作ったのかという経緯を、僕は知らないんです。ただ、テーカンの最初の開発部を指揮していたのが琴寄幸雄さん【※1】という方で。琴寄さんはもともとユニバーサル【※2】に務めていたんじゃなかったかな。そこから引き抜かれたか何かで、テーカンへやってきて。あとは方々からいろんなスタッフを集めたんだと思います。

※1 琴寄幸雄
ユニバーサルを経てテーカンに入社。1985年に独立して、アーケードゲームの制作を行う日本マイコン開発(後のNMK)を創業。同社は『アーガス』『ぶたさん』『P-47』といったジャレコブランドの作品をはじめ、多数のアーケードゲームの開発を手がけた。

※2 ユニバーサル
ジュークボックスのリース業からアミューズメント業界に参入し、1971年に株式会社ユニバーサルへと社名変更。黎明期のアーケードゲームで『ギャラクシーウォーズ』『Mr.Do!』などの作品を送り出した一方で、パチスロ機の製造・販売にも進出。1998年にはアルゼ株式会社に社名を変更し、この時期にはコンシューマゲームにも参入している。2009年には、株式会社ユニバーサル・エンターテインメントに社名を変更している。

──でもゲームを知っている人はあんまりいないと。

西澤氏:
 琴寄さんがユニバーサルにいた時も、ビデオゲームではなくてエレメカが主体だったと思います。だから基本はハードウェアの設計者ですよね。
 ただハードウェアを作る人たちは、正しく動作するかをチェックするために、ある程度はプログラミングもできるんです。だからアーケードゲームの基板に関しては基本、彼らが考えて作るんです。といっても当時は、最先端の技術だったので手探り状態だったと思います。

──ところで、西澤さんご自身は特に技術がなかったと先ほどおっしゃっていましたが、石塚さんはどうだったのでしょうか? 石塚さんは後に、名プログラマーとして業界に広く知られるようになる方ですが。

西澤氏:
 石塚さんは高校の時に物理部で、コンピュータをいじっていたんですよ。プログラミングもそこでやっていたので、僕は彼からプログラミングを学びました。石塚さん自身は独学で、本を読んだりしてプログラミングを学んだんだと思います。

ゲーム開発の目的で、中学時代の親友と共同生活を始めたが……!?

──いただいた資料によると、テーカンに就職した時に「マンションで共同生活を始めた」とありますが?

西澤氏:
 はい。石塚さんと2人で共同生活を始めました。

 石塚さんは中学校の時の同級生で、じつは彼とテーカンに入るずっと前から「いつか自分たちの会社を作って、一緒にゲームを作ろう」という話をしていたんです。それでテーカンで働くようになった時に、石塚さんと2人でマンション暮らしを始めました。共同生活をしながら、オリジナルゲームの企画を2人で考えようということで。

──いやぁ、めちゃくちゃ良い話ですね。青春ですねぇ(笑)。石塚さんとは当時、どういうゲームを遊んでいたのですか?

西澤氏:
 『サーカス』とか『ブロック崩し』とか。その後に『スペースインベーダー』が来て。そのあとは『平安京エイリアン』とか、任天堂の『シェリフ』とか。

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 石塚さんとはとにかくいつも一緒に遊んでいて。ゲームセンターで朝まで遊んだり、星新一筒井康隆を読んで2人で語り合ったりしていましたね。高校は一緒じゃなかったんですが、学校が終わってから集まって、一緒に遊んでいました。家が近かったというのもありますけど。

──当時は今みたいに携帯電話があるわけじゃないから、よほど示し合わせていないと会えないですよね?

西澤氏:
 当時はよく喫茶店で待ち合わせていましたね。インベーダーゲームが入るようになったころでしたし、僕もその喫茶店でアルバイトしたりもして。

──高校生の時から「一緒にゲームを作ろう」ということを話していたのですか?

西澤氏:
 話していました。ゲームセンターで一緒に夜中まで遊んで、自宅のそばまで帰ってきてから、ガードレールの上に座って1時間ぐらい話すわけですよ。その時によく「こんなゲームを作ったら面白いんじゃないの」という話をしていて。「いつか自分たちで会社を作って、ゲームを作りたいよね」「本社ビルを建てて、屋上にヘリコプターで通勤するようになったらカッコイイよね」とか(笑)。

──その頃に話していたゲームというのは、後で実際に形になったのですか?

西澤氏:
 なっていません(笑)。なぜかというと、僕が怠慢だったからです。石塚さんは形にしたかったはずなんですよ。そのために一緒に住んで、毎日企画を練って、なんだったら「プログラミングも2人でマンションで暮らしながら作っちゃおう」って、彼はいつも言っていたんだけど。
 でも僕は途中で、そのマンションにあまり帰らなくなって。石塚さんはそれを不満に思って「もう一緒に暮らすのはイヤだ」と言い始めて、共同生活は解消になったんです。

──なぜ家に帰らなくなったのですか?

西澤氏:
 最初、2人でテーカンで仕事をしていたんですけど、僕がテーカンを辞めてUPL【※】という会社に移ったんです。そうしたらUPLのほうで同僚と仲良くなって、彼らと一緒に夜遊びするようになっちゃって。それで家に帰らなくなったんです。

 石塚さんからは「お前、いいかげんにしろよ」って怒られました(笑)。彼はひとりで早く帰って、ご飯の支度までして待っていたのに。同じマンションに帰ってきて、一緒にご飯を食べて、それからゲーム開発の話をしよう、ということで共同生活が始まったのに、僕が帰ってこないので怒っちゃった(笑)。

※UPL
ユニバーサルプレイランドの社名で創業されたが、1984年に社名をUPLへと変更。独自ブランドでアーケードゲームの製造・販売を行った。西澤龍一氏が開発を手がけた『NOVA2001』『忍者くん 魔城の冒険』などのほか、『アトミックロボキッド』『宇宙戦艦ゴモラ』をはじめとする作品を世に送り出している。

──ゲームを作るために同棲するというのは、僕は初めて聞きました(笑)。石塚さんと2人で共同生活していたのは、どれぐらいなんですか?

西澤氏:
 2年ぐらいですね。石塚さんはきっと、2人で一緒にゲームを作るために、オリジナルのプログラムを真面目にコツコツと組み立てたりしていたんじゃないかと思うんですよ。彼はそういう人だから。でも僕のほうが遊びに熱中しちゃったので……。

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