インベーダーゲームを家庭へ送り込め! 本格的マイコンゲーム機の登場によって進化するハードと市場──ファミコン以前のテレビゲーム機の系譜を語ろう

 1983年に登場し、数年のうちに爆発的に普及。テレビゲームを一般家庭に浸透させたモンスターマシン、ファミリーコンピュータ。
 そのファミコン登場に至るまでに発売されていた家庭用ゲーム機の、知られざる歴史を紐解く連載が、このRoad to Famicom(ロード・トゥ・ファミコン)だ。今回は全9回中、折り返しに当たる第4回をお届けしよう。

 それまで、前回の記事で取り上げた“ブロック崩しゲーム”など、おもに目新しいもの好きの若者などのあいだで楽しまれていたビデオゲームが、1978年の6月、あるアーケードタイトルのリリースとともに爆発的に流行し、空前絶後の社会現象となった。
 そう、ご存知『スペースインベーダー』(タイトー)だ。

 かつてないミステリアスな演出にプレイヤーは熱中し、加熱していく人気とともに、当時、界隈にいたあらゆる販社がタイトーの許諾、非許諾に関わらず類似品をリリースした(ヘラルド出版『インベーダー攻略法』によれば、一説に80社以上とも)。

日本初のゲーム攻略本『インベーダー攻略法』(ヘラルド出版)。

 結果として、街中のさまざまな店、あるいは持て余されていた土地が、あっというまに“インベーダーハウス”なるものに姿を変え、そこかしこに乱立。老いも若きも一心不乱に宇宙からの侵略者の撃退に励むという狂乱の時期を迎える。燃え広がりすぎたブームは業界団体による自粛宣言を経て、1980年を迎えるころまで1年半ほど続く。

 こうして街角がピーク時の熱をクールダウンさせていく一方で、入れ替わるように1979年ごろから、インベーダーゲームは、家庭の中で熾火のように燃え広がっていく。そしてインベーダーを満足に再現するために、以前に比べ進化した数々の家庭用ハードウェアが生み出されていくのだ。……今回の記事では、こうした時期についての解説がなされている。

『スペースインベーダー』(画像は「あそぶ!ゲーム展-ステージ1」にて撮影)

 この記事は、週刊ファミ通誌で2008年9月12日号から掲載された全9回にわたる短期集中連載だったもの。ナビゲーターは、プレ・ファミコン期に明るい古参ライターの武層新木朗(むそうしんきろう)氏だ。
 氏の全面協力により今回あらためてWeb化を試みている。

 このWeb化に際し、記事中の時制および一部表現を最適化しているが、内容については、ほぼ当時を踏襲している。登場している団体や個人・所属は、すべて当時のものと御理解いただきたい。(編集部)

【第1回・公開済み】世界初の家庭用ゲーム機は、プレイヤーが画面にフィルムを貼り付けて遊ぶもの
【第2回・公開済み】1977年には約100種類のゲーム機が発売されていた~ボールゲームをめぐる狂想曲
【第3回・公開済み】現実世界を模した野球ゲームから、現実を超えたブロックくずしへ~進化の可能性を見出したビデオゲーム
【第4回・今回】インベーダーゲームを家庭へ送り込め! 本格的マイコンゲーム機の登場によって進化するハードと市場
【第5回】輸入テレビゲーム vs. 純国産ゲーム 感情を揺さぶるゲームデザイン
【第6回】ぴゅう太とホビーパソコンの時代 パソコンにもなるテレビゲーム
【第7回】テレビゲーム戦国時代・前編 ファミコン直前に発売されたゲーム機たち
【第8回】テレビゲーム戦国時代・後編 ファミコン直後に発売されたテレビゲーム機
【第9回】ファミリーコンピュータ誕生 時代と子どもとファミコン


インベーダーブーム襲来! 家庭用ゲーム機の進むべき道は?

 1978年~1979年は、続く1980年代の日本を牽引するエレクトロニクス製品が続々と登場する年である。前回たどった“家庭用ブロック崩しゲーム機”が日本で発売され始めたこのころ、家庭用カラオケ機、ウォークマン、パーソナルコンピューター“PC-8001”や“MZ-80”といったエポックメイキングなマシンが続々と登場し、やがて電子立国と称された日本の黄金時代を築いていく。

 この時期の半導体応用製品の大きな特徴のひとつが、マイクロコンピューターを搭載した民生機の躍進だ。マイコンシステムの特徴は、さまざまな制御を自動化したり、よりきめ細かく設定することができることにある。結果、自動車エンジンの制御や、エアコンやテレビや電子レンジといった生活家電にもマイコン仕様機が登場し、より高機能で信頼性の高いサービスを実現し始めた。それは旧来機からの買い換え需要に拍車をかけるとともに、人々にコンピューター新時代の到来を予見させた。

 このマイコンの柔軟な特性を娯楽分野でもっとも活かしたものこそビデオゲームである。

 ビデオゲーム業界においては、マイコンシステムを搭載したゲーム機の登場は早く、業務用では1975年に、家庭用機でも1976年にまで遡るが、当初は価格が高いうえに処理能力も低く、また大ヒットと呼べるソフトも出現していなかった。人気を博した“ブロック崩しゲーム”も、まだ旧来の汎用IC(業務用機)や専用LSI(家庭用機)で回路構成されていた。

 やがてはビデオゲームもマイコン方式が主流になることに衆目は一致していたものの、「具体的にどういうソフトが必要なのか」ということについては誰もが口を濁した。半導体の進歩を予測できる専門家はいても、テレビゲームのヒットの法則など誰にもわからなかったのだ。

 1978年終盤、全国に突如巻き起こったインベーダーゲームのブームは、そんな暗闇に強烈な希望の光を放った。この作品こそ、娯楽業におけるマイクロコンピューターの可能性を象徴するものだったからだ。

インベーダーゲーム流行の背景

アーケード版『スペースインベーダー』のアップライト型と呼ばれる筐体。反射ミラー構造により、月面と思わしき戦場にゲーム画面が映る。移動にレバーではなく、左右2方向のボタンを使うタイプもある。

 1978年6月にタイトーから発売された本家『スペースインベーダー』は、宇宙空間から群れをなして攻めてくるインベーダー軍団を、自機ビーム砲を操作しながら迎撃する、固定画面のシューティングゲームである。
 インベーダーは5段11列、計55匹の戦陣を組んで、次第にスピードを増しながら地上へと侵攻してくる。プレイヤーはインベーダーが放つ怪光線をレバー移動で左右に素速くかわしながら、タイミングよくビームボタンを押して1匹ずつ撃破していくのだ。

 スコアを稼ぐ要となるのが、周期的に画面の最上段を横切るUFOだ。ゲーム開始から数えて決まった数の弾でUFOを撃ち落とすとボーナスのスコアが得られることから、プレイヤーは危険を冒しながらも、ボーナスという名利に酔いしれるプレイに傾倒していくことになる。
 “名古屋撃ち”“レインボー”といった、バグによる“裏ワザ”や“必勝法”も、この『スペースインベーダー』から始まった。さらに、インベーダーという悪役キャラの創作や、当時話題を呼んでいた映画『スター・ウォーズ』の勢いに乗った娯楽SF活劇感覚など、『スペースインベーダー』の魅力は限られた誌面ではとても語り尽くせず、また今日においてもファンを増やし続けている。

10点インベーダーを最後まで残すと出現する、通称レインボー。さまざまなバグも人気の秘密だ。(以上3点はプレイステーション2用ソフト『タイトーメモリーズ 下巻』より『スペースインベーダー』の画面)

 『スペースインベーダー』開発者の西角友宏氏は、ブロック崩しゲームの大ファンであり、インベーダーゲームの開発は、「このようなシンプルながら爽快感いっぱいのゲームを作ることができないか」というところから始まったという。

 画面の印象からもわかるとおり、インベーダーゲームとは、ブロック崩しゲームにおけるブロックが敵キャラとなって攻撃してくるものだ。ただし、そこに生まれた撃ち合いの攻防は、ゲーム機と人間のより高度な対話を実現した。
 このインタラクティブ性を実現したのが、CPUを核としたマイクロコンピューターシステムである。「インベーダー側からの緻密な攻撃は、ソフトウェアの微妙な修正が行えるマイクロプロセッサーを使ったからこそ初めて可能になった」と西角氏は明言している。

スーパービジョン8000でバンダイが目指したもの

 日本では早くから家庭用テレビゲーム機に取り組んできたバンダイは、技術以上に、マーケティングに力点を置いた戦略を得意とする玩具会社として知られていた。1970年代中期から後期に行った市場調査で、子どもの欲しいものが、いわゆるおもちゃから、テレビや自転車に変わってきたことを知った同社は、従来の幼児向けおもちゃ専業からの脱皮を図っていた。そこに海外で起きていた家庭用テレビゲーム機の好調の情報が加わり、積極的なテレビゲーム分野へのチャレンジが始まるのである。

 1977年発売のボールゲーム機、1978年発売のカセット方式ゲーム機に続き、1979年末、バンダイは高解像度のグラフィック機能を搭載したマイコン仕様のテレビゲーム「スーパービジョン8000」を発売する。その本体セットには、インベーダーゲーム専用カセットが同梱された。

 当時の開発責任者だった、株式会社タキ・コーポレーション(取材当時)の滝口雍昭氏に、当時のエピソードをうかがった。

株式会社タキ・コーポレーション代表取締役社長 滝口雍昭氏
バンダイの開発部長として黎明期の電子ゲームを数々プロデュース。タキ・コーポレーションは映画配給や、映像ソフト、ホビー商品の販売などを手がける。(すべて取材当時)

──最初にビデオゲームをご覧になったときの感想を覚えていらっしゃいますか?

滝口氏:
 ゼンマイやモーター駆動の玩具展開を研究開発していた時代ですからね。今後エレクトロニクス商品に玩具メーカーが挑まねばならないのだと考えると、胸躍るよりも重い気持ちになりました(笑)。

──テレビゲーム参入を伝える当時の記事によると、「子どもの嗜好が変わってきたため、バンダイも子どものためのエレクトロニクス商品を作らなければいけない」と理由を語っていますね。

滝口氏:
 バンダイはそもそも販売業が原点ですから、開発よりもプロデュースを得意とするメーカーだと思うんですよね。それは消費者ニーズと開発とマーケティングプライスの追求が必要だということで、広告代理店といっしょに調査したり、渋谷の公民館に子どもを集めて、欲しい物のアンケート調査などをよくやりました。
 そんな流れの中で、やがてホームコンピューターへの時代が来るという期待を感じてスーパービジョン8000の開発へと進むのです。個人的には、それ以前の機種で海外製のLSIばかりを使っていたので、もっとオリジナリティーのあるものが作りたいと思っていました。

──スーパービジョン8000には、インベーダーゲームが同梱されていましたよね?

滝口氏:
 会社でテーブル筐体のインベーダーゲームを購入して食堂に置いたら、いつも人だかりができていました。「大人も子どもも楽しめる、これが遊びの原点だ」と思ったんです。
 ただ、スーパービジョン8000を発売してからは価格面で苦戦しました。時代的に早すぎたのでしょう。それでも、私と当時の社長のあいだでは、決して失敗ではないという意識がありました。おもちゃ屋から脱皮して子ども文化産業となるために、戦略的にやっていたわけですから。

マイコンボード方式を採用したテレビゲーム機、スーパービジョン8000。CPUはZ80互換。内部メモリーは8キロビット。59800円。
特徴的な円形のコントローラーと、テンキースイッチ、そして左右にはプッシュボタンが付いたオペレーションスイッチ。設計を担当したロジックシステムインターナショナル社が、基本の仕様を考案したという。

幻の侵略者たち

 じつは、バンダイが家庭用テレビゲーム機向けのインベーダーゲーム発売を画策したのは、スーパービジョン8000版が初めてではない。その直前の機種であるアドオン5000版のインベーダーゲームが1979年6月の玩具見本市で告知されており、当時のマスコミにも大きく取り上げられていたのだ。
 しかし、もろもろの理由で惜しくもお蔵入りとなっている。

 関係者によると、実際に開発は行っていたが、旧来のゲームLSI方式であるアドオン5000の能力では、製品として満足できるレベルに仕上がらなかったのが見送りの理由だという。CPUを駆使したインベーダーゲームに見られる、繊細で複雑な動きや高いゲーム性は、原始的なロジック回路で構成されている従来のテレビゲーム機の範疇に収まる代物ではなかったのだ。

アドオン5000の『インベーダーゲーム』発売予告。業者専門のカタログのみに掲載された『インベーダーゲーム』の幻のカセットであり、1979年の玩具合同見本市(東京おもちゃショーの前身)で告知され、一般各紙も採り上げた。ゲーム画面はイメージ画だ。

 一方、そのことをよく理解していた任天堂は、従来のやりかたを捨て、自社アーケード版として稼働していたインベーダーゲーム基板を再構築し、家庭用ゲーム機として再投入するプランを練っていた。
 その価格は60000円前後で、専用ディスプレイ一体型という壮大なものだったが、これも残念ながら試作のみにとどまっている。インベーダーゲームは、かくも家庭用ゲーム機には荷が重いソフトウェアだったのだ。

ATARI社とエポック社のインベーダー

 スーパービジョン8000にやや遅れ、1980年3月に登場したのが、ATARI VCS(Video Computer System)の輸入機であるカセットTVゲームと、専用カセット『スペースインベーダー』だ。
 これは同機の本国であるアメリカでは大ヒットを飛ばし、マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の作者である秋本治氏が、「当時練習用として買った家庭用版ではいちばんできがよかった」と述懐するレベルにあった。これはアーケード版のように我慢の展開を強いられる代物ではなく、とにかく前列のインベーダーから手際よくバシバシ破壊していけばいいという、いかにも洋物テイストな、爽快感あるゲームに仕上がっていた。

ATARI社のATARI VCSを、エポック社が輸入販売し、カセットTVゲームと名付けている。カートリッジ1本付きで47300円。

 カセットTVゲームの国内販売はエポック社が担当していたが、一方で同社は独自のインベーダーゲーム専門機を開発していた。それが1980年7月に発売された『テレビベーダー』である。
 同機はかつて同社が『テレビ野球ゲーム』で採用したNEC製の1チップマイコンを搭載しており、キャラの当たり判定の小ささを利用して弾雨をかいくぐりながら反撃するという独自の緊張感が熱かった。これはキャラの数こそ寂しかったが、局面を色彩の変化に置き換える手法は鮮やかだった。

 また、両機が共通して、自キャラとプレイヤーが一体化できるような、優れたインターフェイスを搭載していたことも見逃せない。コントローラー天井部にそれぞれ独立して配置されたプッシュボタンと方向スイッチ(ジョイスティック)である。現在のゲームパッドではお馴染みのこの基本的な配置も、インベーダー以前のテレビゲーム機では側面に付いていたり、一体化していたりと不定であり、激しいアクションゲームなどではストレスが溜まることも少なくなかった。優れたソフトウェアがハードウェアを進歩に導いた好例とも言える。

コンパクトなインベーダー専用機、テレビベーダー。2方向レバーと、指になじむゴムキャップが高い操作性を実現。16500円。
ステージの最後にはジグザグに飛ぶUFOが。倒すと砲台が1機増える。

テレビゲーム冬の時代

 このように当時は価格や内容にばらつきはあれど、玩具メーカー各社からさまざまなインベーダーゲームが発売されていた。しかし結果的には、インベーダーゲームでも、日本の家庭用テレビゲーム機市場にボールゲームほどの爆発力を再現することはできなかった。
 これはなぜだろう。

 いちばんの問題は、50000~60000円という価格だったのだろう。「アーケードゲームよりはるかに見劣りする製品に大金を払う値打ちがあるのか」という疑問がまず、欲しがる子どもたちに買い与える親たちの頭に浮かんだに違いない。また、インベーダーの数が少ないなど、グラフィックスの劣化に対する不満の声も少なくなかったようだ。
 そして、人間とコンピューターとの対話であるインベーダーゲームは、自然界には決して存在してない遊びだから、子どもが一心不乱にブラウン管を見つめる光景は、とくにシューティングに興味がないような親たちの目には、ずいぶん奇異で不健康な遊びに映ったことだろう。

 結局子どもたちの熱狂に反して、保護者はテレビゲームという商品に相応の価値を見出せなかった。玩具メーカーのデジタル玩具が家族全員から懇意にしてもらうためには、まずその先鋒となる商品が必要だったのではないだろうか。
 当時その露払いを担ったのが、バンダイが1979年に発売した低価格のLSIミサイルベーダーであり、任天堂が1980年に発売したゲーム&ウオッチなどのハンディーゲーム機だった。ハンディーゲーム機は価格も安く、設計期間もテレビゲームより短い。そして何より、作り手から見れば、おもちゃ本来の“手の平の上で持って遊ぶ”という嗜好品であり、テレビ受像器といった他社の製品に頼らなくてよいものだった。

 やがて1980年を境に、玩具メーカー各社はLSIゲームに開発の主力を移すようになり、女児やビジネスマンといった幅広い層がゲーム&ウオッチに夢中になっていく。しかし筆者がテレビゲームに感じたあの可能性と、豊かなインタラクティブ性はそこになく、どちらかといえば暇つぶしのためか、アーケードゲームに馳せた幻想を無理やりそこに押し込んでいた気がする。
 そんな少年の閉塞感をよそに、LSIゲームで巨大な利益を得た玩具メーカーは、やがてテレビゲーム市場から続々と撤退していくのだった。

『ミサイルベーダー』の伊藤ハム販促キャンペーン広告。「友だちが当てたゲームがおもしろそうなの。僕も買って!」という需要を喚起する戦略だったとか。

インベーダー人気はどれだけすごかった?

 「インベーダーは人気があるから早く直してよ」。『スペースインベーダー』の発売から2週間後、開発者である西角氏は、不具合の修正に向かったロケーション先で店長にそう言われたという。

 『日録20世紀』によると、1979年7月には全国69875件もの店に、28万3802台のインベーダーが並んでいた。この時期、1プレイ料金である100円硬貨が通常の3倍近い流通量を示すなどの報道がされる一方で、ゲーム代目当てのゆすり行為や、改造硬貨などが社会問題化。

 ブーム沈静後も、マスコミは“インベーダー閑古鳥”などと一斉に書き立てた。インベーダーはその叩かれっぷりもすごかったのである。

週刊誌『女性セブン』で報道された当時のインベーダーブーム。日本中に吹き荒れたインベーダー狂想曲を、数字の面からリポートしている。女性誌によるビデオゲーム特集というのも異例だ。

【次回ダイジェスト】国産機と海外機~混沌の中から飛び出した個性派ゲーム

 1981年、子どもたちの遊びの主役はハンディー型電子ゲームへと移っていた。ワンボードマイコンゲーム機の挫折から、国内テレビゲーム市場は沈静化するも、海外製のテレビゲーム機がさまざまな思惑とともに日本に上陸。
 一方、唯一国内ゲーム機の火を守り続けたエポック社は、製品化を重ねることでソフトの質を向上させ、海外機に負けない新たなフィールドを切り開いていくのである。

エポック社のカセットビジョンは、日本における第二次テレビゲームブームの火蓋を切った名機だ。

参考文献:
◆『社団法人 日本アミューズメントマシン工業協会 設立20周年記念誌』(社団法人 日本アミューズメントマシン工業協会)
◆『テレビゲームとデジタル科学 図録』(国立科学博物館、東京放送、読売広告/2004年)
◆『週刊日録20世紀 1979年』(講談社/1997年)
◆『日本経済新聞』1979年5月13日号、7月23日号
◆『トイジャーナル』1981年7月号
◆『BINARY ANALYSIS』(『BEEP! メガドライブ』1991年4月号)
◆『日本半導体50年史:時代を創った537人の証言』(産業タイムズ社刊/監修:垂井康夫、編:半導体産業新聞/2000年)

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 同時期に、野球など現実世界の娯楽をビデオゲームに落とし込もうと試行錯誤がなされていた状況とともに、日本では1978年ごろに広がっていったこの“ブロックくずし”という遊びが、プレ・ファミコン期においてどう重要な役割を果たしたかをたどっていこう。

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著者
武層新木朗(むそうしんきろう)
プレ・ファミコン世代のビデオゲームにまみれて育ったwebデザイナー。子どものころは、タイトーの本家『スペースインベーダー』ではなく、任天堂の『スペースフィーバー』を盛んにプレイしておりました。 
www.cvs-odyssey.jp
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