『ドラゴンクエスト』、そのタイトルはもはや“伝説”と言っても良いだろう。
言わずと知れた、日本におけるRPGを代表する一作であり、その歴史は2023年現在で実に37年目におよぶ。11作品が並ぶナンバリングタイトルをはじめとするゲームのほか、マンガやアニメ、近年では体感型アトラクション「ドラゴンクエスト アイランド」も展開するなど、幅広いという言葉では表せないほどの広がりを見せる巨大IPだ。
その生みの親・堀井雄二氏の存在も多くのファンが知るところだろう。「週刊少年ジャンプ」では“ゆう帝”の名で「ファミコン神拳」などの人気連載を担当する一方、個人で『ポートピア連続殺人事件』を手がけるなど、早くからゲームクリエイターとしての手腕を発揮。そして『ドラクエ』ではシナリオ、ゲームデザインを担い、シリーズはみごと社会現象と呼ばれるまでの大成功を収めた。
そんな堀井氏の才能を早くから見出していたのが、元「少年ジャンプ」編集長でもある鳥嶋和彦氏。『ドラゴンボール』や『Dr.スランプ』で知られるマンガ家・鳥山明氏と堀井氏を結びつけ、まさに『ドラクエ』が今の姿で世に出るきっかけをつくった張本人でもある。
今やゲーム業界におけるレジェンドとでも呼べるおふたりだが、今回なんとJ-WAVE(81.3FM)で放送されているラジオ番組「TOKYO M.A.A.D SPIN」──月曜日放送のNAZWA! (Watusi+Naz Chris)のナビゲート回──にて、直接の対談が実現した。
5月8日~22日まで、全3週にわたってのロングインタビューとして放送されたこちらの番組では、初代『ドラクエ』の発売当時を振り返るエピソードから、堀井氏が思い描く今後までが語られている。まさに『ドラクエ』ファンにとっては夢のような時間であったと言えるだろう。
そして電ファミニコゲーマーでは関係各位のご厚意により、ラジオ内で語られた内容をテキストの形式に改め、掲載させていただくことが叶った。リアルタイムでラジオを楽しまれた方も、そうでない方も、本稿にてあらためて“生ける伝説”のふたりの言葉を味わっていただければ幸いだ。
『ドラクエ』は初代の時点で“面白い”と確信していた
──……では、本日のゲストをお迎えいたします。まずおひとり目が『ドラゴンクエスト』の生みの親であるゲームデザイナーの堀井雄二さん。そしてさらに、元少年ジャンプ編集長にして『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』、『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』の生みの親であり、『ドラゴンクエスト』誕生のきっかけを作ったとも言われるマンガ編集者・マシリトこと鳥嶋和彦さんです!
堀井さんはインタビューだとか、『ドラゴンクエスト』の新作にあわせてのコメントだとかはいくつか拝見したことがあるんですが、テレビやラジオというものにはあまり出演なさってないですよね?
堀井雄二氏(以下、堀井氏):
はい、あんまり出ないですね。あがり症なものですから(笑)。
──鳥嶋さんはそんな堀井さんとは、もう生涯の親友のような長いお付き合いだとお聞きしています。
鳥嶋和彦氏(以下、鳥嶋氏):
そうですね、本当に長い付き合いです。現場でバリバリやっているころに知り合って、一番いい仕事を一緒にした、っていう印象があります。多かったころは週に4回くらい会っていたので、もうほぼ家族みたいなものですよね(笑)。
──そのころは集英社の会議室に堀井さんが夕方6時ごろに現れて、夜の10時から原稿を書き始めていたとか……。
堀井氏:
そうなんです、エンジンがかかるのが遅くて(笑)。
鳥嶋氏:
でも、いざ書き始めると1時間くらいで書き上げちゃうんですよ。で、素晴らしいのは書き上がった原稿はほぼ直しが必要ないところ。
──鳥嶋さんいわく“天才ライター”と。
鳥嶋氏:
僕と知り合うまでの堀井さんは、少女誌の「セブンティーン」というところでお仕事をされていたんですよ。で、少年誌の「ジャンプ」に来たらすぐにこっちの文体にパッと切り替えられるの。本当にすごいですよね。
堀井氏:
根がお子様だから……(笑)。
──いや、でも最初から「物を書く」才能がお有りだったということではないでしょうか。
堀井氏:
僕はもともと、マンガ家志望だったんです。それからマンガの原作とかをやって、その後に雑誌のライターとして働き始めたという感じですね。まぁ、文章を書くこと自体はずっと好きでしたね。
──ウワサによると、幼いころは弁護士になりたいとおっしゃっていたとか?
堀井氏:
小学生のころの話ですね(笑)。「弁護士になりたい」って言っていたら大人たちがすごいと褒めてくれるから、そう言っていただけです。中学生になったら今度は「マンガ家になる!」と言い出して(笑)。
鳥嶋氏:
それを聞いてびっくりしたんだけど、僕も大学に入るまでは弁護士になろうと思ってた(笑)。
僕はもっと動機が不純で、楽してお金が儲かるって聞いてたから(笑)。でも憲法の授業に1時間出ただけで「あ、ムリ」ってなっちゃいました。
──さて、では順を追ってお話していきたいところですが、まずは何よりも今年は『ドラゴンクエスト』が誕生から37年というところですよね。35周年にあわせて『ドラゴンクエストIII』のHD-2Dリメイク版が発表されまして、さらに最新作『ドラゴンクエストXII 選ばれし運命の炎』もそろそろ発売になるんじゃないか、なんてウワサも流れていますが……。
堀井氏:
もうちょっと、ですかね。今回はちょっと大人向けに作っていたりもするので……いろいろ苦労してます(笑)。コロナ禍もありましたしね。
──ゲームのプログラマーさんとか、デザイナーさんは基本的にリモートで働かれているんでしょうか?
堀井氏:
そうですね、もう1年くらい会社に来ていないっていう社員もいますよ。あえて会社のパソコンを使わなくても、家で仕事ができちゃいますからね。
──コミュニケーション上の問題が発生したりはしませんか?
堀井氏:
基本的にはZoomを使って連絡を取っています。僕は人の顔と名前を覚えていられないから、Zoomだと下に名前が出ていてちょうど良いんですよね(笑)。
──(笑)。堀井さんに名前を覚えていただくにはどうすればいいんでしょうか。
鳥嶋氏:
(笑)。 まずはたくさん会うことだろうね。あと僕みたいに、たくさんご飯をご馳走して餌付けする(笑)。
──なるほど(笑)。
先日、堀井さんのTwitterアカウントを拝見しましたが、1988年に『ドラクエ3』が発売になったニュースステーションの報道にあわせてツイートされていましたよね。深夜の寒い中、お店の前の行列を見に行ったとか。
堀井氏:
行きましたよ。当時は新宿に事務所を置いていたんですが、行列ができていると聞いたから「じゃあ見に行こう」と言って、仲間と一緒に自転車をこいで行ったんです。で、皆さんが寒い中で並んでくれていたので、なんだかすごく申し訳ない気持ちになってしまいました(笑)。
鳥嶋氏:
僕はそのころ、堀井さんに頼んで集英社の購入希望者のために直接ソフトを用意してもらって渡してました(笑)。
──(笑)。当時、エニックスの方が「1日で100万本の出荷を達成しました。これは過去のファミコンソフトの1日の出荷量としては最高のものでございます」とおっしゃっていて。ものすごい社会現象を巻き起こしていたんですよね。
堀井氏:
当時はチビッ子が大きいお兄ちゃんに取り上げられるなんて話もありましてね……そういうのを聞くたびに胸が痛かったです。
──そんな『ドラクエ3』のブームを目の当たりにして、鳥嶋さんはどう思われましたか?
鳥嶋氏:
気づくのが遅いよ、と感じていましたね(笑)。もう初代『ドラクエ』のころから僕らは大評判になると思っていましたし、そのくらい面白いと確信していましたから。『ドラクエ3』になってようやく気づくっていうのはちょっと遅いんじゃないかな、なんていう感想でした。
──初代『ドラクエ』の時点で“面白い”と確信してらっしゃったというインタビューも残っていますもんね。
鳥嶋氏:
いや、もうバツグンに面白かったですよ。なんでもっと早くに売れていかなかったのか不思議なくらいです。当時からエニックスさんには「なんでもっと作らないの?」って言っていたくらいですから(笑)。
まぁ、後から聞いた話だとゲームのROMっていうのは前金で払って作るものだったから、万が一売れ残ったりすると丸ごと負債になってしまうんですよね。だから慎重に作らざるを得なかった。でもそれにしたって、堀井さんが作って「ジャンプ」で宣伝しているわけだから、もっと作ってよと思いますけどね。
──当時の「ジャンプ」では『ドラクエ』を作っているところから見せて、子どもたちに「RPGとは?」と教育するような誌面を作られていたとか。
鳥嶋氏:
「RPG」って書けば3文字で済むんですが、これに「ロールプレイングゲーム」とつけると、途端に文字数が増えてルビがあふれちゃう。こういうところから浸透させていかなくてはいけなかったですからね。
当初はマンガ家を目指していた堀井氏にとってゲームは“天職”だった
──そして月日は流れ、2021年にはついに35周年を迎えた『ドラゴンクエスト』ですが、その年の5月に体験型アトラクション『ドラゴンクエスト アイランド』がオープンしました。さらに「ドラクエの日」が5月27日に設定されています。
堀井氏:
初代『ドラクエ』の発売日が1986年の5月27日なので、というところですね。それまではあんまり気にしていなかったんですけど(笑)。
──今ではゲームに留まらない多彩な形で展開している『ドラクエ』ですが、アトラクションとしての『ドラゴンクエスト アイランド』の構想はいつごろからあったんでしょうか?
堀井氏:
いつだろう……もともと、テーマパークみたいなものをやりたいという想いはあったんです。そうしていたら公園の敷地を使えるというお話をいただいたので、これはもうやるしかないと。それで「『ドラクエ』の町を作ろう」とスタートして、まぁいろいろありましたが、現在にいたるまで続いているという具合ですね。
──アトラクションには町やお城のようなロケーションが再現されているわけですが、あれらはひとつひとつ監修されていたんですか?
堀井氏:
おおざっぱな感じではありましたが、監修はやっていましたね。実際に遊ぶゲーム部分も体験させてもらいました。最初はもちろん現地ではできなかったので東京で倉庫を借り、「この距離だと歩くのが大変だよ」とか細かい修正をいろいろ行っていましたね。実際に遊んでもいただいたそうですが、楽しかったでしょうか?
──はい、ゲームをしているときってツボを割ったりとか、戸棚を開けたりとか簡単にやっていたんですけど、実際に自分でやってみると勇者ってすごい大変だったんだなと(笑)。でも、すごく楽しかったです。この先技術が発展していったら、現実でも「ルーラ」とか「旅の扉」みたいなものができるんじゃないかな……なんて。いろいろと想像が膨らみました。
ところで『ドラゴンクエスト アイランド』の舞台は淡路島の「ニジゲンノモリ」ですが、淡路島は堀井さんのふるさとでもあるんですよね?
堀井氏:
そうですね、18歳になるまで淡路島に住んでいました。
──当時はどんな子どもさんだったんでしょうか?
堀井氏:
マンガが好きで、家のすぐ裏が貸本屋だったのでマンガばかり読んでいましたね。でも、同時に山や海や川に遊びに行ってもいました。島なので、山も海も川も歩いて10分とかで行けてしまうんですよ。海で泳いだりとか……。
あと、山の上にお城があったんですね。そこから観光客の人が海に向かってお皿を投げる“かわらけ”っていう文化がありまして。そのお皿を崖を降りて拾いに行くのが楽しかったです。
──ちょっと『ドラクエ』っぽい遊びですね(笑)。小さなメダルみたいな。
堀井氏:
(笑)。集めるとお土産屋さんが買い取ってくれました。本当にちょっとしたお金だからジュース飲んだら終わっちゃうようなものなんだけど、子どもにしてみたら嬉しかったですよね。
──先ほど、中学生くらいのころにマンガ家を志すようになったとお話されていましたが、いつどのようなきっかけで「マンガ家」という職業を目指すようになったんですか?
堀井氏:
ずっとマンガは好きで、中学校くらいのときにちょっと描いてみたらみんなが「上手いな!」って言ってくれたんですよ。じゃあマンガ家しかないな、と(笑)。
一同:
(笑)。
──さくまさん【※】をもってして「堀井さんが今も本気でマンガを描いていたら、どうなっていたか分からない」と言わしめていますよね。
※さくまあきら氏。『桃太郎伝説』や『桃太郎電鉄』などで知られるゲームライター・作家。堀井氏とは学生時代からの友人でもある。
堀井氏:
いや、マンガ家生活はキツかったんじゃないかな……。
鳥嶋氏:
それは僕も同意しますね(笑)。
堀井氏:
(笑)。でも、ゲームに出会ってよかったですよ。こっちが天職だったな、と。そういう意味ではすごくツイていましたよね。
──その「天職」に早く出会い、そして気づけたことがまさに“伝説”のはじまりだったような気もしますね。
堀井氏:
ゲームを作っていて、そんなに苦労した記憶がないからね。その苦労をしないことが才能なのかもしれない。
──鳥嶋さんの名言で「努力と我慢を忘れろ」というものがありますが、まさにそれですよね。
鳥嶋氏:
努力と我慢をしている段階で無理があるから才能がないっていう(笑)。