新しい人と仕事をすることで新しいものが生まれてくる
──そうして起ちあがった「ファミコン神拳」ですが、堀井さんやさくまさん、土居さんといった外部の才能を鳥嶋さんが集英社に取り入れたというわけですよね。そこのお話をちょっと聞いてみたいなと。なぜ内部の人間ではなく、外の才能をフィーチャーしたんでしょう?
鳥嶋氏:
それは簡単に言うと「ジャンプ」の編集部が割と閉鎖的なところだったから、というのが大きいですね。年下のマンガ家と年上の編集がマンツーマンでマンガを作る形式だったので、人間関係が固定化されてしまっていて狭いんですよ。
なおかつ、編集部全体に「マンガだけやってれば良い」という空気が漂っていた。率直に言うと僕はそういう空気が嫌いでした。中学校の途中から人間関係というものが嫌になっちゃって、大学を卒業するまでサークルとかいうものに一切入ることが無かった人間なので(笑)。
堀井氏:
(笑)。
鳥嶋氏:
それであるとき、きっかけがあってさくまさんと「ジャンプ放送局」をやったら、新しい発想のもとで新しいモノができていくんですよね。新しい人と会って話すと、新しい見方が出てくるし、その方がやっぱり面白い。
マンガ家との打ち合わせだけをやっているよりは、多彩な情報が耳に入ってくる環境の方が発想の幅が増えますよね。それで、そこで得たものをまたマンガに戻すこともできる。なら「いろいろな人間を手繰って行けるところまで行ってみよう」と考えていたわけです。
──さくまさんと鳥嶋さんの出会いはどこだったんでしょうか?
鳥嶋氏:
まずさくまさんが、堀井さんも仕事をしていた「セブンティーン」で“たのきんトリオ【※】”の記事のエースライターだったんです。かつ「プレイボーイ」でも仕事をしていて、鳥山明さんのマンガに興味を持っていたんですね。そこで「プレイボーイで鳥山さんの記事をやっていいか?」と聞かれたので、OKを出したところから付き合いがはじまった……という感じです。
※たのきんトリオ:田原俊彦(トシちゃん)、野村義男(ヨッちゃん)、近藤真彦(マッチ)の3人のジャニーズアイドルによる、1980年代前半に活動していたユニット。
──そして、そのさくまさんが鳥嶋さんと堀井さんを引き合わせたと……。
堀井氏:
僕は、さくまくんとは学生時代からの知り合いなんです。彼が立教大学、僕が早稲田大学の漫研に所属していたんですが、当時は「学生マンガ連合」なんてものがあったので大学の枠を超えて漫研同士の付き合いがあったんです。
──となると、堀井さんも小池一夫さん【※】の塾には参加されていたんですか?
※『子連れ狼』『御用牙』などの原作を手がけたマンガ原作者。1977年から「小池一夫劇画村塾」を開講し、高橋留美子氏、原哲夫氏、板垣恵介氏といった作家を輩出した
堀井氏:
はい、行ってました。高橋留美子さんとは同窓というわけです(笑)。
──すごいメンバーですよね(笑)。その後、鳥嶋さんと堀井さんが深夜のゲームセンターで夜な夜な遊ぶようになったとか。
堀井氏:
今でも覚えているんですが、鳥嶋さんと初めて会ったとき、僕は百科事典みたいなパソコンのすごい分厚い雑誌を持っていたんですよね(笑)。
鳥嶋氏:
そうそう(笑)。初対面でずだ袋からそんな雑誌を取り出して、ニヤッと笑った堀井さんの顔が忘れられない。
そうして堀井さんと遊んでいて、あるとき「ジャンプ」で「任天堂の『ゲーム&ウオッチ』が人気だから、それをプレゼントするページを作って欲しい」という話が持ち上がりました。そのとき堀井さんの顔が浮かんで、ただのプレゼントページを作ってもしょうがないから、コラムを書いてもらったんです。それが最初に堀井さんに記事を発注したお仕事ですね。
堀井氏:
そうだったっけ(笑)。
鳥嶋氏:
で、それが確か好評で……好評だったかな(笑)。とにかく、その後には堀井さんと一緒にパソコンゲームの特集を始めたんですね。でもパソコンを買うお金が無くて、秋葉原のパソコンショップに開店の2時間前に行って写真を撮影させてもらったりしてました。謝礼もお金でできないから、鳥山さんにサイン色紙とか描いてもらってお渡ししていましたね。
一同:
(笑)。
堀井氏:
そうして作ったゲームの記事は子どもたちにとても人気があったんですよ。でも、パソコンは高いから……子どもたちが実際に買うことはできない、というジレンマもあったんですね。
鳥嶋氏:
堀井さんが持っていたベーシックなPC-60でも20万くらいはしましたからね。さらにちょっと上のPC-70とかPC-98になると40万とか、50万とかになっちゃう。
堀井氏:
そうしていたところにファミコンが現れたので、「これだ!」と思いましたよね。やっと子どもたちが遊べるゲームが出てきたよ、と。
──PCの高価さでいうと、キム皇【※】さんが「Apple II」の互換機を13万で買わされて、「仕事あげるから大丈夫だよ」みたいに言われたとか……。
※木村初氏:『ジャングルウォーズ』シリーズや『メタルマックス』などのゲームに携わったことでも知られるゲームクリエイター、ライター、作家
鳥嶋氏:
それはあれだね、さっき話したように堀井さんたちがエニックスのゲームコンテストの賞でアメリカに行くってなったんです。そのとき、僕も行きたいから企画を作って、集英社にお金を出してもらって一緒に張り付いていったんですよ。
そこで買ってきたソフトを誌面のゲーム特集で見せないといけないんだけど、日本語のマニュアルも用意されていなかったので。だから「LOGiN」の副編集長に来てもらって、お金を払ってプレイしてもらって、それを撮影するという(笑)。僕と堀井さんは後ろから見て「面白そうだな~」なんてね。
堀井氏:
ちょっとした和訳がついてはいたんですが、ぜんぜん訳になっていなくて(笑)。辞書を引きながらでも意味が分からなかった。
鳥嶋氏:
当時、「Apple IIe」っていうゲーム機が並行輸入されてはいたんだけど、58万円もしてとても買えなかったんです。そうしていたらある人から情報が回ってきて「鳥嶋さん、とある秋葉原のお店の地下に行くと13万円くらいで買えますよ」なんてね。これだ! って言ってみんなで買いました(笑)。本来ならリンゴのマークがついているところに何も無いから、それぞれリンゴのシールを貼っていましたね。そのときのエピソードだと思います。
──それで皆さんで『ウィザードリィ』を遊んでいたっていうことですもんね。
鳥嶋氏:
楽しかったですよ(笑)。その後にはお茶の水の駅前のマンションの一角に、並行輸入でソフトを撃っているところを見つけて『ウルティマ』とかも手に入れました。それも堀井さんたちと一緒に遊びましたね。
プログラミングの知識も少ないまま、“なんとなく”作ってしまった『ポートピア連続殺人事件』
──ファミコンの特集が「ジャンプ」で行われているころって、堀井さんはすでに『ポートピア連続殺人事件』の制作に入っていく時期ですよね?
堀井氏:
そうですね。やはりマンガ家志望だったので、コンピューターゲームのインタラクティブ性を使ってお話を書いたら面白いんじゃないかと思って作りました。
──初歩的なところで申し訳ないのですが、どうやっていちからゲームを作られていくんですか?
堀井氏:
もともと数学は得意だったので、プログラミングを覚えたんですよ。それで、なんとなくお話を作ったら面白いなと思って……。
──なんとなく、ですか!? ゲーム制作というと、あまり文系のお仕事ではないような気がするんですが……。
鳥嶋氏:
これが堀井さんのすごいところで、実は堀井さんは早稲田大学に数学で入っているんですよ。物を覚えるのは苦手とよくおっしゃっていますが、数学ならば公式をいくつか覚えればできる、ってね。
僕自身は逆で、記憶力はすごく良い方なんですが、数学は苦手なんです。すごく対照的な人間に出会ったから、「そうか、数学ができるというのはこういう人間なのか」と(笑)。
堀井氏:
僕は怠け者なのでプログラミングを学ぶのにも全部は覚えず、要るところだけ覚えていくというスタイルでした。例えば『ポートピア』だとinput文とprint文、if~then文とか……4つくらい覚えたら作れちゃうんですよ。あとは絵を描けば大丈夫。
頭から全部を覚えようとすると、人間って挫折するんです。とりあえず必要なことだけ覚えて、あとは必要になったときに調べればいいという。
──それで作れるもの……なんですかね?
鳥嶋氏:
僕も普通は無理だと思います(笑)。
ただ『ポートピア』で思ったのは、堀井さんの書くテキストにはユーモアがあったんですよ。アドベンチャーゲームだから、短い文章がいくつも出てくるじゃないですか。基本的には単なるメッセージなんだけど、堀井さんの作品はほかのゲームと違って読んでいて楽しかった。
今日もずっとお話を聞いていてわかると思うんですが、堀井さんには「人を喜ばせたい」という気持ちが一貫してあるんですね。そのサービス精神と、テキストの構築能力が素晴らしい。だから誌面で端的に情報を伝えるというライターの仕事もできるし、なおかつそこにユーモアがあるから単なるレポートにならずに楽しく読めるってのが素晴らしい。
堀井氏:
あんまり褒められると困っちゃう。ただのおっさんなので(笑)。
一同:
(笑)。
──『ポートピア連続殺人事件』はのちにファミコンへも移植されるわけですが、この“移植”というのはどのようにして進んでいったんですか?
堀井氏:
『ドラクエ』を作る前に、ユーザーの皆さんに文章を読んで遊ぶゲームというものに慣れて欲しかったんです。それで『ポートピア』はもうPC版が完成していたし、中村くん【※】が「これなら移植できます」と言うから、じゃあまずはそれから始めようか、といった流れだったと思います
※中村光一氏:『ドラゴンクエスト』の開発に携わり、のちに『弟切草』や『かまいたちの夜』『風来のシレン』『街 〜運命の交差点〜』などを手がける
鳥嶋氏:
いきなりRPGに行くよりは、っていうお話しだったんだっけ。
──エニックスさんのコンテストを通じて中村さんや森田さん【※】に出会われたというのも、また重要なポイントですよね。
※森田和郎氏:当時のエニックスのコンテストでは『森田のバトルフィールド』を出品し、堀井氏の『ラブマッチテニス』や中村氏の『ドアドア』を超えて最優秀賞を受賞した。のちには初期のコンピュータ将棋の強豪ソフト『森田和郎の将棋』などを手がけている。
鳥嶋氏:
当時の中村くんはまだ18歳の高校生で、パソコンも持っていなかったんだからすごいよね。あのコンテストがすごいのは“プログラムをよく知らないゲームデザイナー”と、“パソコンを持っていない天才プログラマー”が同時に出現したことだよ(笑)。
一同:
(笑)。
堀井氏:
そこで森田さんに出会っていたからこそ、すぎやまこういち先生も入ってきてくださったわけだからね。
鳥嶋氏:
そうだ! 森田さんがいなかったらすぎやま先生ともつながっていないね。
──何というか、本当に神がかり的な巡り合わせですよね。
鳥嶋氏:
でも、たぶん当時のゲーム界隈にはそういう“熱”があったんだと思うよ。