「パラメーター」を使った戦国武将の表現が日本の歴史観を変えた?
──ゲームから歴史ものに入ったという宮下さんにうかがってみたいのは、『信長の野望』が誕生するビフォー・アフターでの、戦国時代や歴史の捉え方の変化についてです。
今回出される「歴史知識ゼロの僕がどうやって18年間 歴史マンガ『センゴク』を描き続けられたのか?」に「パラメーター」のお話があって。この、戦国武将をパラメーターで表すというのも非常にゲーム的な発想で、それまでの小説とかにはなかった表現だと思うんです。
宮下氏:
確かに、『信長の野望』のゲーム上でキャラクターを表現するものと言えば「パラメーター」ですよね。あれがすべてといってもいいくらい。
太田氏:
漫画の作中にキャラクターを出すときにも、パラメーター的なイメージをされることはあるんですか?
宮下氏:
細かくではないですけど、考えますよ。「この人はこの分野に特化している」とか。
今だと「文治派」とか「武断派【※】」ってざっくり分けてしまいがちですが、本来の戦国時代では、それが混ざっていたはずだと思うんですよね。現代の官僚の方を見ても、スポーツマンの人もいますし、スポーツマンの方も頭がいいですよね。実際はそういうものだったんじゃないか、と考えています。
※「文治派」「武断派」……豊臣秀吉政権内であった派閥。政務を担当して出世した文治派と、合戦の功績で名を上げた武断派で対立していた。
──この「パラメーター」という表現法はすごい発明だと思っていまして。例えばインターネットの掲示板などで「実在したこの武将は武力90だ」みたいな論争が行われるような感覚も、ゲームが登場した以降の世界ならではですよね。
そう考えると、『信長の野望』を筆頭に、コーエーさんのゲームが日本人の「戦国観」「歴史観」みたいなものに与えた影響って、実はかつての司馬遼太郎と同じくらい大きかったのかなと思えてきます。
宮下氏:
それこそ、僕も小学生のときなんかは「自分のパラメーターをもっとすごく見せたいんだ!」みたいな想像をしていました。でも、もしこれがゲームのない時代だったら、「いつかは本で読んだ宮本武蔵みたいな人物になるんだ」みたいな形で、そういう想像も小説から湧いていたと思うんです。
なので、想像の仕方がすでにゲーム的だったんですよね。そういう意味では、おっしゃるように『信長の野望』が日本人の歴史観を変えたというか、ゲーム的な歴史人物の捉え方を根付かせたと言えるかもしれません。
戦国武将の仕事は「戦い」だけじゃない。外交や内政も表現したことで“三日三晩徹夜”で遊べる面白さに
宮下氏:
ちょっと脱線しますが、襟川さんは、クリエイターでもありつつ、社長業にシフトしているわけじゃないですか。どちらが楽しいですか?
襟川氏:
それはもう、圧倒的にクリエイターです。
宮下氏:
(笑)。そうですか。
襟川氏:
最初は染料工業薬品という、家業の販売をしていたのですが、その傍らで家内に誕生日プレゼントでパソコンを買ってもらって。自分でプログラムを覚えて、業務用のソフトを作りながら、仕事が終わった後に自分のゲームソフトを作って遊んでいました。これがもう43年くらい前のことです。
そういう時代を経て、43年経っても、未だにゲームを作ること、ゲームを遊ぶことは楽しい。最近はeスポーツが出てきていて、うまいプレイヤーの方が超絶技巧で勝つとか、そういうのを見ていると「素晴らしいな」と思いますし。ですから最近は、YouTubeですごく上手い方がプレイしている映像を見ているだけでも面白いです。
──襟川さんは本当にジャンルを問わず、ずっとゲームを楽しまれていますよね。
襟川氏:
そうですね。たとえば、当社のゲームで『仁王』というシリーズがあります。ウィリアム・アダムス(三浦按針)が、戦国時代に家康の外交顧問になりながら、当時の日本の妖怪をバッタバッタと倒していく、という物語なのですが、そういうものをやっていても面白くて面白くて。
歴史が好きですし、ゲームも好きなので、作っても面白いし、プレイしても面白い。もう何百回、何千回プレイしたか。
宮下氏:
『信長の野望』がシミュレーションゲームなのに対して、『仁王』はアクションゲームですよね。最初はシミュレーションゲームもアクションゲームも、どちらも好きだったんですか。
襟川氏:
最初はいろいろなゲームを作りましたよ。ロールプレイングゲームも作りましたし。
宮下氏:
そのころのゲームって、オープンソース的なものがあって、自分で好きに作れるようなものなんですか。
襟川氏:
当時のゲームというのは、「アスキー」とか「RAM」、「I/O」のようなパソコン雑誌に、プログラムリストというのが掲載されていて、そのプログラムを自分で入力して動かす、という遊び方だったんです。
でも、忙しい方は、プログラムを入力するのはなかなかできないので、パソコン雑誌の出版社が、プログラムのカセットテープを通信販売するようになりました。自分で入力しなくても、カセットテープのデータを読み込んで遊べるようになった……という流れなんです。
ですから、最初は、みんなが自分でプログラムを入力していたんです。それで自然とゲームの作り方が分かって、自分でアクションゲームを作ったり、ロールプレイングゲーム、シミュレーションゲームを作ったりしていました。
宮下氏:
シミュレーションゲームも、ひな形のようなものがあったんですか。
襟川氏:
ひな形みたいなものはありました。ゲームといっても、100行、200行といった、少ない行数で作るような、簡単なゲームばかりでしたから。
そういうプログラムを入力しながら、自分なりに技術力が上がっていって。それで、戦略や戦術を競うような、今で言うAIのようなものが作れるようになって、「考えて楽しむゲーム」作りというのが、だんだん趣味になっていきました。
宮下氏:
アクションでなく、シミュレーションゲームが主軸になっていったんですね。
襟川氏:
そうですね。43年前、今とは隔世の時代ですが、自分で作ったはじめてのゲームは、『川中島の合戦【※】』といいます。あのゲームは、単に5、6種類の兵科に分かれていて、それを配置して戦わせるという、一種の将棋みたいなゲームなんです。
『川中島の合戦』は、武田信玄と上杉謙信の「戦い」だけにクローズアップした作品で、作っていてすごく楽しかったのですが、自分は社長なので…… 社長と言っても社員はひとりしかいなかったのですが(笑)。営業や経理、人事採用など、すべて自分でやらなくちゃいけなかったんですよね。
そうすると、実際の信玄や謙信も、戦いは仕事のほんの一部だったんだろうな、と思ったんです。
※『川中島の合戦』……1981年に光栄マイコンシステムから発売されたシミュレーションウォーゲーム。
──社長業をやっていたからこそ、戦国武将のリアルな姿が思い浮かんだんですね。
襟川氏:
そうです。本当は治水工事をしたり、町の発展を企画して町づくりをしたり。優秀な配下の武将を集めて、軍団を作るとか。それを訓練するためにお金が必要なので、金山の経営をするとか。他にやることがいっぱいあったと思うんですよ。
「戦い」はそのうちのひとつにすぎないものだったんじゃないか、というような想像をしたのが『信長の野望』が誕生するきっかけなんです。
──戦国武将も戦いだけをやっていたわけではなくて、実際には社長のようにいろいろやることがあったのだろうと。
襟川氏:
はい。それで次に作った『信長の野望』では、信長が普段やっていたであろうことを、いろいろと書き出して、面白そうなものをゲームのコマンドにしたんです。本当は信長本人が堺の商人と直接売り買いなんてしないんですけど(笑)。その当時の織田信長政権としては、堺の商人と商売をしていたということで、お金があれば鉄砲が買える。鉄砲があれば強くなるという、因果関係みたいなものをたくさん作りました。
それで、信長の中のひとつの側面は「戦い」だけど、それ以外にも内政や外交をいろいろと工夫していた、というところを表現したのが『信長の野望』だったんです。
宮下氏:
この「戦いだけでなく、内政や外交を体験できる」というのが本当に根源的な面白さの部分ですよね。経営っていうのは、それこそ古代からやっているようなことであって。貿易システムとか、社長の立場では楽しくないのに、ゲームにしてみたら楽しくなったというのはやってみて気づいたことなんですね。
襟川氏:
そうですね。『川中島の合戦』も面白かったんですけども、『信長の野望』は自分の想像をはるかに超える面白さで。でき上がったゲームを自分でテストプレイして、本当に三日三晩徹夜したくらいです。
その時は『全国版』ではなくて、初代の17ヶ国バージョンだったのですが、全国統一した時は思わず立ち上がって喜びました。
宮下氏:
(笑)。
襟川氏:
ゲーマーとして、統一の喜びみたいなものを感じて。そこからバランス調整などもしたんですが、自分が考えている以上の面白さというのが出ていました。